「チョコが欲しい」
 いっそう近づいて赤星は言った。
「しつけーよおまえ」
 逃れるように身を引いて新庄はそう返した。
 厳しい冬とはいえ日照時間が少しずつ多くなり、二人が歩く川沿いの道は夕焼け色に染まっていた。川の水面がきらきらと橙色を反射し、 空は青と薄紫と橙色との段階的変化。赤星は時おり吹く冷たい風に眉をしかめ、いつも通り無口な新庄の隣にぴったりとひっついて歩いた。
 赤星は朝から新庄をご飯に誘ってどうにか約束をこぎ付けた。何度となく断られ、それでも延々と言い続け、やっとの 思いで首を縦に振らせた。まさに赤星の努力の賜物だった。元来自分に利益をもたらす努力は惜しまない方だったけれど、他人にものを頼んだり、ましてや 必死の思いで懇願するなどという行為は赤星にとって恥でしかなかった。そんな赤星の天邪鬼すぎる信念を新庄は呆気なく曲げてみせた。と言っても 新庄自身は赤星の信念を曲げさせたつもりもなければ曲げた気もなく、もとよりそんなものがあること自体与り知らない。 正しくは赤星が勝手にその信念をあっさりと捨てただけだった。長年貫き通してきた姿勢を一切省みず赤星はまた自分の願いを口にする。
「いーじゃねーっスかチョコくれーくれたって」
 明日は2月14日、言わずと知れた国民的行事の日。多くは女性が男性にチョコレートを贈り、愛を告げる。 赤星はバレンタインデーになんて一切関心が無かった。興味のない人間からチョコを貰ったところで食べる気がしなかったし、元々チョコは大量に食べられる ほど好きじゃない。一体今までにいくつのチョコをゴミ箱に入れて資源を無駄にしてきただろう。もちろん家族にパスすることもあったが、赤星の家族にだって チョコを一気に食べるのに限界があった。
 だけど今年は何もかも違う。厳密に言えば違うところは新庄がいるかいないかだけだけれど、それだけで全てが変わったのだ。赤星はどうしても新庄からチョコを貰い たくて、1月の半ば頃から攻撃を開始した。チョコが欲しいチョコが欲しいと会うたびに言った。言うたびにあの鋭い目で睨まれて、下手をすれば頭を殴られた。 その点からすれば今日は殴られないだけマシかも知れない。もしかするともう一押しで新庄からのチョコを手に出来るかもと、身勝手すぎる勘違いに陥る。
「チョコください」
「何で俺がやる側なんだよ。意味分かんねーし」
「そりゃ、だって、普通そーでしょ」
「普通って何だよ」
 新庄はすこぶる機嫌を悪くした。百歩譲って赤星から贈られるのは分かるとして、どうして自分が赤星に贈らなくてはいけないのかというところだった。
 赤星といるとおかしいことの連続である。ある日好きだと言われ、それ以来会うたびの告白、信じられないくらい強烈な愛の言葉の数々。 チョコにかける情熱はしこたますごいらしい。
「・・・何か顔赤くない?」
「おまえ話かけんな」
「へへ、超かわいい」
「いい加減殺すぞ」
「だから、ね、チョコ」
「・・・るせーバカ。ぜってーやんねーよ」
「こんな頼んでんのに?」
「だから頼まれたくねえんだよんなこと」
 2月14日にチョコを男に強請られるとは当たり前だが想像もしていなかった。新庄がそんなとび抜けた想像力を持ち合わせてるはずがない。一体どうして こんなことになってしまったのだろう。赤星のせいに違いないと思ってはみたものの、一時の気の迷いだとしても交際の申し込みを承諾してしまった 自分にも責任があるかも知れないと今更そんなことを思った。 新庄は考えるのが面倒になり隣の後輩なんて無視してぼんやり河川敷を眺めた。ちらほら人がいて、親子連れや犬を連れた老人、バドミントンを楽しむ カップル。学校からの帰り道、見ず知らずの人たちと同じ時間に同じ場所で同じ夕暮れを目の当たりにする。それは奇跡的と呼べる確率 かも知れなかったが、その奇跡に気づく者は二人の少年を含め誰一人としていなかった。いたずらに吹く風の冷たさが頬と耳に突き刺さり新庄は思わず肩を竦めた。
「・・・さみい」
「寒いっス」
 うっかり本当に赤星の存在を忘れそうになっていた。独り言のように口を付いて出た意味のない一言に突然言葉を返されて、 新庄はやっと赤星を見やった。独り言だった言葉は赤星によって意味を持たされ、それはその瞬間見事に会話として成立した。 河川敷の光景はまるで無声映画のようで、とても自分と同じ空間にあるとは思えなかった。独り言が独り言じゃなくなる瞬間、 それが赤星の愛情なのだと不覚にも思ってしまった。新庄がどんなくだらないことを言っても、どんなに意味のないことを言っても、 赤星だけはそこに価値を見つけ、言葉を生み、会話として昇華する。目に見えない曖昧なものが見えたような感覚だった。
「どーしたんスか?」
 無言のまま見つめられて、赤星は首を傾けた。
「おまえ鼻真っ赤」
 さっきまでの機嫌の悪さが嘘みたいに新庄が笑った。赤星は不思議がって目をぱちくりさせたけれど、それ以上にその笑顔が嬉しかった。
「あんただって耳真っ赤」
「耳痛てえ」
「・・・ねえ」
 自然界が生み出した複数の条件によって美しいグラデーションに染まる世界。その美しさの中に溶け込むように佇む新庄の姿に赤星は見惚れてしまう。
「あん?」
「・・・好きです」
「・・・るせーよ」
「あんたは?」
「何が」
「俺のこと好き?」
「知るかバカ」
「ひっで・・・手ェ繋ぎたい」
「繋いだら殺す」
「・・・あれもこれも全部嫌」
「メシは嫌っつってねーだろ。カレー食いてえ」
「嫌っス」
「じゃあ帰れ。一人で行く」
「・・・マジでひでーや」
 これ見よがしに肩を落としても、新庄はまた笑うだけだった。赤星はその表情に子どもっぽさを垣間見る。 時々見せられるそんな子どもっぽさに、赤星は飽きもせず繰り返し繰り返し恋に落ちた。飽きることが出来ればどれだけ良かっただろうと 思うほどに、赤星は何度も何度も新庄に魅せられた。
「カレーでいいからチョコくださいよ」
 途端に新庄の顔が不機嫌そうに歪んだ。せっかくの上機嫌を損ねてしまった。しまった、と思うもどうしても明日に新庄からチョコを贈られたいのだ。 赤星は好きだと何度言葉にしたか分からない。今までこんなにも必死になって自分の想いを伝えたことは確実に無かった。必死で無様で執念的で、感情一つで 気が狂うんじゃないだろうかとさえ思えた。そんな想いを何度となく言葉にしても、それを余さず受け取ってもらえたことが無かった。それでも生まれて初めて 抱いた誰かを心から想う気持ちをどうしても伝えたくて、赤星は言葉にすることを諦めようとしなかった。そんな執拗な努力が実ったのか、赤星は新庄の隣に いることをいつしか許されていた。それは狂喜に値し、それと同時に不安を生み出した。新庄が何故隣にいる権利を与えてくれたのか、赤星は知らない。 一度だって好きだなんて言葉を聞かされたことがないのだ。だから2月14日に固執した。この日にチョコを貰えさえすれば、不安なんて簡単に消え去るに 違いなかった。
 どうにかご機嫌を取り、その上チョコについての話し合いを推し進めたかったのだが、何を言っても新庄は鬱陶しそうに睨んでくるばかりだった。


 黙って押しかけるなんて女々しいかもしれない。実際女々しいんだろうなと赤星は電車に乗り込む瞬間ため息を吐いた。だけど引き返すことは出来なかった。 今日という愛の日に新庄はこともあろうか普段通り部活を終え岡田と連れ立って帰った行った。チョコは何個貰ったとか、告白はされたのかとか、されたなら 断ったのか、断ったならどんな風に断ったのか。ただでさえ今日は聞かなければいけないことがたくさんあるのだ。それなのに新庄は当然のごとく赤星を置いて さっさと帰って行った。赤星は深く傷つきながら一旦家に帰り、着替える気にすらならなかったのでベッドに身を投げた。それから頭に浮かぶのはただひたすら 新庄の顔だった。そして今に至る。
「超うまそーじゃーん!」
 ぼうっと新庄のことを考えていると、突然けたたましいほどの声が車両の中に響いた。せっかく頭に描いた学ランの前を全開にして、中のシャツのボタンも上から 2つ目まで外している新庄がどこへともなく消え入ってしまった。赤星は苛立ちを露に前方に座る声の主を睨みつけた。カップルらしい二人組みは赤星の睨みに 気づこうともせず、まるでこの電車は私たちのためにあるのよと言わんばかりにはしゃいだ。
「でしょ!えへへ」
「マジでーすげーさすがミカちゃん」
「えー全然すごくないよお、ただマサくんのこと好きだから作っただけだモン」
「もお、かわいいなあ。愛してるよミカちゃん」
「私だって愛してるぅ」
 彼氏は彼女が作ったケーキらしきものを絶賛し、彼女はそれを愛が故だと。沸々と湧き上がる蹴り倒したい気分を赤星はどうにかこうにか堪えた。どう考えても 新庄から何一つ与えられない自分への追い討ちにしか見えないのだ。赤星はカップルを堂々と睨み続け、この男の目は腐ってるに違いないと結論づける。 わざとらしい上目遣いと不可解なまでの瞬き、どこをどうとってもお世辞にもかわいいだなんて言えなかった。下品で計算高くてずる賢い、それが赤星の純粋でいて 率直な意見だ。この車両に他の乗客がいなかったらきっとその意見を直接言い渡していただろう。赤星は可愛いという形容詞を一番正しく使用する日本国民は 自分であると今この場で勝手ながらも決定した。可愛いという言葉には必ず純粋さと無垢さが内包されていなければならない。それはあくまで赤星の主観的分析に 過ぎなかった。どこが可愛いんだバカじゃねーのとテレパシーを送り、もうこれ以上気分を害したくなかったので再び頭の中に愛すべき新庄慶を思い描いた。


 インターホンを鳴らしたが反応が無かった。赤星は4度目を鳴らし終え、ドアノブを下に押して引いてみると何の抵抗も無くドアが開いた。 ワンルームの狭い玄関。すぐにこの部屋の主と目が合った。突然の来訪者に驚いた様子は微塵もなく、新庄はセミダブルのベッドに座ったまますぐに目を逸らした。 赤星は雑に靴を脱いで断りを得ることなくワンルームの中に足を踏み入れる。自宅のそれの次に見慣れたキッチンを横切ってベッドの脇に立った。 赤星が時間をかけてマフラーを外している間、二人の目が合うことは無かった。少し緊張しながらも、普段そうするように方膝を立てて座る新庄の横に腰を下ろした。 石鹸の香が風呂上りだと告げている。しばらくの沈黙の後、先に口を開いたのは新庄だった。
「何で制服なんだよ」
 新庄はテレビのリモコンを手に取り、数回チャンネルを変えた。控えめな大きさのブラウン管の中に外国映画が映し出された。 制服がどうかなんて話が今この場に相応しい話題だとは到底思えなかった。新庄が何を考えているのか赤星には分からない。いつもそれを知る術を求めていた。
「・・・着替える気にもなんなかったの」
 新庄は相槌さえ打たずぼんやりとテレビを眺めた。端整な男優がこれまた端整な女優に愛の言葉を囁く。男は優しい動作で女を抱き寄せ、 その頬に唇にキスをする。女は背中に手を回し、涙を流した。どうやら幸せな結末らしい。赤星はローテーブルに置かれたリモコンを手にし、赤い電源ボタンを 押した。その行為に何かを感じ取ったのだろう新庄が眉をしかめて振り向いた。そんな新庄を見下ろすように見つめて赤星は言った。
「他人の恋愛なんてどーだっていい。自分のもろくにできねーくせして」
「・・・おまえ誰にもの言ってんだよ」
「あんただよ」
 まずい、と思うより先に勝手に声が出た。ケンカをしに来たわけじゃないのだ。会いたい一心で女々しいと分かっていながら会いに来たのだ。それなのに 喜びも驚きもましてや怒りもしない。こんなにも好きなのに。チョコをくれなくて手だって繋いでくれないし、好きだなんて言ってくれるはずもなく。一緒に 帰ることだってままならない。何度も何度も好きだと言ったって、その言葉はまるで新庄を素通りしてるみたいだった。不安になって寂しくなって 恋しくなって会いに来たらこの始末だし、新庄にとって自分の存在とは一体どれ程のものなんだろう。そんな風に考えるといつだって恐怖が襲ってくる。 そんな恐怖から逃れたくて赤星は毎日どの瞬間も新庄の手を望んでいる。どう足掻いてもこの恐怖を追い出せるのは新庄しかいなかった。
「好きなんだ、もう死にたい」
 馬鹿の一つ覚えみたいに繰り返し伝えてきた言葉を呟く。何度言っても溢れる想いは胸を焦がし、痛めつけて狂わす。そんなになってもまだこみ上げて来て 幾度となく赤星を責め立てる。一瞬の間が空いて、新庄はゆっくりと体を動かし赤星の唇に自分のそれを重ねた。あまりにも突然の 出来事で赤星は精一杯目を見開くことしか出来ない。重なった時と同じくらいゆるやかな動きで唇が離れていく。極めて僅かな時間二人の目が合い、咄嗟の 行動に自らも驚いたのだろう新庄が先にその視線を外した。
「・・・なに、してんスか」
 新庄からキスをしてくるなんて今まで一度だって無い。前代未聞の事態に赤星の心臓は壊れたように高鳴った。新庄の顔が瞬く間に赤く色づく。
「バ、バッカ、てめーが変な顔するからだろーが!マジでバカだろてめえ・・・!」
 新庄は何もかも赤星のせいにする。バカなのはどっちだと言ってやりたかった、あまりの子どもっぽさに。だけどやっぱりまた、 赤星は恋に落ちるしかなかった。
 あんなにまで膨れ上がっていた不安が、まるで魔法でもかけられたかのように瞬く間に消え去った。あの不安は一体どこに消えて行ったのだろう。 その行き場さえ分からないくらいの情熱。 どれだけ冷たくされてどれだけ愛の言葉が新庄を素通りしても、刻一刻と赤星はこの恋に溺れていく。 だからこそまた想いを伝え、そしてまた不安に支配されていく。そうやって赤星は新庄の隣にい続けるのだ。たとえ赤星ほど新庄の想いが強くはなくても 赤星はそれ以外の選択肢なんて望んでいないのだから。苦しいほどの愛おしさ。新庄をまじまじと見つめ、可愛いってこの人のためにある言葉だと赤星は すっかり達観した。
「み・・・見てんじゃねえよ気持ち悪りーな」
「や、だって、可愛すぎて死にそう」
「てめーはまたおかしなことを・・・」
「いや俺ね、可愛いの使い方日本で一番うまいんだ」
 電車のカップルを引っ張って来て見せてやりたいくらいだった。もちろん勿体無くて本当は見せてなんてやらないだろうけれど。
「もっかいやって、キス」
「けっ、調子乗んな」
「乗るって普通」
 ギシ、と安っぽい音が鳴り、新庄はここがベッドの上だったということに気づいた。思わず後ずさりしたものの、壁際に設置されたベッドの上ではすぐに コーナーに追い詰められる形になる。しかしそれくらいで断念するはずもなく、今にも襲い掛かろうとしている赤星の太股に新庄の足がクリーンヒットした。
「いっ・・・何も蹴るこたーないでしょーがっ」
「っせーよてめえ。変な気起こしてんじゃねーよ」
「誘ったのあんたなのに?俺が悪いの?何もかも俺のせい?」
「一回死ね」
「その前に一回やらして」
 今まで散々恐れられてきた鋭い目を向けても、赤星には一切の効果が無い。こいつの図太さは天下一品だと新庄は思わざるを得なかった。圧し掛かる体を 押し返しながら睨みつけても赤星が怯む気配は一向に感じられない。それどころか真っ直ぐ見据えられて新庄の方が先に目を逸らす。あんなにも強烈に見つめられると 全てを許してしまいそうになった。それは幾らなんでも暴挙だ。それでもやはり、結局は許してしまう。
「・・・冷蔵庫開けろ」
「今?」
「今」
「後じゃダメ?」
「開けろ」
 有無を言わさない口調で言って、すでに赤星によって崩されつつある自尊心をささやかながら守り抜く。赤星は指示通り立ち上がり、小さなキッチンへ 向かった。自尊心が守られたということよりも、新庄の意識が捉えたものは赤星のその素直さだった。こんな風に赤星に意識を奪われる毎また自尊心が覆されていく。 赤星の愛情は確実にそして静かにひっそりと、新庄に作用しているのだ。
 冷蔵庫を開けた赤星は声にならない声を上げ、新庄へと振り返る。新庄は不機嫌そうに顔を逸らして再び頬を赤く染めた。
「・・・マジ?・・・何スかこれ」
 ラップを張られた白いお皿を慎重な手つきで抱き上げた。小さくて四角いシンプルなチョコレートケーキ。そう認識しても、何故こんなものが冷蔵庫にと不思議がる 赤星。
「も、もしかしてあんた、作ったとか?」
「まあな、知ってるかてめー、お菓子作りの奥深さ」
「まさか、て、手作り・・・!!」
 新庄は得意気になってお菓子作りについて語りだそうとしたのだが、赤星が狂ったように叫んだことによって、薄々気づいていたのだが、 自分のしたことの大掛かりさを思い知らされ、勝手にむっと唇を突き出した。ただ料理の延長線上にお菓子作りがあっただけなのに、 こんなに喜ばせることになるなんて、損をした気分だった。
 赤星はあんぐりと口を開けたままケーキに見入った。あれだけ要求しても甚だしいほどに拒否され続けたのに、用意するどころか作ってくれたのだ。 なんて、なんてありがたいことなのだろう。すっかり勘違いに陥った。
「し、死ぬほど嬉しい・・・開いた口が塞がらねー、もう思い残すことねえや・・・」
 赤星はあまりの嬉しさにひどく間抜けな顔を曝しながら、言葉を発明した人に少しだけ感謝した。この喜びを伝える術があってよかった。 たとえば好きだと伝える術があってよかった。そうやってほんの少し、今まではどうでもよかった人類の歴史に感謝した。
 不思議で不思議で仕方なかったのは新庄だった。どうしてそんなに無防備になれるのだろう?赤星は素直な言葉をためらいなく生み出す。 あきれるほどに真っ直ぐで直向な言葉。それらをどれだけ無視しても諦めようとしない。必死になって何が何でも振り向かせようとする。 求められているようで求められていない。だけど求められている。鬱陶しくて息が詰まった。それなのにどうしてか嫌だとは思えなかった。 昨日の夕暮れに感じた赤星の存在のようになかったことには出来ないくらい強く確かで。 誰かが隣にいること、誰かに想われること、その意味を新庄は赤星によって教えられたのかも知れない。
 赤星はケーキが乗ったお皿を大事そうに抱えたまま新庄の隣に舞い戻った。新庄に気に入られたいがためにさっきの発情ぶりを取り 繕うべく仰々しく姿勢を正し、新庄に向き直った。
「・・・つうか俺、食えねーかも」
「あ?何で?」
「ホルマリン漬けにして永久保存するべきでしょどう考えたって。国宝だ、いや、そんなもんじゃねえ、せ、世界遺産・・・!」
 赤星の目は本気だった。狂ったような目だ。言ってることが既に狂っている。たかがチョコレートケーキ一つでここまで狂って しまえるなんて、新庄は正直感心するほかなかった。愛されているのだと嫌と言うほど思い知らされた。
「いや、もしかして世界遺産にしたら俺だけのもんじゃなくなんの?」
「そりゃそうじゃねえの?」
 赤星は咄嗟にラップを剥がして四角いチョコレートケーキを口に突っ込んだ。誰かに取られてなんかたまるものかとばかりだった。 新庄はバカバカしいとばかりに赤星によって投げ捨てられたリモコンを拾い上げテレビをつける。
「・・・あんた天才?うまい、うますぎ、こんなうめーもんどこ探したってねーっスよ」
 新庄はどうでも良さそうに欠伸を一つし、立てている右膝に顎を乗せた。どうせ照れ隠しだろうと都合よく解釈した赤星は、 どこまで可愛い恋人なのだろうとすっかり惚れ惚れしていた。
「眠いの?」
「眠みい」
「・・・今日泊まってっていい?」
「ああ?」
「ダメ?」
「・・・勝手にしろ」
 それだけ言うと新庄は布団の中に潜り込む。あっさり許可を頂戴した赤星は浮かれた様子を隠そうともせず立ち上がった。新庄の前ではどうやったって本音を 隠せないのだ。だから言わなくていいことを言って怒らせてしまったり、時には意地さえ抑えきれず言わなければいけないことを言わずにすれ違ったり。 そんな風にして新しい傷を抱え、その痛みさえ新庄によって生み出されたものだと思うと愛せずにはいられなかった。小さなクローゼットを開けてディスカウント ショップで買ったスウェットを取り出す。必要最低限のものしか無かった部屋に赤星は自分のものを持ち込んだ。この空間に自分のものが増えていくのは 赤星にとって誇りにさえなった。広いとは言えないベッドに無理やり体を押し込めて、赤星は新庄の背中にぴったりとくっつく。隙間なんていらない。赤星が いつもそうするように新庄の頭から枕を引き抜く。いつだってそうされることは分かっているはずなのに、新庄はあくまでも枕を使った。そしてそれを 奪われるたび気持ち程度に抵抗したりする。そして赤星もいつもと同じことを言う。
「あんたはこれ」
 枕を掴む手を退けて自分の右腕を新庄の頭の下に滑り込ませた。少し下の位置にある金髪に顔を埋めると新庄が二、三度頭を緩慢な動きで左右に振ったが、 面倒になったのかそれだけすると動きは止んだ。二人はこれを毎回まいかい、そうしなければならないのだと思っているかのように 行った。
「おまえ汗臭ェよ」
「だって風呂入ってねーし。あんた超いい匂い」
「うわ、汚ねーな。入れよ」
「朝貸して」
「今入れ」
「ヤダ、勿体ねー」
「あ?何が」
「こうやってんのが」
 赤星はそう言って新庄の体をきつく抱きしめた。
「いてーなコラ」
「新庄さんは今俺の腕ん中」
 掴んだと思えばすり抜け、離れる。そんな新庄がすっぽりと腕の中に納まる。もちろん新庄の方が大きいのだから足は大分とはみ出しているけれど。 赤星が一番安らぐ時間。たとえばこのまま死んだっていいのかもい知れないと思うくらいに。新庄の体も温もりも命さえも、大切なもの全てが 腕の中にあるから。
「そうだ新庄さん」
「あん」
「聞きたいことがあんだけど」
「んだてめー寝かせろよ」
「いや、大事な話。超重要、国家レベルで」
「は?国家レベル?」
 新庄が面倒臭そうに顔を歪めると、赤星は神妙な面持ちでゆっくりと頷いた。
「何だよ?」
「・・・チョコ何個貰った?」
 少し躊躇うような口調で赤星は言って、新庄は無遠慮にため息を吐く。機嫌を損ねることくらい想像はしていたが、それでもやはり気になってしまうのだ。 もちろんチョコを贈られたからといって何かがどうにかなるわけじゃないかも知れない。だけどもしも可愛らしい女の子が感動的な告白で強引にアプローチ したら。新庄に限って押し切られるなんてことは無いだろうとは思っても、万が一を考えるのが愚かな人間の性だ。
「それ聞いてどーすんだ」
「いやあ、参考までに」
「ああメンドくせえ」
「貰った?」
「貰った」
「何個?」
「知らねえ」
「知らねーってことねーでしょ」
「数えてねーよ」
「10個超えた?」
「さあ?」
「コクられたりした?」
「さー」
「気になるでしょーが普通」
「したした、したよ」
「・・・マジかよ・・・」
「うるせえなおまえ」
「・・・断ったの?」
「まあな」
「何て言って?」
「もうマジでうるせえ」
 黙ってしまった新庄の耳の傍で促すように「ねえ」と言った。新庄は身を捩って赤星の体と自分の体との間に隙間を作り、これ以上答えるつもりは無いと の意思を伝える。赤星は少し離れてしまった新庄の体にすり寄った。意思表示はさて置き二人の間に隙間なんて許さない。
「ちゃんと好きな人いるって言いました?」
「おまえもう黙れ。喋んな。寝ろ」
「何て言ったんスか」
「もーいいってマジおまえ」
「そんな照れんでも。ほんと可愛いね」
「帰れよおまえ」
「俺はちゃんと言った。好きな人いるって」
 赤星はあてつけがましくそう告げるが、自分がそうしたいだけだった。新庄はやっぱり嬉しそうどころか怒りをあらわにして まくし立てる。
「て、てめー余計なこと吹聴してたらぜってーぶっ殺す!」
「余計なこと?どんな人って聞かれたから、可愛くってすげー美人で優しくて料理上手くて強がるときもあるけどそれがまた グッとくるんだよなとかは言いましたけど」
 呼び出しは面倒だし興味がないし受けつけなかった。だけど突然休み時間に名前も知らない女子生徒に捕まってしまった。 好きだと言われた。そもそも赤星は名前なんて野球部員と監督以外ほとんど知らないけれど。教頭先生の名前は うろ覚えだ。無言で去ろうとしたのだが、どうしても、言いたかった。口に出してみたかった、新庄慶とつき合ってるんだって。 だから好きな人がいると告げ、どんな人かと聞かれた時は目の前にいる女子生徒の存在なんて忘れかけて熱く語った。 本当は野球部2年の新庄慶とつき合っているのだと声を大にして言いたかった。それでも死ぬ思いで我慢した。新庄がバカみたいに 恥ずかしがっているのだ。隠して隠して、死ぬまで隠しぬくつもりらしいのだ。恥ずかしがり屋の恋人を持ってしまったばっかりに、 赤星は自分と新庄の関係を誰にも言えなかった。言ったら即刻で別れるとか、嫌いになるとか、一生口を利かないとか、新庄は平気で 言った。それが赤星にとってどんな拷問よりも拷問だということに気づきもせず、ガキ大将みたいな口ぶりで。新庄を溺愛している 赤星にはこの秘密を守り抜くことしか出来なかった。本当は世界中に言いふらしたかったのに。
「あんたは何て断ったの?」
「いい加減黙れ」
 腕に力を込めると非難の声が上がった。それでも精一杯新庄を抱きしめ、もう一度好きだと耳元で囁いた。隠すように顔を逸らした 新庄の太股辺りに足を絡める。
「てっめ・・・」
 さっきよりも強い非難。新庄は赤星から逃れるべく絡まった足を解こうとし始めた。
「しょーがねーでしょうが」
 こんなに新庄を近くで感じてるんだから元気になったって仕方がない。 我慢しているだけすごいのだから褒められてもいいくらいだ。
「この状況で手ェ出さねー俺のすごさ。・・・だからね、ちょっとだけ」
「あ?おまえ何言って・・・」
 身の危険を感じた新庄は体を捻ろうとしたが、赤星の腕と足がそうはさせない。僅かに伝わる緊張が却って赤星を煽った。首筋にすり寄って耳の後ろを舐め上げると 更に新庄は身を固くする。
「てめえ止めろっ、警察突き出すぞコラ!」
「ダメ、無理」
「やめろ、触んな赤星てめえっ」
 このまま耐える愛と耐えない愛だったらどちらが本物の愛なんだろう。赤星はふとそんなことを考えた。新庄の存在は赤星にこんな疑問をも生み出させた。 本物の愛とか本当の愛とか真実とか強さとか。だけど答えを見つけることは出来なかった。愛は確固として存在しているのにあまりにも漠然としている。 たった十五歳の赤星に簡潔な答えが出せるわけがなかった。消化できない疑問ばかり増えていく。
「・・・おまえふざけんな。床で寝ろ」
「ちょ、何もしませんて!」
 体を起こした新庄を慌てて抱き止めてベッドに沈める。赤星はまた疑問をやり過ごし、半ば強制的に新庄の頭を右腕に乗せた。分からないことがあれば 全て新庄の望む通りにすればいいのだ。それが正しくても間違っていても新庄が望むなら、どっちだって。赤星にとってそれこそが答えだったかもしれない。 とにかく耳を舐めたいとかキスしたいとかされたいとか、そういう欲求にふたをして新庄を抱きしめて眠る。
「ね」
「・・・ああ?」
「今日俺が来なかったらケーキどーしてたの?明日学校で渡してくれた?」
「さーな」
「あんだけ嫌っつってたのにさ、何で作ってくれたんスか?」
「だからてめーそうだ、お菓子作りの奥深さをだな」
 ついさっきまでの眠たげな声や機嫌の悪さが嘘みたいに新庄の声が弾む。赤星はぎょっとした。そういえばさっきも同じようなことを 言っていたけど、あれだけ喜ばせておいてまさか本当にそんな動機だったなんて誰が思うというのだろう!魔性の恋人だ。
「砂糖の量ちょっと間違えただけで失敗すんだぜ、知ってたか?まあ知らねーだろうけど」
「・・・そうなんだ」
「目分量とかありえねーし、泡立てのタイミングがやばいぐらい重要なんだ」
「はあー」
 しばらく赤星はお菓子作りのあれこれについてつき合わされた。お菓子作りになんて興味はなかったけど、何一つ聞き逃そうとしなかった。 新庄の話し方はまるで、物語を創造するかのような、音楽を奏でるかのような、とても心地良い響きで、いつまでもずっと聞いていたい とさえ思うほどだった。
 二人が目を閉じたのは同時だった。まるでずっと昔から約束でもしていたように同じタイミングで目を閉じた。通じ合ったこの瞬間を 知る時は永遠に来ないだろう。いつも愛は漠然と二人の間にあった。 明確なものは突然の笑顔や魔法のキスやわけの分からない動機で作られたチョコレートケーキ。赤星が他の誰でもない新庄に与えられた もの。二人の間を駆け抜けていく日常から赤星は大切なものを探して見つけて抱えていく。ケーキ一つで狂えるぐらいに新庄を愛する 赤星にだけに出来ることだった。
「おやすみ」
 目を閉じてから少し時間を置いて新庄は言った。赤星はおやすみなさいと精一杯の優しい声で言って、新庄を抱きしめている腕の力をほんの少しだけ強めた。 そうすることでこの満たされた時間を共有しようとした。そんな思いが伝わったのか新庄の体の力が抜けて行き、赤星の腕には愛しい重みが増した。
 時計の針が午前0時を指し、誰が止めるわけでもなく愛の日は過ぎ去った。 けれど二人の終わらない時間は続いて行く。駆け抜ける日常の中、不安さえ忘れて。


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