スポーツニュースを食い入るように見つめていた。隣にいるはずの先輩がやけに静かなことにふと気づいた。この先輩は普段から物静かで寡黙に愛されているような
人だった。だけど衣擦れ音くらいは聞こえて来てもいいはずだ。テレビ画面の中でバッターが打ったボールの着地点よりも重要なことはいくらでもある。
そんな訳で赤星が振り返ると新庄はその視線に気づきもせずベッドの上で熱心に読書中だった。文字を追う黒目の清潔さが美しい。その美しさに一瞬見惚れ、
心の中にあらゆる賛辞を並べる。しかしそれを声にする気なんて更々ない赤星は未だ黙々と読み続けられている小さな本を大きな手から奪い取った。
「・・・何すんだよコラ」
本を手にしていた時の姿勢のまま黒目だけを上げた。その瞬間、現実を映した目から美しさが見事なまでに消え、読書というひと時を奪われたほんの些細な苛立ちの
色が現れる。赤星は美的な要素を奪った自分を誇り、そして憎んだ。
「そりゃこっちの台詞だわね」
「ああ?」
「・・・何で本なんて読んでんの?」
「返せよ」
「今誰と何してるつもりっスか」
「返せって」
「何で一人の世界に入るかな。意味分かんねースよ」
サヨナラ、すごい歓声が、これで四連勝、アナウンサーの声がぼんやり聞こえて来た。それらはこの瞬間に置いては全て無意味だった。
「あんた読書なんか趣味でしたかね」
「るせーなおまえは」
「何で俺といるときにわざわざ本なんスかって聞いてんですよ」
「テレビ見てろ。大人しく」
責めるような強さでそう言われた。赤星の些細な質問なんて相手にされない。質問をして、それを受けた言葉が返ってくる。そんなありふれた会話が成り立たない。
彼らの論点がずれるのは珍しいことじゃなかった。
新庄は赤星のあらゆる問いかけをやり過ごそうといつだって努力した。その根底にある感情から逃れるように。それでも赤星は目を逸らさず、真っ直ぐ求めることを
止めようとしなかった。自分から求めなければその時点で全てが終わると赤星は知っていた。
「これ破棄ね」
「何が破棄だよバカかおまえは」
新庄は冷静な口調だった。赤星が貫こうとするわがままはいつだって不思議に思えるほど直向だった。けれどそんなわがままに振り回されるのはごめんだから
冷静さを作った。それでも新庄の中に返答という義務感がじわじわと生まれて来る。いつかのような非道理さをもう持てなかった。
「だってまた読むじゃん。捨てなかったら」
「おまえテレビ見てたんだろ?二人もくそもねーよ」
「テレビっつったって、野球じゃねーっスか」
「どっちも変わんねーよ」
「変わりますよ。全然違うっスよ」
「おまえの価値観押しつけんな」
「いや、いやいや、あんた野球部でしょーが」
「だったら何だよ。野球見なきゃなんねーのかよ、ああ?」
「や、だって」
赤星に向けられたのは鋭い目だった。貫くようなしたたかさがある鋭い目。淀まない視線。赤星はこうやって睨まれるたび自分がどれだけこの先輩に焦がれているかを思い
知らされる。顔を背けると襲い掛かって来そうで、赤星は身動きが出来なかった。まるで刃物だ、鋭い目を心の中でそう例えてみた。
「だっていつも一緒に見るじゃねーっスか」
「あ?じゃー今日は見ねーよ」
確かにいつもスポーツニュースを二人で見ていた。赤星はそれに特別な興味があったわけじゃない。けれど新庄と一緒に見るという行為そのものには確かな意義があった
。
スポーツニュースを選んだのは他でもない新庄だったし、たとえば新庄が他の番組を選ぶならいくら興味がなくてもその選択をありのまま受け入れる。
そんな心構えならいつだって出来ているのに全部無駄になった。赤星にとっては二人でスポーツニュースを見ることだって一種の儀式みたいなものだったのに。
たかがテレビを大袈裟に位置づけるのは簡単だった。けれど彼が恋する相手にとってはテレビはテレビでしかなかった。
「早くかせよ」
「そんなに面白いんスかこれが」
「別に」
「お、面白くねーもんを読む必要ってあんの?」
「知らねーよ。読みたいから読んでんだろーが」
「・・・おかしなこと言う人ですね」
「おまえに関係ねーよ」
「関係あるっしょ!密接な関係が!」
「でけーんだよおまえは声が」
「・・・てゆーかマジでいつから読書なんか。これ買ったの?」
「るーせな。借りた」
「借りたってまさか図書館とか?」
「違げーよ」
「じゃー図書室?」
「川藤」
赤星の時が一瞬止まる。恋人との儀式を危ういものにしたその本の持ち主は監督だった。赤星は新庄の監督への少しばかり強すぎるであろう愛情を常々危険視していた。だけどまさか、
極めてプライベートなこの空間にまでそれが蔓延していたなんて。新庄のせいで恨むものが増えていく。こうも簡単に恋人同士の時間を台無しにしてしまう本も
監督も許せない、紛れも無い逆恨みだとしても。新庄の目に美しさを与えた監督。新庄の目から美しさを奪った自分。一体どっちが重要な人物だろう?赤星は浮かんだ疑問を
すぐに打ち消した。理想的な答えを出せそうに無かったから。
「な、なるほど。だから面白くもねーもんを健気に読んでたわけ」
「あ?」
「・・・これ読んだ後どーせ感想とか言い合うつもりっしょ。ベタすぎる」
「その発想がすでにベタすぎる」
「いーや、きっとそーに違いねー。見え見えなんスよ・・・」
「ああしつけえ・・・」
「ここが良かった!あそこがああだった!二人っきりで!」
「・・・おまえ何か変なこと考えてんだろ」
「へ、変なことってなんスか!変なことすんの!?」
「バッ・・・!するか!変なことって何だよっ」
「す、するんだ。あのクサイ奴と変なこと。・・・そんで俺のこと捨てる気なんだ」
赤星は頭の中に変なことをする監督と新庄を思い浮かべてしまった。もちろん自主的に想像力を駆使したわけじゃない。見たくも無いのに勝手に監督が現れたのだ。
そのイメージを追い払いたくても泣きたくなるほど鮮明さを増していく。彼は新庄に出会ってからというもの妄想という行為に耽ってしまう事が多々あった。
「危ねーこと考えてんじゃねー!」
「あいつがこんなもん貸すから悪りーんスよ。ま、まさかあいつ何か企んでるじゃ・・・!?」
見る見る顔を険しくさせて赤星は言った。彼の想像力がまた発揮されるときが来た。新庄が懐いているのを良いことに本なんてものを与え、それを介して自らの思想を
植えつけ、清純な少年をより一層手なずける魂胆に違いない。赤星はそんな架空の事実を一瞬にしてでっち上げた。そしてその魔の手から恋人を守るのが
自分の使命であると確信し、けれどもし本当に捨てられてしまったらどうしようと強烈な不安に襲われる。何の裏付けもない恐怖。ただ相手が好きなだけで
あらゆるものに悪意があるように思えた。監督はもちろん本やその作者なんかも。
「バカなこと言うのも大概にしろ!」
「新庄さんが急にこんなもん読み出すからっしょ!俺のこと捨てる気なんスか!?」
「てめーマジで頭腐ってんよ・・・」
呆れた新庄は大きく息を吐いた。赤星のせいで一体何度ため息を零して来たんだろう。ため息を吐いた分だけ幸せが逃げて行くというのが事実だったとすれば、
新庄が幸せになれる可能性なんてもうないのかも知れない。何もかもが狂って行くのは絶対に赤星のせいに違いなかった。
「頼むから大人しくテレビ見ててくれ」
「見ねーっス」
「メンドくせーな・・・ほら、ツーアウト満塁だってよ。いいとこ見逃すぞ」
「テレビなんかより大事なもんはいっぱいあんの!」
赤星はあまりにも真剣な表情で言い、新庄は何をそこまで切羽詰っているのだろうかと首を傾げた。その不思議そうな顔を見て赤星は小さく傷つく。
どうして何も分かってくれないんだろう。どうして自分の考えていることすべてが伝わらないんだろう。別々の人間であることはこんなにも不便だ。赤星は人よりも
自分が自分であることに確固たる自信を持っていた。彼は本気で自分を天才だと思い込んでいたし、この世の中の特別な存在であると信じて疑わなかった。そして
多少の根拠もあるはずだった。けれど新庄慶を前にするとそれがいかに儚いものかを知る羽目になる。
「わけ分かんねーなおまえは。さっきまで見てたくせによ」
「あんたと一緒に見なきゃ意味なんてない。これっぽっちもねくそったれですよねホント、あんたと見なきゃ、あんたと見なきゃ」
「ああ?」
「新庄さんと一緒に見るから意味があるんです」
赤星は同じ場所で同じことをしたかった。たったそれだけ。バッターが打ったボールの行方を二人で見届けたかった。新庄とならどんな小さなことにだって
意味を持たせることが可能だった。あのボールの着地点にだって立派な意味を持たせることが出来たかも知れないのに。新庄はそんな機会をあっさり壊した。
赤星にとってそれは無意味な破壊行動だった。けれど新庄にしてみれば全くそうじゃない。ただ単に新庄には大切なものがたくさんあっただけだった。
笑えるくらいの真剣な表情を眺めながら、無邪気さにおいては本当に類稀なる天才なのかも知れないなと新庄はふと思った。だけど今は物語の結末の方がより重要だから。
新庄は監督の好意を無駄にしたくなかった。何があっても。それに一分一秒を常に寄こせなんていくらなんでも無茶な話だ。
「分かった」
「・・・何がっスか」
「まあ確かに本より大事なことはある」
「そ、そーっスよ。そーなんスよ!」
珍しく新庄の賛同を得ることが出来た赤星は心底喜んで見せる。心の中で監督にざまーみろと毒づいた。
「まずおまえを教育すべきだった」
「・・・きょ、教育?」
目を瞬かせている赤星に、新庄はもう一度分かり易く丁寧にきょういくと言ってやった。そして赤星のうるさい口が開く前に話を続ける。
「よく聞けよおまえ。言っとくけど俺はおまえのもんじゃねー」
「は?どう考えても俺のもんでしょ」
「・・・そっから間違ってんだよ。俺は俺でおまえはおまえだっての」
「新庄さんこそ間違ってんスよ。俺は新庄さんのもんだし新庄さんは俺のもんなの」
「その考え方を直せ」
「直しません」
「直せ」
「ヤダ」
「じゃー帰れ。今すぐ」
「ぜってーヤダ」
二人はしばらく睨み合った。どちらも折れる気は無いらしい。赤星は刃物みたいな目に見据えられ少し背中の辺りがぞくぞくとした。たとえ本当に鋭い刃先で
切りつけられたとしても彼は何度だって同じことを言う。新庄さんは俺のもんだと。まるでそれだけがこの世の真実であって欲しいと願うように。
「俺が野球やめろっつったらやめんのか」
攻撃は鋭い刃先じゃなくてそんな言葉だった。赤星の眉間にゆっくりとしわが刻まれて行く。たっぷりと考える猶予を与えた新庄は、これ以上待っても答えは
出ないだろうと判断した。
「無理だろ。だから結局別々の人間なんだよ」
「・・・んなの極端すぎんスよ・・・極論嫌れーなくせして」
「元々極端な話だろーが」
「でも今のは話として成り立ちません」
「何で」
「だって野球やめろなんてぜってー言わねーでしょ。そりゃつまりただの空論っス」
「まあ確かに言わねーな。んなバカなこと」
彼らはいつしか争うことを覚えていた。二人の少年はこんなにもちっぽけな言い合いに、滑稽なまでに全てを懸けた。時間は明確に過ぎている。気がつけば
春になっていて、気がつけば夏の匂いがする。
そんなささやかな時間の経過の中で本当の言葉で言い争うことの意味を覚えていった。二人の関係はそうやって色んなことを積み重ね
、ゆっくりと時間をかけながら無意識的に変化していく。その変化に名前をつけるなら成長だった。もちろんそこには良いことばかりがある訳じゃない。
理解し合うことを覚えると同時に、それぞれがわがままになった。彼らはたった十代の少年だったから。
「とにかく、何が何でも新庄さんは俺のなの」
「おまえも分かんねー奴だな・・・」
「だって好きだから」
「・・・るせーよ」
「死ぬほど好きなの」
結局は別々の人間。不意にその言葉がまた赤星の頭の中に響いた。別々の人間。確かにそうだ。二つの肉体と二つの精神。どれほど触れ合ったとしても一つになることは
生涯あり得ない。赤星がいくら悩んでみてもそれが明確な結論だった。けれどその結論さえ凌駕したかった。せめてそんなことを簡単に言って欲しくなかった。別々である
ことに同じように傷ついて欲しかった。全く同じ痛みを共有したかった。
けれど傷を負ったのは赤星だけで、やっぱり一人だ。新庄の言葉は紛れも無い正論だった。
「別々、なんて嫌っスよ」
願うように告げる。その途端に刃物だった目が頼りなく明後日に向いた。それは拒絶と言うよりは戸惑いに近かった。表情の経過、仕草の成り行き、赤星は
数少ない新庄の一挙一動から彼なりの感情の変化を読み取ることに全神経を集中させる。それくらいのことをやってのけないと見破るなんて出来ない。新庄慶とは
それほど謎めいていた。出来る限り知りたかった。出来る限り。たとえ全部を知れなくても。たとえ一つになれなくても。だから
彼はいつも新庄を見つめる。新庄が生み出す何もかもを見逃さないように。
隠すように伏せられた目や薄っすらと赤く色づいている頬。困り果てている恋人が可愛くて仕方ない。
それは唇に唇で触れるのには十分すぎる理由になる。
「おまえっ・・・」
争いは始まりと同じように突然終わりを迎える。大人同士の汚いそれとは違い、彼らには解決も和解も謝罪さえもが必要ではなかった。ただキスを巡ってまた新たな言い争いが
勃発するだけだった。
「何で抵抗すんのさ」
「したくねーからに決まってんだろ。バカ」
「何でしたくねーんスか」
「てめーは口だけじゃすまねーから」
「はは、良く分かってんスね」
「ニヤニヤしてんじゃねーよ気持ち悪りーな」
「ちゃんと俺のこと理解してんだなーと思って」
「理解なんかしたくねーよ」
「でもしてる」
「・・・せえな」
「好きっつって」
新庄は今日何度目かのため息を吐く。気づけば紙媒体に広がる世界なんてすっかり忘れ、目の前の後輩のことで頭がいっぱいになっていた。せっかく貸してくれた本なのに。
大切に読もうと決めていたのに。やっぱり全部が赤星のせいだった。こんなにも不本意な時間を費やさなければならないのは。
わがままで自己中心的であまりにも身勝手な赤星なんかのために。その強引なまでの一途さにいつも最終的には巻き込まれていた。
だけどいくら赤星の目に切望という強さがあったとしても、好き、なんて言えるわけが無かった。新庄は誰よりもその感情の尊さを知っている。だからこそ今まで
一度だって口にしたことが無かった。簡単に言える言葉じゃない。
「ねえ、お願い」
切望の眼差しと刃物のような眼差しが向き合った。一方は相手に焦がれ、一方はその強さに応えたくなる。新庄はベッドの上からわがままな少年の手を引いた。
真っ直ぐな視線から目を逸らし、何も言わないまま、曖昧な力で彼を抱きしめる。曖昧な力。それは強いのか弱いのか、一体どちらだろう。赤星は考えようとしなかった。ただ足りない
ことだけは確かだった。逞しい腕に赤星の手がゆっくりと触れた。まるで足りない分を補うように。そして静かな呼吸を繰り返した。沈黙を貫く新庄の腕の中で。
赤星の耳に届いたのは、どちらのものともつかない鮮やかな鼓動だった。