電車から降りた赤星は思わずうお、と悲鳴に似た声を上げた。車内のまったりとした暖かさのせいで外の寒さなんてすっかり忘れていたのだ。 そうだった、こんなに寒いんだった。たかだか三十分ほど電車に揺られていただけで冬という季節がもたらす厳しさが曖昧になった。しかしそれは暖房のせいと言うより、 赤星にとって季節がその程度でしかなかったのだと言う方が正しいかも知れない。冷たい空気の匂いに胸を締めつけられたり、まだ見ぬ春を思慕したり、そういう繊細な 感情が赤星に備わっているわけが無かった。けれど季節を愛でる気は更々無いが、冬の寒さだけは苦手だった。嫌いだと言えるかも知れない。赤星はただ寒みー寒みーと呟いた。
 駅構内を出てすぐにあるコンビニに入った。冬という季節に何か一つ風情めいたものを感じるなら、それは赤星にとってアイスクリームに他ならなかった。 冬に食べるアイスクリームはどうしてか絶品だった。アイスクリームのコーナーまで進み、一通り物色してみる。電話を入れて何が欲しいか聞いてからにしようかと も思ったが、赤星はささやかなサプライズをプレゼントしようと目論んだ。そうなればいつもは手を出さないハーゲンダッツだ。これはパッケージからして高級感が 漂っていてサプライズには持って来いだった。俺ってやっぱイイ男だぜ!そう心の中で高らかに言い、赤星はたかがアイスクリームで自画自賛して見せた。




 エレベーターを降りた時点から美味しそうな匂いがしていた。この階には幾つか部屋があるが、きっと自分の目的地からに違いないと赤星は浮かれ気分で決め付けた。 ドアの前に立つと匂いは一層存在感を強くした。どうやら大正解だったようだ。施錠されていないと分かっていた赤星は何の躊躇いも無くドアを開けた。すぐに小さめの キッチンがあり、ガスコンロの上の鍋からはぐつぐつと食欲を誘う音が聞こえていた。
「お邪魔しまーす」
 いつも通りの声を掛ける。キッチンは廊下も兼ねていて、その先の死角になっている場所から「おー」と新庄の声が出迎えてくれた。赤星は恐らくいつも通りベッドの 上でくつろいでいるんだろう新庄を呼ぶ。
「新庄さん新庄さん」
「なに」
「ね、ちょっとこっち来てください」
 一瞬の間を置いて新庄は面倒臭そうにひょいと顔だけを出した。
「あんね、ご飯にする?お風呂にする?それとも、お・れ?って一発言ってくれません?」
 ニヤニヤと笑ってそう言うと、新庄はバカバカしいとばかりにため息を吐き捨てて何も言わずに引っ込んで行った。
「あー!いーじゃねーっスか!別に減るもんじゃなしに!男のロマンっしょ!ケチ!」
 慌てて靴を脱いで上がり込むと、新庄は案の定ベッドの上に座っていた。
「裸にエプロンっつわないだけありがてーと思ってくださいよっ」
 隣にどかっと腰を下ろして半分本気で言ったら全く無視されてしまった。裸にエプロンかあ・・・とうっとり考えながら少し背を丸めて新庄の顔を覗き込むと、 やっぱり不機嫌そうに睨まれた。
「あっ、そうだ。へへ、はいコレお土産」
 壁にもたれたまま新庄は腕だけを伸ばした。けれど赤星が差し出したコンビニ袋に新庄の伸ばしきった腕は届かなかった。新庄は無言で赤星を見つめる。赤星は何を言われる でも無く新庄の手に届くまで更に袋を前に出した。興味が有るのか無いのか分からないような顔つきで袋の中身を取り出した新庄はハーゲンダッツ、と呟いた。 ミニカップのそれは抹茶と黒糖黒みつ。
「分かってんなおまえ」
「あったりめーでしょ。ていうか黒糖黒みつってウマいんスか?」
「バッカだなおまえ。人生損してんぞ。冷凍庫入れとけ」
「はーい。・・・黒糖に黒みつって、甘めーのに甘めーの合わせてるってのがどーもさ〜」
 指示通り冷凍庫にカップを二つ入れた。誰かの命令にこんなにも呆気なく従うなんて大なり小なり生まれて初めてだった。そんな素直さがまさか 自分にあるだなんて赤星は思ってもいなかった。新庄にかかった自分は一体どこまで純潔になれるんだろうと赤星はふと思った。
「新庄さん、腹激減りなんスけど」
「あと十分くれー待て。おまえちゃんとメシいらねーつってきただろーな?」
「ん。そう言や、ババアが新庄くんのサバの煮付けが忘れられないーっつってましたよ」
 新庄は大雑把なところがあるかと思えば、こういう風に几帳面なところもあった。ここで夕食をするなら母親にそれを伝えて来ること、遅くなるときは 電話を入れること。そういうルールを新庄は作った。いつだったか自分は一人暮らしして連絡なんて入れてねーくせに、と新庄に言ったことがあったが、 「俺とおまえとじゃ環境が違う」と簡潔に返された。環境が違う。赤星はその短い文章の中から必死に色んなものを見出そうとした。 それからは新庄が作ったルールを出来るだけ守った。母親に「最近のあなたは変に気を遣うから何だか気持ちが悪いわ」なんてことを言われた。だけどそう言った 母親はずい分と嬉しそうに笑っていた。新庄にあらゆることを教えられる。




 テーブルに並べられたささやかな料理はあっという間に十代の少年二人の胃の中に消えて行った。赤星はそのささやかな料理が世界で一番美味しいと褒め称える ことを忘れなかった。実際赤星の言う世界というものがどれほどの大きさかはさて置き。
「・・・邪魔だ」
「ね、風呂一緒に入りません?」
「入るわきゃねーだろ」
「いーじゃねーっスか。お願い」
「バカ、止めろ」
 洗い物をする新庄の後ろに立ってその背中を抱きしめる。水が洗剤を洗い流し、水切りカゴに食器が重ねられていく。味噌汁が入っていたお椀、麦茶が入っていた グラス、茶碗や大皿に箸。これは新庄が今まで積み上げてきた生活で、そこに紛れ込んでいる赤星のためだけにある幾つかの食器。 赤星は新庄の肩越しから目の前の光景をじいっと見つめた。新庄の領域に自分がいるんだと感じた。
 新庄は最後の一枚をようやく洗い終えた。布巾を絞って流し台の今日一日の汚れを丁寧に拭いていく。全てが終わり一息吐いた新庄がやれやれと振り返ると 待ってましたとばかりに赤星は唇を重ねた。しばらく新庄の唇を啄ばんだ赤星はハーゲンダッツ食べようと言った。
「冬のアイスって何でこうもウマいんスかね?」
「寒みーのに冷てーもん食うってのが贅沢なんだろ」
「そっか。冬のアイス最高」
 ベッドの上に座る新庄の膝を枕代わりに、その最高の贅沢を二人で分かち合った。テレビの中では今最も人気があるお笑い芸人が新しいネタを披露している。
「冬の大三角形」
 唐突にそう言ったのは新庄で、目をぱちくりさせた赤星は新庄を見上げて聞き返した。
「冬の大三角形?」
「シリウスとベテルギウスとあと何だった?」
「あー、何とか座?」
「何とか座の何」
 何、と求められて慌てて記憶の海をあれこれ探しだす。ここでぱっと答えを弾き出せたなら新庄は笑いかけてくれるに違いなかった。そんなチャンスを逃すまいと 精一杯悩んだけれど、結局何とか座以外何も出て来ない。赤星からの言葉をきっぱり諦めたらしい新庄は思考するように首を傾けた。 どうしてもっと真剣に理科を学んだ来なかったんだろうと、赤星は自分の過去をそれはそれは恨めしく思う。星座を網羅していたら新庄の笑った顔を手に出来たのだ。
「・・・プロキオン。こいぬ座」
 すんなりと答えを出した新庄はぼそりと呟くように言った。
「何で突然星なんスか?」
「冬は空気が澄んでっから」
 冬は空気が澄んでる、赤星は心の中でその言葉を繰り返してみた。冬のアイスを分かち合えたのだから、これだって分かち合えるはずだと思った。けれど 澄んでるから、その先が見えて来ない。何だかもどかしい。思いつめたように難しい顔をしている赤星に新庄は小さく笑って言った。
「冬は星が一番キレイだろ」
 赤星は星なんていつ見ても輝いてるもんじゃないんだろうかと思った。だけど新庄が珍しく優しい笑みを浮かべていたから。その笑顔の発生原因である星という言葉と 物体が、この瞬間赤星の中で特別な意味を持った。
「そーなんスか?」
「おまえ本ト、人生損してんよ」
「んなことねーっスよ。世界で一番幸せっス」
「世界は広いぞ」
「宇宙で一番幸せ」
 真っ直ぐ見つめて断言すると、新庄がむっつりと目を逸らし顔を赤くした。
「・・・もうすぐ冬が終わるな」
「好きなんスか?冬」
「好きっつーか・・・大事」
「大事?」
「冬しかねーもんあんだろ。冬の大三角形とか」
「冬のアイスとか?」
「まー、そーだな」
 新庄はアイスを一すくいして口の中に入れた。上半身を起こした赤星は一口ちょうだいとは言ったものの、唇を重ねた後は強引に舌を動かした。 気が済むまで新庄の唇を味わった赤星は、さて、アイスか新庄さんの唇、どっちが甘いでしょう?と、子どもみたいな無邪気さで言ってのけた。恥ずかしさを隠すための 仏頂面が出来上がったと同時に、赤星はもう一度甘い甘いキスをした。




 泊まらしてという要望を新庄にあっさりと却下された。肩をすぼめて歩く駅までの道のり。あんまり泊まって行くな、これも新庄に課せられたルールなのだから 従う他無かった。と言ってもそのルールは時に無いも同然となった。ただ昨日泊まった事実が今日泊まれなかった結果を生んだのだ。ならば明日は泊まれるという 可能性を生むだろう。帰宅したら新庄に電話をする事もルールの一つだった。赤星はこのルールだけは破った事が無かったし、何がどうなろうとこれからも守り続けて 行く。吐く息の白さが余計に寒さを印象付けて、赤星はぶる、と身震いをする。ついさっきまで一緒にいたのにもう新庄が恋しかった。恋しくて恋しくて仕方がなかった。 赤星の季節に向かわない分の感情が、まるで全て新庄へ向かっているような、そんな強烈さだった。
「冬の大三角形」
 少し前より特別さが加わったその言葉を呟いてみた。空を見上げると星が見える。たとえば夏の空を覚えていないから比較は出来なかった。星々は やっぱり普遍的な輝き。だけど手を伸ばせば届きそうだと思った。まるで見守られてるみたいだった。新庄が大事だと言った冬の星が、さっきまでの他愛ない会話や 新庄の声までも鮮明に赤星の中に蘇らせていく。プロキオン。こいぬ座。また一人で赤星は呟いてみた。それはすぐ傍に新庄がいるような錯覚を生んだ。 だから赤星は空を眺めながら歩き続けたのだった。
 相変わらず腹が立つほどの寒さだけれど、赤星は夜空に浮かぶ三角形を見つけた。大好きな人を強く強く感じながら。