雨が降ればいいな、初めてそんなことを思った。
屋上とか教室とか体育館とか、昼食は色んな所でとる。ときどきうるさいのが絡んで来て面倒臭かった。一人でいるのが好きだったし人にしか出来ない
あらゆる接触は赤星にとって魅力的じゃなかった。つい最近、孤独という単語の意味を少しだけ理解した。
一人で食べる弁当はたいてい美味しかった。今日は屋上で、見渡す限り空は曇ってる。何よりも完璧な野球が出来ればそれで満足だけどたぶん何かが
足りないんだと思う。そんな矛盾にさえ何の疑問も持たなかった。結局のところ野球は晴れていた方がやりやすい。だから雨よりは曇り、曇りよりは晴れ、何となくそれを願って生きてきた。同じ願いを
誰かと共有したいとは思わなかった。他人はよく赤星の足を引っ張った。弁当はやっぱり最後まで美味しかった。赤星は本当の意味では一人ぼっちじゃなかった。
何度も思い出すのはあの視線だった。物理的に貫かれるんじゃないかとさえ感じたあの視線。手に入らないものは無かったし、もし手に入らなかったものがあったとしても
それは自分にとって全く必要の無いものだった。自分を信じてた。誰よりも自分を愛してた。手に馴染んだバットもボールもグローブも、そして晴れた日の空も、全てに
愛されていると信じて疑わなかった。けれどそんな自信が何だかちっぽけに思えた。あんなに真剣に睨まれたことが赤星の記憶には無かった。
雨が降ったのは昼過ぎで、天気予報は嘘をついてなかった。
一度だけ同じ傘を差して帰ったことがある。傘がないのかと聞かれてないと答えた。そしたらやるよって言われて、じゃあ送ってと言った。
新庄は面倒臭そうに「仕方ねえな」と呟いた。たぶん男同士だから相合傘は
簡単だった。赤星は小さな小さな傘のせいで自分の半身を犠牲にすることにした。新庄はほとんど降水の被害にはあわなかった。
雨は赤星の望んだとおり止む気配を見せない。
「新庄さん、傘は?」
「・・・持ってねーよ」
よく観察してたから新庄が天気に無頓着だってことは知ってる。だから自分のロッカーにこっそり傘をしのばせておいた。傘の有無はあまり重要じゃなくて、
雨はうってつけの口実だ。部員たちに感づかれないようさり気なく傍へ寄って、シャツのボタンを留めながら小声で言った。
「じゃあ今日は俺が送ってあげる」
「いい、いらねー」
「遠慮しなくても」
「一本ぐれーその辺にあんだろ」
「それ窃盗っスよね」
新庄は一瞬顔をしかめて口を開きかけた。だから赤星はそれを遮るようにして用意していた文句を正確に言った。
「こないだのお礼」
生まれてこの方、お礼なんてしたためしがない赤星が妄想に妄想を重ねて見つけた言葉。赤星は普段と何ら変わらない仏頂面をぶら下げ
ている。ここにいる誰も彼もが本当はどれくらい緊張しているかなんて分からないだろう。心臓が飛び出すんじゃないかと気が気じゃ
なかった。新庄帰んの?誰かに聞かれて、ああ、とだけ返してた。雨は理想的な降り方で地上に落ちては音を奏でた。
今日、赤星ゲートはその存在価値を失うのだ。
「やっぱいい」
正門まで無言だった新庄が今になって突然言い出した。そういう可能性は十分にあるだろうと予め想定していた赤星は少しも
驚かなかった。何で?そう聞いても新庄は赤星を見たまま何も言わなかった。
「・・・拒否する理由はねーけど受け入れる理由はあんじゃねーの」
赤星が言うと新庄はあっさりと目を逸らして歩き出した。激しい雨の音と車の騒音が支配する街。白いシャツが触れ合う距離が遠い。
新庄は真っ直ぐ前を見て歩く。雨雲が施す曖昧な闇の中でもそれははっきりと美しい姿だった。赤星は新庄の言葉を待った。何でもいいから
声を生み出して欲しかった。そうやって救われたかった。新庄ならそれぐらい簡単なはずなのに。待って、ただ待って、そうしていると
ようやく新庄の口が開いた。
「チッ、毎日まいにち雨ばっか降りやがって・・・」
この男はこの状況でそんなことを本気で考えているのだろうか?赤星は頭を悩ませた。けど、とにかく言葉を返した。
「そーね」
優しい声を出そうとしたら緊張していつも通りの声になっていた。そもそも赤星は優しい声の出し方なんて知らなかった。今生まれて初めて知りたいと思った。
何でも持ってるはずだった。自分を愛してた。新庄の横顔からは何も読み取れなかった。ただ真っ直ぐ前を見据えてる。
たとえばこういうときどんな話題を持ち出したら笑ってくれるんだろうとか、どんなことをすれば関心を持ってくれるんだろうとか、
赤星には分からなかった。だからと言って新庄の友達のように振舞おうとはしなかった。赤星が望むものはそんなありふれた形じゃ
なかったのだ。
新庄はがさつだけれど丁寧で、近づけば離れ、見つめるけど見つめ返すとふいに目を逸らす、そんな人だった。
「こないだ言ったこと覚えてる?」
やっぱり適切な会話を見つけることが出来なくてこう言うしかなかった。新庄は振り向きもしないで答えた。
「覚えてるよ」
「忘れてると思った」
「忘れて欲しいなら忘れる」
忘れる、そう発音されたら本当に忘れられた気がした。覚えていてもらう方法。生涯忘れないでいてもらう方法。一生消えない爪痕を残す方法。傷つけたり憎まれたり
、そういうのは大切にされるより簡単だって思う。赤星は吐く息の白さに自分の目を疑いたかった。
「忘れて欲しいわけねーっスよね普通に考えたら」
「じゃあ忘れねーよ」
思いやりの欠片もない声だった。それでも、同じ傘の下にいることを嫌がっているようには思えなかった。優しいのか冷たいのか分からない。どっちもなのかな、見失っているのか見つけたのかさえ
判断出来なかった。新庄の目は行き先だけを映してた。相合傘を初めてした日も同じようにどこかを見てた。
「男が好きなのかよ」
「いや、男ってか新庄さん」
「俺男だからそーゆーことだろ」
「はあ、まあ、どうだろう」
それっきり静まり返った。聴覚はまた街を支配するうるさい音を拾った。でも小さなビニール傘の下だけが別の世界のように静かだ。もともとうるさいのが嫌いだった
赤星はこの沈黙をそっと愛した。自分のためだけに作られたような小さな別世界。だけど「変な奴」と遅れて言った新庄によって現実が戻った。
もうすぐ駅に着く。
「あそこの公園」
「あ?」
「あそこの公園、屋根の下にベンチあんの」
そう申し出る他なかった。主導権というものはいつも身近にあった。チームメイトとか彼女とか、全部自分の思い通り動かして来た。だけどその絶対的な能力を
忘れてしまったのかも知れない。新庄は無言のまま歩き続けて、赤星はその先を予想出来ずにいた。だから公園の入り口に差し掛かったときは救われた気分だった。
新庄は
真っ直ぐ赤い屋根の下へと向かう。ぴんと伸びた背筋はいつ見ても屈託がなさそうだった。
赤星が屋根の下へ入ると役目を失った傘は閉じられた。先に座った
新庄の隣に赤星が腰を下ろす。二人の間に生まれたのは小さな距離で、生み出したのは誰でもない赤星だった。それでも公園にある外灯は新庄の顔を少しばかり見えやすくしてくれた。
世の中にはたくさんの意味があったんだと赤星は思った。雨降り、ビニール傘、外灯。くだらないことでも考えて発見することは楽しかった。新庄がどうしてこっちを
向いてくれないのかも少し考えれば分かった気がしたけどそれは考えないことにした。
そうなんだ、今一番考えなければならないこと、それは初めての相合傘の日にした告白のことだろう。赤星にでもそれぐらいは
分かった。好きだと言って、何だか間抜けなほど首を傾げられた。それから曖昧になって、うやむやになって、どうしたものかと思った。
新庄の頭のなさに嫌気が差したし、そんな子どもっぽさがやっぱり可愛かった。好きだ、それ以外に何を言えばよかったんだろう?
どうして何も言えないんだろう。どうして六月なのにこんなに寒いんだろう。どうしてこんな場所で足止めしてるんだろう。
バットやボールを上手く使いこなすため以外にこんなに悩んだことはなかった。
「制服、透けてる」
「・・・それが?」
「エロいっス」
ふーん、と気の無い返事が返って来た。赤星の口の中には好きだという一言が確かにあって、それを声に乗せようと奮闘し、その間も
新庄はただ雨を見てた。もしかすると向こうを走る車を見てるのかもしれないけど良く分からなかった。
こういうのを孤独って言うんだ。
赤星は生まれて初めて孤独を知った。二人きりでいるのに、ちぐはぐで、重なることも、通じ合うこともない、これが本物の孤独なのだ
と知った、知りたくなんてなかった。そんなことを思っていたら孤独は余計に明瞭さを増してしまった。
思いきったら抱きしめることだって出来る距離にいるのに。
抱きしめることも愛してると囁くことも今まで何度だってして来た。全部嘘だったから。
「雨止むかな?」
「さあ」
新庄は無感動な眼差しを空間に捧げ続ける。
「雨嫌いっスか」
ざあざあと雨降り。長いとも短いともとれる間を置いて新庄は答えた。
「雨の音は嫌れー」
音?そう聞き返すと新庄は小さく頷いた。赤星はたくさんの推測を立ててみたけれど結局もう一度聞き返すことにした。
「何で?」
「色々隠すから」
赤星は屋根の外側から延々と発生する音に耳を傾けた。雨音が隠すものは何?その答えが出る前に俺も嫌い、そう声にした。嘘をつきたかったんじゃなくて、
声にすることで事実にしてしまいたかった。
赤い屋根の下が違う世界を作ってる。
新庄が作り出す静けさは心地いい。だからこの沈黙をぶち壊すにはそれ相応の気の利いたセリフがきっと必要なんだ、そう考えた赤星は早速行動に移してみる。
「んじゃー毎日晴れたらいいね」
「・・・本末転倒だろ」
聞き慣れない言葉で否定されてしまった。一瞬、本気でこれから毎日永遠に快晴が続くのを想像してみたんだけれど。本末転倒の詳しい意味を聞こうとしたけれど、何となく
野暮なんじゃないかなと思って止めることにした。肯定じゃなくて否定だってことは分かるんだけど。
何も言えなくていつもこっそりそうしてるようにただ横顔を見つめた。この距離だとこっそりとはいかないだろうけど、気づかれた方がきっと都合が良かった。
新庄の目はまだ赤星を映さない。何もかもを見抜いてるような、それともまた何も知らないような目だった。何かを求めてくれたら何だってやってのけたのだけど、何かを
求めてるとはとてもじゃないけど思えなかった。たとえば優しい声。そんなもの持っているはずもないのに、赤星は求めて欲しかった。
寒い、そう新庄が無意識的に呟いた。本当に寒かった。梅雨という気候を憎みたかったけど、雨が降ればいいななんて思った自分がバカだったんだ、赤星は最終的に
そんな結論を出した。それから寒さの消し方を模索した。
「きっともうすぐ止むよ」
「何でんなこと分かんだよ」
「俺ね、空に愛されてんだ」
今度こそキザなセリフを言ってやった。そしたらバカだなと断言されてしまった。一体自分に何が出来るんだろう?出来ることなんてあるんだろうか?赤星は誰よりも
自分に腹を立てた。ぺらぺらと喋ればいいんだ、今までそうやって生きてきたんだ。なら、どんな単語を組み合わせたら喜んでくれるんだろう。考えれば考えるほど
何も浮かばなくて。
「バカじゃねーし。マジなんだけどコレ」
言い返したら新庄が肩を揺らして、急にどうしたのかと思ったら笑っていた。瞬間を全てに変えてしまえる小さな笑顔。
寒さの消し方を知りたい。
赤星は大きな手を握った。口の中にあった言葉を静かに飲み込んで、強く強く、自分の頼りない体温が少しでも届くように。
新庄はゆっくりと振り向いた。長い時間をかけてやっと見るじゃなく、見つめあうという行為が成立した。何だか奇跡的に思えた。街を支配していた音と
遥かなる距離があるみたいだった。
「もう帰れよ」
「・・・何で?」
「おまえ風邪引かせたらしゃれになんねえし」
最初の相合傘の日とは違う優しい声でもう一度好きだよと伝えたかった。ずっと忘れられないような優しい声で。だけどまたいつも通りの声しか出せないような
気がして、だから赤星は繋がった手に強さを加えた。二人分の体温はゆっくりゆっくり交わっていく。
「・・・明日は晴れて欲しい?」
また遠くを眺めだした新庄はまあそーかなと答えた。
赤星、自分の名前を呼んでくれた新庄の声は確かに届いた。それでも赤星は振り返らなかった。
雨が容赦なく白いシャツを濡らすけど手のひらはまだ新庄の体温をちゃんと覚えていて。
初めて誰かのための快晴を願った。