愛車にまたがってあいつの生活の中心地へ向かう。休日前夜に始まる俺たちの時間。
新庄の私生活は謎に満ちてて、初めて部屋ん中入ったときは不思議な感覚だった。
テレビとか洗濯機とか冷蔵庫とかそういうもんがちゃんとあるからびびった。んでもってそれだけじゃなく、漫画、時計、爪切り、歯ブラシ。俺が持ってるもんちゃんと持ってやがって
何だか笑った。ああこいつ普通の人間なんだと思った。けどあの部屋ん中はどっか寂しい。生きるために必要なもんはとりあえずそろってるし、汚くもなきゃキレイでも
ねーありきたりな空間。なら寂しい要素を作り出すのは何だ?
それはたぶんあいつが笑ったからだ。何で一人暮らしなんだよっつったらあいつは
笑った。義務みてーにわざとらしく笑ってごまかしやがった。
そんなあいつの生きる部屋に電話もしねーで会いに行く。事前に電話するなんざナンセンスだ。電話したところで断られんのは
残念ながら目に見えてる。メンドくせーから、今岡田といるから、妹に会いに行くから。あいつの一日はかつてないほど忙しい。
だから俺はあれこれと綿密に調査してあいつの時間が空いてるタイミングをきっかり見計らって会いに行くっきゃない。
俺にここまでして会いたてーと思わせた人間は思い出すまでもなく新庄ただ一人だ。何でそこまで会いたくなるのか?
あいつと一緒に呼吸して季節を見送った何の変哲もねー日常を積み重ねたからか、連続と経過の中でこそ感情は膨らむからか、
それともただ単にあいつの存在がこの地球上で最も特別だったからか。その辺は正直自分でもよく分かんねーがとにかくわけ分かんねー
ぐらい会いてえっつー感情が俺を突き動かして、ときどき俺を苦しめたりもする。
インターホン押したくれーじゃ何の反応もくれやがらない。最終的に俺はいつもドアを力いっぱい叩く羽目になる。あいつは自分のペースを持ってて、結局俺は
そのペースに付きあわされる。
「おいコラてめー早く出て来い!」
会いたい、ただそれだけに支配されてた。あいつは分かってんのか分かってねーのかいつも焦らすみてーにゆっくり時間かけてドアを開けやがる。一発で出て来いっつったて
聞きやしねー。ようやく開いたドアの後ろにいたのは不機嫌面だった。
「・・うるっせーなてめーは」
人の気も知らねーでんな愛想のねーこと言いやがる。腹が立って仕方ねーから俺は舌打ちして暴言をくれてやる。死ぬほど会いたかった
んだっつう気持ちが言わせる反対の暴言。
「ちんたらちんたらしてんじゃねーぶっ殺すぞコラ!」
俺の本心なんてこいつはちっとも知ろうとしちゃくれねー。Tシャツをまくって能天気に腹を掻いてる。しかしそれがまた可愛いから
もう何も言えなくなる。ときどき見せる無防備さはあらゆる暴力性を呆気なく無にかえしていく。
「行くぞ」
「ああ?」
「早くしろよ」
一瞬だけ首を傾げた新庄はすぐに部屋ん中へ戻った。俺の意図を悟ってくれたんだろう。新庄は言葉の価値を簡単に曖昧にする力を
持ってやがった。最低限の言葉だけで分かってくれたとき、俺は俺の全てを許されてる気がした。全てを受け入れられてるっつー根拠の
ねー自信に満たされる。けど正反対のときもある。何を言っても分かってくれねーときだ。知ってる単語全部並べても新庄が理解して
くれねーとき俺は絶望にも近い思いをしなきゃならない。新庄は一人の人間にこうも容易く絶望を与える。それだけでも新庄がこの世で
最も特別な存在であることを証明できる。数分も経たねー内に新庄は手ぶらで出て来た。
かばんも財布も必要じゃない。少しの小銭と自転車。それだけがあれば俺たちに行けない場所はなかった。
自然発生的なルールがいくつかある。無秩序の中で生きていけたらそれこそ強いんだろーが、俺たちはまだルールに守られて生きてた。世界のほんの一部にしか
過ぎない俺たちの時間。そこにもルールは生まれる。まず自転車こぐのは俺ってこと。夜の闇が本格的に下りて来た。俺が自転車ん乗ってゆっくり進みだすと何の合図も
なしに新庄が後ろに乗る。最初はその重みにバランスを崩されたけどもうそんなヘマはしない。続けるってことには確かな未来があるってことだ。
「新庄今何キロ?」
「変わってねーよ」
「痩せろ」
「じゃあ前乗らせろよ」
「これは俺のトレーニングの一環でもあんだよ」
「だったらごちゃごちゃ言うなバカ」
暗闇は見慣れた風景を少し不自然にしてくれた。よく行く店は今の時間閉まってて終始無言を決め込んでる。すれ違う奴らの姿もおぼろげで赤の他人だってことを
更に明確にしてくれる。俺の神経は無意識的な強さを伴って新庄だけを追い始めた。
「どっから出発する?」
「こないだどこだっけ」
「薬局だろ」
「したらあっちのボーリング場」
「おっしゃ」
出発点を決めること、それが二つ目のルール。いっぺん使った地点は候補には入れない。出来るだけ同じルート辿んのを避けるためだ。俺たちはもう何も知らねーガキ
じゃなかった。だからこの街の狭さから目を逸らしたって結局ある程度は行ったことある場所、見たことある場所になっちまう。見たことも行ったこともねえ、誰も
知らねー俺たちだけの空間を探すちっぽけな旅。
夏が始まる風切って自転車を走らせる。知らない場所を目指して、通行人とすれ違って、色んな奴ら。カップルとか
親子とかサラリーマンとか、俺たちには何の関係もねー奴ら。俺の後ろにいやがるのは新庄だ。こんだけ人間がうじゃうじゃいるから確立とか可能性とかわけもなく
考えて、じゃあこいつと出会ったのは奇跡なんじゃねーだろうかとくだらねー結論を出しそうになる。新庄のぬくもりとか重みを俺が運んでる。
ボーリング場の周辺は下品なくれーに夜の雰囲気をぶち壊してた。つっても俺たちもときどきここへ来て遊んでんだけど、用がなけりゃこんなとこ邪魔なだけだ。
あらゆる音が喧騒になって俺たちをその他大勢っつー枠ん中にはめ込もうとしてた。んなもんは必要ない。俺はたった二人を望んでんでる。
ボーリング場を目の前にしたとき新庄が指を差して、俺はただその方向へ自転車を走らせる。これもルールの一つだ。
「あっち?」
「あっち」
理由も意味も価値さえない新庄の独断に全てを任せて進んでく。そこにもまたルールは存在してて、出来るだけ大通りは選ばない。他人なんていねーとこ、俺と
新庄がいればそれでいいとこ、ただそれを望んで。
「次の次右な」
新庄は勝手気ままに指令を下す。その指令どおりに行くと見飽きるってくれーに見続けてきた街並みがだんだん変わってく。ゆっくりじれったく変わってく。その
変化と同時に俺はこの世で一番大切な人間が誰だったかっつー圧倒的な感覚をちょっとずつ取り戻してく。それだけじゃねー、夏の匂い思い出したり、星の存在に
気づいたり、マジで知らねーとこに着くんじゃねーかって思惑を持ったり。そういう無駄なことを意識する。その代わりみてーに色んなこと忘れてった。
どうしても落とせねー授業の内容とか。学校のうるささとか。友達がいること親がいること大切なもんまで忘れて縛りつけるものがふいに無くなる。
今一番近くにいる男、それだけが現実的だ。俺は新庄を愛してた。愛なんて言葉にどんな重みがあるのか、んなことは知らねー。
けど俺が新庄をどんな風に思ってんのか、それを一言で説明するなら愛しかなかった。
「おまえもう限界だろ?」
「うっせ、まだまだ余裕だっつーの」
「やせ我慢」
「バ、バカにすんなてめー」
かれこれ一時間近く進んだ。正直言って足が痺れてきやがったしケツも半端なく痛てえ。けどその甲斐あって俺たちの視界に広がるのは見知らぬ風景。360度どこ
見たって何の思い出もありゃしない。記憶にない風景。日付なんかとっくに変わってて人の姿も気配すらない空間。深い夜が俺たちに与えてくれんのは限られた
自由の束の間だった。風の音がはっきり聞こえた。出発点を決めたのが俺たちなら到着点だって他の誰にも干渉されず俺たちが決める。
迷い込むに近い形で到着した場所は工場地帯らしかった。昼間はきっとすげー人で溢れてんだろうが今は見渡す限り
電気一つ点いてない。たったひと時、ここは俺たちだけの居場所になる。自転車の速度落として完全なブレーキかけたら図ったみてーに新庄が降りた。
「だー!しんど!休憩だ休憩」
地面に直接座り込んで乱れまくった息をどうにかしようと必死んなってると新庄がとんでもねーこと口にする。
「のど乾いた」
「ああ!?・・・て、てめー俺にパシらせる気だったら驚いていいか?」
俺がいくら神妙にそう言っても新庄にとっちゃどうってこともないことらしい。ポケットの小銭を俺に差し出す。しっかり、百二十円。
俺がこういうとき逆らえないのは新庄があまりにも当然のように思っているからだ。呆れて文句言う気も失せる。新庄にだけ許された
特権だ。他の奴なら殴り殺してる。俺は自分でもバカだと思うほど律儀に自販機に向かった。
「ほらよ」
「ありがとう」
新庄の礼の仕方は無邪気だった。照れもせずに言うから、こっちの方が照れる。
「ここどこだよ」
「んなこと知るかよ」
「誰もいねー」
「ああ誰もいねー。俺たちだけだ」
こういう瞬間が欲しかった。新庄の視界から俺以外誰もいなくなる瞬間。新庄がどれだけ誰かを愛し、誰かがどれだけ新庄を愛している
のかを俺は痛いぐらい知ってる。俺はこいつさえいりゃ生きていける。こいつだけいてくれればそれでいい。だけど新庄は違う。
こいつは俺がいなくても他の誰かと共に生きていく。だからほんの瞬間ぐらい無駄なもん消し去りたかった。
ぽつんとある自販機までが人類に忘れられた存在みてーに見えた。
「さっきの一軒家見たかよ超でけえ」
「あんな家住んでみてえよな」
「クソったれだぜ、あんな家」
「何で?」
そう言って新庄が首を傾げた。まるであの家を否定する理由なんてどこにもねえって言わんばかりに。
「下品極まりねえ、物質主義の象徴だ」
「・・・おまえってひねくれてるよな」
「結構なこった」
新庄はあまりにも純粋だった。俺にはぜってー持つことの出来ない純粋さをこいつは確かに持ってやがる。俺はそれを垣間見たとき
いつも不安になった。いつか、いつか俺を置いて、目の前から忽然と消えちまうんじゃねーかっつう、んなよく分かんねー胸騒ぎ
やり過ごせなかった。
「流れ星見たときある?」
「ある」
「俺もある。願いごと何か言ったか?」
「おまえ信じてんのかよ」
「信じてるっつーか反射的にやっぱ考えねー?」
「・・・つーか三回も言えねーよあんな一瞬で」
「まあ確かにな。宇宙の果てってどんなだと思う?」
「宇宙の果て?」
「そ、果て。最後の最後に何があんのか」
「・・・あと何年かしたら分かるんだろ?」
「何が?」
「宇宙がどこまで続いてっか」
「そーなの?」
「知らねーけどテレビで言ってた」
「何があんだろ」
「気が遠くなるくれーの永遠とか」
俺は不安が生まれたとき新庄の声で自分の中を埋め尽くしたくなった。だからあらゆる質問と疑問を言う。俺がバカげたことを聞いて新庄が答えてくれる。
静かな暗闇ん中見えるのは新庄だけで聞こえるのは新庄の声だけだ。そうやって俺は確かに満たされてった。苦しいほど満たされてった。新庄が俺たち以外の
存在に気づいたのはそんなときだった。
「あ。犬」
「・・・ぎゃ!」
思わず叫んだ。新庄の冷静な口ぶりに振り返ると闇に溶けて行きそうな黒い物体があった。それはそう遠くない位置から俺たちの様子をうかがうように立ち尽くしてた。
「おいで」
「ちょっ、てめー野良犬だろが!噛まれるっつーの!」
「野良じゃねーだろ。おいで」
「バカ、何で分かんだよてめーはムツゴロウか!」
「毛並みいいし。何か丸っこいし」
「おい新庄止めろってマジで。し、知らねーぞ、狂犬病だぞ、フィラリアだぞ」
人の言うことも聞かねーで小さく舌鳴らしながらまだ呼んでやがる。犬が好きなのか何なのか。こいつは普段ぼけっとしてるくせに突拍子もなくおかしなことを
やってのけたりする。恐いもの知らずっつーか何つーか。それを危なっかしいっつーんだけどよくよく分かっていやがらねーからたちが悪い。どこからともなく現れた
黒い犬は一歩近づいては鼻をひくひくさせ、また一歩近づいてはを繰り返す。ようやく新庄が伸ばしてる手の先に鼻の頭が届いた頃、俺はじりじりとそいつから
遠ざかった。噛まれんのはごめんだ。
「どっから来たんだよ」
犬は警戒してんのか最大限の距離保ちながら男の正体を見極めようと嗅覚を駆使してた。答えなんか返ってくるわきゃねーのに新庄は会話を試みる。
「飼い主はどーしたよ」
もちろん返事はない。それでも迷子かとか散歩の途中かとか言ってる。会話を望んだわけじゃなくただの気紛れだったのかも知れない。犬はとにかく新庄の匂いを
確認し続けて、ある瞬間直立してた耳を後ろに倒した。男の存在を受け入れるらしい。新庄のでかい手が大雑把な動きで犬の頭や体を撫で始めた。
「うお、手なずけやがった」
「だからぜってー飼い犬だって」
夜の中の黒い犬と新庄の姿は何故か絵になった。けどこともあろうかその犬は俺が手を伸ばしたらびびって後ずさりやがった。
「安仁屋が嫌いか?」
俺を横目に見ながら新庄の手に擦りよる。バカ犬め。新庄の手の動きに合わせて目を細めてた犬の耳が突然立った。心の声でも読まれたのかと思ったら一回ぐるっと
周囲を見渡してからある方向へ走って行った。
「何だ急にあのバカ犬」
「飼い主だろ。口笛で呼んでた」
「へえ。聞こえなかった」
新庄の世界はやっぱり、俺を不安にさせるには十分すぎるほど広い。俺が望むのはいつも小さな小さな世界だった。新庄だけいりゃ
いいんだと、他のものなんていらねーんだとわけ分かんねーぐらい思った。犬も、その飼い主も、他の登場人物なんざ必要なかった。
けど新庄は色んなことに気づく。俺以外の存在を簡単に見つけちまう。こいつは色んなもんを欲しがった。友達が欲しくて欲しくて
たまんなかった。そういうのを弱さだっつう奴は確かにいんのかも知れない。でも、それは弱さとは全く違う強さなんじゃねーかって
最近思う。悲しいぐれー、そう思う。俺にはない強さ。そういう新庄の強さが明確にするのは俺のどうしようもないほどの弱さだった。
また欲しいもん見つけて、ふらふらどっか行っちまいそうだった。危なっかしい、けど目を逸らしたくなるぐらいの強さ。
今以上を求め続ける新庄があけっぴろげになればなるほど、俺は今を永遠にしてしまいたくて閉鎖的になっていった。
だから俺はこうやってこいつを連れ出して、やみくもにこいつといたかった。残酷なぐらい優しい新庄は何も言わずにつき合ってくれる。
「おまえ今日あいつ来てねーのか」
「あいつって・・・赤星か?」
「ああそーだよ、あのハゲ」
「来てねーよ」
「あっそ」
「何で?」
「・・・珍しいなと思ってよ」
「べ、別にんな毎日来るかよ」
俺から目を逸らして新庄は言った。こいつはあのハゲの話題になるとそわそわしだす。ハゲの前だとてめーの気持ち持て余す。こいつら見てるとクソみてーに腹が立った。
ガキみてーな上手くいかねー関係作りやがって、お互い傷つけあってもぜってー離れようとはしない。純粋で愚かで苛々する。離れるっつー選択肢を知っちゃいない。
あのハゲは俺から見事に新庄をかっさらって行きやがった。殺してやっても足りねーくらいの大罪だ。
「あいつのどこがいいんだよ」
「知るかよ・・・」
「いい加減止めたら?」
「・・・ほっとけねーだろ、あいつ」
「はっ、どこがだよ。あのハゲは殺したって死にゃしねーよ」
ほっとけねーよ、もっかい小さく呟いたその響きを俺はいつまでたっても根に持つだろう。俺は新庄を愛してる。けど俺には何も
出来ない。俺に出来ることっつったら現実から逃げるように自転車を走らせて新庄の視界から擬似的に俺以外を消すことだけだ。
俺はいつかきっと生まれたときから一緒に生きてきたあいつと何気ない結婚して、新庄はいつか俺から離れてただあいつだけを見続ける、
俺に待ってんのはそういう未来だ。精一杯の力で目指す未来。俺は弱い。結局何一つ捨てることは出来ねえ。それを分かってながら俺は
新庄を求めることを止めれなかった。
「俺にしとけよ、なあ」
本気だった。新庄は「バカ」とだけ言った。俺の日頃の行いが悪いせいかそれとも新庄が鈍いだけなのか、本気の言葉は大した成果も
生まず夜の中に溶けていく。新庄はあまりにも無邪気で、俺は幾度となく傷つけられた。
「やりてえ」
あまりにも情けない声だったのか新庄は俺の目を真っ直ぐ見てから真上を仰いだ。そこにあるのは夜が誇示する暗い空と手の届かねー星だった。
一呼吸置いてそのままの姿勢で新庄は声を出した。
「一回くれーいいんじゃねーの」
「はあ!?」
「あ?何驚いてんだよ」
「お、おま、驚くっつーの!バカか!」
「てめーがしつこすぎんだよ」
「いっつも言うだろてめえ、や、八木がどうの赤星がどうのだからダメっつってよ」
「ああ、そっか」
「そっかってな・・・」
俺はここまで俺のことを相手にしてくれねー奴に出会ったことがない。女は大抵俺に惚れた。男は大抵俺に嫉妬した。新庄は俺のこと
を心から愛してくれてるだろう。けど俺だけじゃない、こいつに愛されてる人間は俺だけじゃない。だから俺は赤星を忌み嫌った。
あいつは愛されてるわけじゃない。それどころか見てるこっちが不思議なほど嫌われてる。新庄は人を愛するか一切興味を持たないかの
どっちかだ。そんな新庄に嫌われるってことがどういう意味なのか、いくらいい加減に生きてきた俺でもそれぐらい分かる。
「来い」
何もかも忘れて欲しかった。今この瞬間だけを生きて欲しかった。手近にあった路地まで新庄の手を引いた。
新庄は俺を無力にし、そして強くし、愛することの偉大さと愚かさを教え、それでも俺のものにはなろうとしない。
悲しい、それだけじゃ足りねー。これ以上の絶望を俺は知らない。気づいたら新庄を壁に追い込んでた。
「安仁屋」
「おまえん中に入れてえ」
「バカ・・・どいつもこいつも何で俺が女役なんだよ」
「・・・せーよ。あいつの話なんかすんじゃねー殺す」
「コラ・・・安仁屋・・・」
「てゆーかおまえあいつにやらせてんの?」
「ちょっ・・・おまえ本気かよ・・・」
「くっそ・・・胸くそ悪りーな・・・どうやって触られた?」
「安仁屋・・・」
「今だけ俺のもんになれ」
「ん、止めろって・・・」
「誰もいねーんだ。誰も見ちゃいねー」
今日だけでもいいから俺のだけのもんになってくれんだったら死んだってよかった。したら俺の心ん中知ってるみてーに見透かしてるみてーに新庄は呟いた。
「見てるよ、空が見てる」
見上げれば確かに長方形の空が俺たちを見てた。何て胡散臭せー理由だろうかと思った。けど新庄の目は真っ直ぐ俺を見据えてて、
その目の透明さに俺が勝てる見込みはなかった。俺は新庄を愛してる。新庄は俺を愛してる。全く違う原理で。
初めてキスした日の記憶が強烈に蘇った。新庄は二回目のキスだっつってた。俺は数える気も失せるくれーだった。
新庄の初めての相手は赤星じゃなかった。赤星に取られる前にやってやった。未来が決まってる分ひどいやり方で鮮烈に唇を貪った。
「キスしよう」
許しが出る前にした。重ねるだけが精一杯の、初めてのそれよりも独りよがりじゃねーキスを。愛してるよ、そう伝わればいい。弱々しくて長い長い時間二人の
唇はただ触れあってた。そこから何かを拾い集めるみてーにただ新庄を感じるためだけに長い時間ずっと。
好きだとか愛してるだとか、そういうのを声に出して伝えたことは一度もなかった。何かを恐れて、それでいて何も恐れてない、
たぶん二つの意味から伝えようとしなかった。何の変化も見込めねーくらい無力で、それでも消えないくれー俺の中にある感情は無敵だった。
あのどっか寂しい部屋に赤星の所有物が増えていくのを俺に止める術はなかった。日を追う毎にあの部屋には赤星の気配が染み込んでった。新庄の部屋は寂しさを一つ
ずつ手放して行くのかも知れない。俺の気持ちは一体どこへ向かうんだろう。叶うこともなく消えることもねーなら。
どれくらいそうしてたのか夜はその支配を手放そうとしてた。肩を寄せあって何を言うでもなく時間が流れた。もうすぐ夜は終わる。
「行くぞ」
俺が自転車をこぎ始めると新庄が後ろに乗る。
「ずっと真っ直ぐ」
俺を突き放せるほど大人じゃねー新庄が言った。優しくてきれいで残酷な声だった。俺もそうすべきだと思ってた。そうしたかった。
けど新庄は最初から分かってたんだろう。この小さな旅に終わりがあることを、俺が見たくなかった終りを新庄は見ていたんだろう。
だからこそ小さな可能性を俺に与えてくれた。新庄は唯一無二の存在だ。俺にあらゆるものを与えてく。それは痛みであり、優しさであり、
可能性であり、全てだ。
夜明けから逃げるために走った。あらゆる方向に目もくれずただ真っ直ぐ。知らない街並みの中を真っ直ぐ進めばきっともう戻れねー
とこまで行けるんだ、そう信じてた。この道の先にあるのが永遠の向こうだと疑ってなかったのかも知れない。けど俺の可能性は否定
されるに終わった。街の狭さが、時間が、自転車の限界が否定する。一本表に出ればそこは記憶にある場所だった。
「ここ知ってる」
「ああ知ってる」
今までが夢だったみてーにつまんねーもん全部思い出す。大事なもん大事な奴ら。
永遠なんてねーってこともこの世にたった二人だけにはなれねーってことも。新庄はきっと何も忘れちゃいなかっただろうことも。
俺はこんな夜明けを繰り返し繰り返し恨んで、太陽の動きには逆らえずまた生きていくしかない。けどたった一つだけ忘れることもなく思い出すこともなくずっと俺の傍に
あり続けるのは新庄を想う痛いくらいの感情だけだった。
「帰ろう」
「ああ」
何度思い知らされても俺はまた探しに行く。新庄という人間に出会い、愛してしまったから。