「おまえさ、何か変だぞ今日」
朝から気になっていたことをとうとう岡田が口に出したのは部活の休憩中で、その後に続いたのは安仁屋と若菜だった。
「悩みでもあんのか?だったらこの俺が相談に乗ってやろうじゃねーか」
「悩み?そーなの?」
岡田はようやく彼らの存在に気づいてぎょっとした。というのもずっと新庄と二人きりになれる機会をうかがっていて、今になってようやく他の部員たちの目を盗んで
近づいたつもりだったからだ。
「何かあんなら言ってみろよ」
気を取り直した岡田は新庄の目の前に座り心配そうに声を出した。新庄はどこかぼんやりとしていて調子外れに口を開いた。
「・・・別に何でもねーよ」
その答えとは裏腹に物憂げな表情をしている。これはちょっとやそっとじゃ口を割らないだろうなあと岡田は首をひねった。せめて二人きりなら聞き出せただろうけど
安仁屋と若菜は新庄の傍から離れようとしなかった。まったく空気の流れが読めない男たちだ。
「よし、練習終わったら俺がじっくり話聞いてやる。課外授業だ」
「ああ!?何が課外授業だ!てめーが言うと破廉恥極まりねーんだよっ!」
「人聞きの悪りーことを言ってんじゃねえ、俺の優しさは海よりも深い」
「黙れっての!話は俺が聞いてやるんだよ」
二人は新庄の話を聞く、という権利を作り上げそれを勝ち取るべくいがみあったけれど、当の新庄は彼らに目も暮れずにうわの空。それでも安仁屋と若菜は諦め
るどころか一層激しく火花を散らす。いくら相手が素っ気なくとも構いたくて仕方がないのだ。それとも構って欲しくて仕方がないと言うべきか。
「むしろ今からやってやってもいいぜ、課外授業。どうだ新庄」
「何がどうだ新庄、だっ!嫌に決まってんだろうがてめー!!」
「うるせーな、てめーはせっせとバッティング練習でもしてりゃいんだよ死ぬまで。ほら、行くぜ新庄」
そう言うなり新庄の腕を引っ張り上げようとしたのだがそれは失敗に終わった。安仁屋の手を乱暴に払いのけたのはいつの間にやらそこにいた塔子だった。マネージャーとして
事の行く末を見守っていた彼女だが、安仁屋の迷惑行為に業を煮やし正義の名の下に立ち上がったのだ。
「あ、何すんだよおまえは」
「何すんだよじゃないわ。魂胆が見え見えなのよ」
塔子は呆れたとばかりに大きく息を吐いた。安仁屋の考えていることぐらいお見通しだ。
「こ、魂胆とは何だ魂胆とは。人の厚意を侮辱すんじゃねえ!」
「たとえ厚意だったとしても新庄くんだってごめんに決まってるじゃないあんたみたいなセクハラ部長!」
新たに勃発した争いの中、とうとう俺の役目がやって来たかと意気揚々で現れたのが濱中だった。
「新庄さん!元気ないんスかっ?これ、甘いもん食ったら元気出るかも!」
濱中はどとうのごとく精一杯の台詞を紡ぎ可愛らしい小さな包みを差し出した。いちご模様のそれは見るからにキャンディだ。すると興味を引けたらしく、それまで自分の
世界に入りきっていた新庄が振り向いて手のひらを広げた。濱中は歯を見せて笑い、新庄もそれにつられる
ように小さく笑う。それを見ていた安仁屋と若菜が大袈裟な舌打をした。
「おまえは平塚のバカの面倒でも見て来いコラ!散れ!」
「そんなー!俺はただ先輩方を平等に愛してるだけで・・・!!」
「愛すな!てめーは平塚ファンクラブでも作っとけっ!!」
そこへ激しいまでの勢いで割って入って来たのは誰でもない平塚で、彼の耳は都合の言い単語だけをしっかり拾い上げたらしい。満面の笑みを浮かべて言いのけた。
「何だ!俺のファンクラブがどうしたって!?」
「ひ、平っち〜」
今岡がげんなりしながら横についている以外そこにいる誰もが相手にしなかったが、平塚はファンクラブと聞いてすっかり有頂天になっていた。安仁屋と若菜はまた
新庄を巡ってのいがみ合いを再開し、濱中はさっき渡したのと同じ小さなキャンディをもう二、三個新庄に手渡して満足げに笑う。そうこうしている内に、他の部員たち
まで騒ぎの中心へとわらわら集まって来て一段と騒がしさを増した。
「新庄は今日俺と帰るんだよ!」
「てめー勝手なこと言ってんじゃねえぞコラ!」
「何なに何の話!?俺もまぜろっ!」
「ふふ、この俺様にもとうとうファンクラブが出来てしまったか・・・!」
「ひ、平っち〜」
「新庄さん!まだいっぱいあるからいつでも言ってくださいっ!」
目の前はいつの間にやらこんなにもうるさくて、たくさんの笑顔が生まれていた。こんなに騒がれては考えることも考えられないじゃないか、とでも言いたげに盛大な
ため息をひとつ零した新庄がすっくと立ち上がった。遠くの方で「集合ー!!」と必死に声を張り上げているキャプテンの存在に気づいたからだった。
「おめーらキャプテンが呼んでんぞ」
「あっマジ?」
「ぎゃっはっは!すげー叫んでんじゃん」
「全然気づかなかったぜ。早く行かねーとまた泣くぞキャプテン」
部員たちは新庄に促されるままぽつぽつと足を動かし始めた。しかしああだこうだとやかましい声が絶えることはなく、安仁屋と若菜に至っては未だでっち上げた
権利の主張をし合って止まなかった。
「岡田くん、新庄くんどうかしたの?」
「いや、たぶん大丈夫。こんだけぎゃーぎゃーやられたらどうでもよくなるだろうから」
「ふふ、そうね。少しは静かにして欲しいもんだわ」
岡田と塔子は顔を見合わせ、タイミングを計ったかのように堪えきれない笑みを零した。
四角い教室の自分の席から眺める景色。三百六十度どこを見渡したって会いたい人はいないけれど、それでも赤星が誰かを、例えば
学年という区別を作った人物を恨むことが
なかったのは、人を恨むことは人を思いやることと同じぐらいの労力を必要とするからだ。人を思いやるための労力が赤星に備わっていたら世の中はもう少しだけの幸せを手にして
いたかもしれない。そんなこと、赤星が考えるわけもなかったけれど。四角い部屋から解放されても会いたい人に会えるという確証はどこにもなかった。
「赤星くん」
それが自分の名前であることにも気づかなかった。学校は嫌いじゃなかった。正確に言えば嫌いじゃなくなった。ここにはたった一つ求める光が存在しているから。
「赤星くんってば!」
独特の甲高い声が赤星の耳を貫き、ようやく振り返るという行為を反射的に行った。そこには女子生徒が立っていた。彼女の後ろには長い廊下があり、幾つもの教室、
階段、窓から見える校庭、中庭。赤星はそれらを静かに眺め、求める光をどこかに探した。けれど見つけることは出来なかった。どこを見ても。きっと今頃は自分の教室で
たくさんの笑顔に囲まれているんだろう。彼の周りにはいつも笑顔が絶えなかった。
女子生徒が去って行ったことにも、自分の手の中にある紙の存在にもしばらく関心が向かなかった。どうしてこの目は毎日まいにちたった一人だけを探し出そうと
するのだろうか。
赤星が小さな紙を乱暴にポケットの中に突っ込んだのを目撃したのは塔子だった。その数秒前に長い髪を隙なく茶色く染めた女子生徒とすれ違った。塔子はその女の子が
赤星に何かを手渡すところも偶然その目に納めていたのだった。
「赤星くん」
またか。赤星は思った。さっきのと区別がつかないぐらいに高い声。聞きたいのはそんな声じゃない。
「もしかしてラブレター?」
塔子は赤星の隣まで行って声を掛けた。赤星はちらりと横目でそれを確認し、それでもなお歩いた。目的地なんてあるはずもないのに。
「何がっスか」
「今女の子にもらってたやつよ」
「あー、さあ知らねー」
ぼそりとそう言った後輩に塔子は顔をしかめる。
「知らないって、ラブレターに決まってんじゃないの」
「だから知りませんて」
「見ないの?」
「見ねー」
「見なさいよ」
「興味ない」
「・・・興味がないですって?」
塔子は目をぱちくりさせた。一体どの口がそんなことを言うんだか。
「今時ラブレターなんて、きっと本気よあの子」
「・・・んなのいらねーし」
ラブレターなんてもらった日には尻尾を振って飛びつきそうな男がそれに見向きもしないなんて一体何が起きたと言うのか。塔子は大袈裟に首を傾げると共に、そんな後輩
が暗い雰囲気を背負っていることに辛うじて気がついた。
「君・・・どっか具合でも悪いんじゃない?」
「はあ?」
「可愛かったわよあの女の子。グラマーで活発そうだったし、胸だってそりゃもうすごかったわ」
「そーっスか」
赤星はまた興味も無さそうに呟いた。これは体調に異変が起きているに違いない、塔子は本格的にそう案じ始めた。あの赤星が女の子への興味を失うなんて
塔子の常識からは考えつかない現実だ。かと言って心臓に毛が生えてそうなこの後輩が病気にかかるとも思えなかった。
「何か変なものでも食べたんじゃないの?」
「別に食ってねーっス」
皮肉られているんだとは思ったが腹は立たなかった。それぐらい赤星は心ここにあらずだった。会いたい人に限って会えない。同じ場所にいるはずなのにひと目会うことさえ
許されないとでも言うのだろうか。赤星が望むことなんてたかが知れているのだ。何百人もいる中のたった一人に会いたいだけだった。
「どこまで行くの?」
塔子は場繋ぎ程度に尋ねてみた。これ以上あの紙の正体について論じても無益だろうと早々に諦めた結果だった。元々面白そうだと思って声を掛けただけで、
赤星がラブレターを貰っていてもいなくても塔子には関係なかった。
「屋上っス」
「そう。サボるわけね、授業」
「まあ」
「どうして?」
塔子はおおよそ意味の無い質問だと言いながら思っていて、それを聞いた赤星もほぼ同じ風に思っていた。しかしお互いがお互いに無関心なのだから意味のある会話を二人が求めて
いるはずもなかった。ここで本音をさらしたところで何がどうなるわけでもないのだ。それをわきまえているぐらいに彼らは大人だった。だからこそ赤星は考えてみる。
どうせ何を言っても変化なんて起こらないんだから。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。どうして以前よりも授業がつまらなく感じるのか、どうして確証のない偶然を求めてしまうのか、どうして
こんなにも胸が苦しいのか。答えることなど簡単だった。
「会いたい人に会いたいから」
あまりにも自然な口調だったものだから塔子は危うく聞き流しそうになってしまった。でも彼女の耳はしっかりとその発音を捉えていた。塔子は大きな目をまた一段と
大きくして赤星を見つめる。初めて隣にいる後輩が正真正銘の人間に見えた。たった十五歳の、自分と何ら変わることのない少年に見えたのだ。
会いたい人って誰?そう聞こうとした時にはもう少年は背中を向けていて、屋上へと続く階段を上っていた。
足音が聞こえて来たのは眠りにつこうとした時だった。そしてドアのチャイムは鳴った。新庄は寝返りをひとつ打った。抱きしめている布団の厚みが心地良くて立ち上がる
気なんてこれっぽっちも持っちゃいなかった。離れていく足音は聞こえてこない。ドアの前にいるはずの人物はうんともすんとも言わないで新庄を待っている。
たった一回きりのチャイム、何故その音はあんなに悲しく響いたんだろう。かくして新庄は布団の存在感を手放す羽目になったのだった。
ドアを開けると悲しいチャイムを鳴らした犯人がそこにはいた。まるでそこにいるべきであるかのように赤星は平然と立っていた。時々赤星の行動が自分の理解の域を
越えることに新庄は気づき始めていた。一体こんな時間に何の用だっていうのだろう。
二人はしばしお互いの顔を見つめあった。そうしていることに意義を見出せなかったのは新庄の方だった。
「何してんだよ」
「着替えて来てよ」
新庄はあからさまに眉をしかめた。まったくもって意味の分からない後輩である。こんな時間に訊ねて来て、その第一声がこれなのだから。真っ当な会話をしようという
心がけを少しは持って欲しいものだ。
「意味不明だろ」
「だから着替えて来てって言ってんスよ」
「何のために?」
「流星群見に行くの」
新庄は瞬間的に眉をしかめた。それから考えを元に戻し自分の無口さを棚に上げ、この男に真っ当な会話を求めたこと自体馬鹿だったんだと新しい真実を知った。
ドアを閉め鍵をかけ、またあの気持ちいい布団の中にもぐりこもう。そう一瞬にして計画を立てたら赤星が新庄の腕を掴んでそれを阻んだ。
新庄のささいな計画は遂に壊されてしまった。
「いーや、別にそのまんまでも。寒くなったら俺の上着かしたげる」
「ああ?コラてめー離せ」
「早く行きますよ」
「おまえバカかよ、何勝手なこと言ってやがる」
新庄は容易く赤星の腕を振り解いてみせた。触れ合っていた部分を赤星の目が心細そうに見つめた。それがたとえ自身の体だったとしても取り上げたのが自分だということ
は明白だった。何かを奪うというのはとても後味が悪かった。だからと言って赤星のたわ言にいちいちつき合っていたら、こっちの都合なんてもちろんお構いなしでいつか
地球の果てまで行こうとも言い出しかねない。赤星なら本当にやってのけそうで新庄はぞっとした。
「行くか面倒くせー。突然わけ分かんねーこと言い出すんじゃねーよ」
「わけ分かんなくねーし。すげーロマンチック」
赤星にロマンチックだと言われて納得する人間が一体全体どこにいるっていうのだ。新庄がそう訝っているとまた腕を取られた。赤星にも人並みの学習能力が
備わっているらしく、掴まれた部分には痛みさえ生じた。もう簡単に振り解くことは出来ないだろう。
赤星はいつも必死だった。この痛みを感じるよりも先に、
訳の分からない言動に潜む必死さには何となく気づいてはいた。いつも突然目の前に現れては良く分からないことを真顔で言ってのける。一体何をどうしたいのか、
何を求めているのか。本当の理由なんて知る由もなかったけれど。
新庄は諦めの代わりであるかのようにやけになった。流星群でも何でも
見に行ってやる。ちょうど下駄箱の上、手を伸ばせば届く位置にカギがあったのもそのやけを助長したのだった。
「どこでも行ってやろうじゃねーか」
バカかおまえは。それが新庄の答えだった。
「タクシーで行くっつっただけっしょ、バカとは何スか」
「バカだろ。高校生のくせしてタクシーなんか乗ってんな」
事ある毎に否定されてしまうのが気のせいだったらどれだけ良かったか。赤星は下唇を突き出した。他のことならまだしも流星群なんていうロマンチックなものを見せてあげようと思っただけなのに
素直に賛成してくれなかったし、その次は移動手段でさえ否定の対象になる。自分だって高校生のくせにひとり暮らしをしてるじゃないか。タクシーとひとり暮らしに違いが
あってたまるもんか。
「んなこと言って自分はひとり暮らしじゃん」
「あ?それがどーしたよ」
「高校生のくせしてっつったのあんたでしょ」
「全く別問題だろ」
「んなの全然納得いかねーし」
「納得しろなんていつ言った」
「・・・じゃあ何だって言うんスか」
「タクシーなんか乗るかっつってるだけ」
「したらどうやって行くのさ。電車なんてもうとっくにねーもん」
「自転車か歩き」
歩いて行くなんて無謀に決まってる。かと言って自分の案を押し通そうとすればきっと新庄はすんなりとアパートの中に消えて行くのは分かってた。選択肢はあってないようなもの
だった。そもそも最初から赤星には選択肢なんてひとつもなかった。
「言っとくけど自転車じゃ何分かかるか分かんねーっスからね」
赤星は言った。全ては成るべくしてそうなったかのようだった。恋に落ちたあの日からずっと選べる道なんてなかった。恋をするかしないか、そんな選択肢があれば
呼吸する難しさも大事さも知らずに済んだはずだった。
好きになったのが間違いだ、そうやってお手軽に後悔出来たら楽だった。
二人が辿り着いたのは山の中にある高台の広場だった。だだっ広い場所を外灯が辛うじて照らしていた。その明かりがなければあまりにも不気味で暗い場所だ。これが夜が作り出す暗闇の支配力だった。だけどその暗闇を求めてこんな所まで
わざわざやって来たのだ。赤星が息も絶え絶えに自転車から降りたのは格好をつけて前に乗るなんて言ったからだった。
「死ぬ、死ぬ、マジで」
地べたに座ってうな垂れている赤星を見て新庄はやれやれと息を吐いた。それから真上を仰いだ。ずい分と上ってきたんだとすぐに分かった。新庄が見る先には日常では
まず目にすることが出来ないだろうほどの広い空があった。あまりの大きさに眩暈を覚えそうだった。けれど問題はそれがどこからどう見たって星空だとは言えないことだ
った。
「おまえ何しに来たんだっけ」
「な、何ってだから流星群」
「残念だな、曇ってる」
新庄に倣って空を見上げた赤星が絶句したのは言うまでもない。彼の目に飛び込んだのははっきりとしない薄い膜のような雲。まるで星たちを隠したがっているみたいな
雲だった。こんなはずでは、と次の瞬間絶叫がこだました。
「・・・しっ、信じらんねー!さっきまで晴れてたっつーの・・・!」
「見事に曇ってんじゃねーか」
「何で!?晴れてたよね、晴れてたっスよっ・・・」
「流星群どころの話じゃねーな」
新庄はのん気に言った。この現実を受け入れられてしまったらもう返す言葉なんてないじゃないか。折角ここまで来たというのにあまりにも酷い現実だ。激しく降る流星を
見せてあげたかっただけなのだ。テレビのニュースで見たあの映像があまりにもすごいものだったから。キャスターは今日のこの時間帯が一番流星群の活動が活発になるんだって
言っていた。それを一緒に見てみたかった。ただそれだけなのに、それさえも叶わない。こんなのってあんまりだ。
「んな落ち込むな」
「だって・・・さっきまであんなに晴れてた・・・」
赤星はがっくりと肩を落とした。新庄は少し不思議だった。赤星が流れ星ぐらいでこんなに落胆するとは夢にも思っていなかった。この男にも人並みの感情ってものが
あったのか。晴れていようが曇っていようが、雨が降ろうと槍が降ろうと野球さえ出来ればそれでいいんだと思っていた。これは歴史的発見に属する事実かも知れない。
「そんな見たかったのかよ」
「見たかった」
「おまえも人の子だったんだな」
「何スかそれ・・・何だと思ってたの?」
「何って、新種の人間とか」
「あんたときどきおかしなこと言う」
「おまえ見てたらそう思う」
「俺ってそんな普通じゃねーの?」
「普通じゃねーよ」
「・・・あんただって十分普通じゃねーっスよ」
「俺はいたって普通だ」
普通?一体どこが。同意なんて出来るわけがない。新庄はどこもかしこも普通じゃなかった。少なくとも赤星にとっては全てが特別だった。暗闇の中、隣にいる
男を見つめた。新庄はじっと空を見つめている。会いたくて会いたくて、胸が苦しかった。その苦しさを消すためには新庄に会うしかないはずだった。それなのに
まだ明確な力によって胸は締めつけられている。恋の痛みを初めて感じた。少しでも何かを伝えるべきだと思った。
だけど実行に移すのはあまりに難しいことだった。
「帰ろ」
赤星は言った。星は見えず、雲も晴れない。何も伝えることが出来ない。ひどく恥ずかしかった。きっと呆れられたに決まってる。そう思い込んでいたから
新庄の言葉に驚くことになった。
「帰れ。俺はもうちょっとだけ待ってる」
「・・・待つって何で?」
「晴れるかも知んねーから」
「・・・無謀」
「無謀でも何でも待つっつったら待つ」
新庄はそう言ってばさばさに伸びている芝生の上に寝転んだ。無理やり連れ出したのは赤星の方なのに、今では新庄の方が流星群を見ようとしている。これだから普通じゃないと思うんだ。
新庄の行動様式の方がよっぽど一貫性が無いじゃないかと赤星は思う。
「んな見てーの?乗り気じゃなかったくせに?」
「るせーよ。今が二時。三時ごろから降り始めるからあと一時間」
「何でそんなの知ってんの」
「大体そんなもんだろ」
「嘘くせーっスよ」
「嘘なんかつくか」
「流星群なんて俺見たときねー」
「おまえは野球バカだからな」
「それって褒めてんの?」
「どーだろうな」
赤星は新庄の隣に横になった。そして空じゃなく新庄を見つめた。明るい太陽の下だったらこんなに大胆なこと出来なかった。暗闇が赤星の味方になった。新庄は
赤星を一瞥してまた空に視線を戻す。
「そんなんじゃ流れても気づかねーぞ」
「空が晴れたら教えて。ねえあんた寒くねーの?」
「寒くねー。ちょうどいい」
広場の向こうを時折車が通って行った。どこかへ向かう人、我が家へ帰る人。こんな時間こんな場所で、雲が晴れる瞬間を待っている二人の少年のことを誰も知ること
はない。流れ星を見ようというささいな目論み。晴れて欲しいという小さな小さな二人だけの願い。
「昨日何で元気なかったんスか?」
昨日?と新庄は鸚鵡返しに答えた。昨日、赤星だって気づいていた。しかしそれよりも先に他の部員が新庄に声を掛けた。だから彼は
あの騒がしい光景から目を逸らした。たったそれだけのことだった。別に元気づけてあげようとか慰めてあげようなんて思わなかった。今になって聞いたのだって新庄が
どんなことで元気を失くしてしまうのか知りたいからだ。赤星に他人を慰める手段が身に着いている訳がない。だけど世界というものは常に動いて、昨日なんてものは既に過去だった。自分を中心にしか物事を
考えない赤星がそのスピードについていける訳がなくて。新庄は思い出すという行為を強制的にしなくてはならなかった。
「ああ、そう言やそうだったな」
「忘れてたんスか?呆れた」
「せーな、昨日は昨日」
言い訳がましく新庄が言った。赤星はずっと見つめていた昨日という日を切り捨てられた気分になった。自分ひとりが未だに昨日を生きていたような錯覚。
新庄がどうして忘れたのか、それがどれだけ幸福なことなのか、赤星には推し量る方法さえない。少しの沈黙が生まれたけれどその静けさはすぐに破られた。
「何でんなこと聞くんだよ」
ひとつ吹いた風に明るい色の髪が揺らいだ。赤星は数秒を考えることに費やして、結局こう言った。
「面白そうだから」
新庄は晴れるのを地道に待ちながらどこがどう面白そうなんだろうと考えてみた。彼だって訳の分からない後輩のために時間を費やそうと挑戦はする。だけどすぐに結論は下され
て、結局のところ分からないものは分からないのだから仕方がない。面倒になった新庄は簡潔に答えた。
「妹にフラれたから」
「妹・・・」
赤星は不思議そうに呟く。妹がいることは知っていたけれど新庄の私生活とは至って謎に包まれていた。本人の口から語られることはほぼなくて、妹という単語を
声にした新庄がまるで別人みたいに思えてならなかった。
「フラれたって?」
「・・・流星群、ニュースとかで流れたらいつも見ようっつってくんだ」
「そーなんだ・・・」
辺りの暗さに慣れた赤星の目は長い睫毛をはっきりと捉えていた。新庄は隣にいる後輩の落胆に気づくこともなく話を続けた。
「けど今日は言って来なかった」
誰も考えつかないようなことを二人でしようと赤星は企てた。それが流星群を見ることだった。偶然見てたテレビのニュース。あれを目にしたときこれだと思った。
流れ星の美しさに見惚れる美意識なんて持ってなかった。それでも新庄と二人で目撃したのならそれはきっと特別なことになるに違いないんだって考えた。だけど新庄は妹と
幾度も見て来たのだ。ロマンチックな光景を目の当たりにして驚く顔を見てみたかった。
「自分から誘わなかったの?」
「・・・明日遠足だからぜってー寝坊したくねーんだって」
赤星は数秒間黙りこくった。それから言った。
「それだけ?」
「あ?」
「それで元気なかったの?・・・くっだらねえ」
「るせーよ」
「・・・妹のこと好き?」
「ああ?そりゃ好きだろ、家族なんだから」
「愛してる?」
唐突にそう聞かれ、目線を曇り空から引き剥がして赤星を見た。愛してるって言葉はひどく聞き慣れない音を持っている。
「愛してるよ」
赤星は慎重に呼吸した。胸の苦しさがまた強くなった。一人っ子である彼が妹を愛する気持ちなんて分かるはずなかったし、愛という感情に種類があることさえ
知る術もなかった。ただその声の先にいるのが自分だったらどれだけ幸せだっただろうかと赤星は思った。流星群を観測するという行事が新庄と妹の間にはあり、
赤星が干渉出来ないことがきっと兄と妹の間には当たり前のように存在しているんだろう。新庄が言った愛してるという単語には何の迷いも感じられなかった。
「俺がいる」
「ああ?」
「俺が一緒に見てあげるから」
赤星は新たに生まれた願いを口にした。自分と新庄の間に毎年流星群を観測するという行事を作り上げたいだけの願望。隣にいる男がこんなの望んでいないことぐらい
分かっていたのに、ちゃんと分かっていたからこそ、強い口調で言った。
「別に頼んでねーよ」
「・・・頼まれてはねーけど」
「腹減った」
「・・・俺もっス」
「何かねーのかおまえ」
「何もねーっスよ」
「こんな時間まで起きてたら腹減るって分かるだろ」
「自分だって何も用意してねーじゃん」
「連れて来たのおまえだろうが」
「そーだけど」
「次からこういうときは何か持って来い」
何てこともなく新庄が言い、赤星はずい分と困惑した。一体何を思っているのか、すぐ傍にいるというのにその男が何を考えているのか赤星にはさっぱり読み取れなかった。
果たして次の機会を作ってくれるのかくれないのか。他の誰のものでもない自分の未来、それを想像することがこんなにも難しいことだったなんて。だったら直接聞けば
いいんだと、それぐらいは分かってる。けれどその先を恐れた赤星は単語を選んだ。もう何度もこうしてあらゆる声を飲み込んで来た。
「寂しいんスか」
「何が?」
「妹」
「・・・寂しいっつーか、そんなんじゃねーけど」
「じゃあ何スか?」
「変わってくんだなと思ってよ」
「・・・変わってく?」
「そう、変わってく。時間は止まってくれねー」
「例えば?」
「・・・おまえとこんなとこにいるのだって想像もしてなかった。そういうこと」
まさかこんな時間にこんな場所で赤星と新庄が流星群を待つことになるなんて、確かに誰もが、そして本人たちでさえ予期せぬ出来事だったはずだ。明日のことなんて誰にも
分からない。だから苦しくても辛くても辿り着こうとするのかもしれない。
雲がずっとそこにあり続ければいいなと赤星は考え始めた。見ることの出来ない流れ星をこのまま二人で待ち続けていたかった。夜明けが来ても、次の夜が再び暗闇を
掲げても、馬鹿みたいにずっとこのままでいたかった。雲が切れるのを待つ素振りをしながら、ずっとこのまま。だけど時間は正しく経過していて、風は真っ当に流れ、二人の頭上から
的確なまでに雲を消した。
「あそこ、雲切れて来た」
新庄はすっと指差して言った。二人だけの小さな願いは今叶い、赤星は生きていくうえで逆らえないものを知った。時間は止まってはくれなかった。
二人はほぼ同時に「あ」と声を上げた。その星屑は誰かに見られるために流れたんじゃないことが分かるくらいに音もなく弧を描いた。ちゃんと目を凝らしていないと
見逃してしまうぐらい静かに。それが闇の中に消えた後、どちらともなく振り返ってお互いの目を見合った。何気ないそんな仕草にまた胸を締めつけられた赤星は、新庄の
頬に触れたいと思った。強く思った。けれど赤星の腕が動くよりも先に新庄が言った。
「見たか?」
「・・・見た。すげー一瞬だった」
「きれいだな」
赤星が頷くと新庄は満足気に笑い、降る星を見逃すまいとまた視線を元に戻した。真っ直ぐに空を見つめる横顔。その純粋なまでの表情から目を逸らせず、
あの時触れていたらどうなっていただろうと赤星は思った。けれどそれもまた闇の中。だけど笑ってくれたから。
いつも通りうるさい休憩中、向こうの方で今日も部員たちがいざこざを起こしていた。しかし塔子はバカバカしいとばかりにそれを一瞥しただけだった。一つ一つ止めに
入っていたら幾らなんでも身が持たないと彼女は常に上手く立ち回っていた。
「赤星くん、暇だったらこれ持ってくれない?」
どうしても今日中に磨いておきたいボールがあった。それはかごの中に一杯だった。そこに丁度ぼんやり座り込んでいた赤星を見つけた。彼の視線の先を確かめた塔子には
ついでに聞きたいことがあった。
「何で俺が」
「一人でぼうっとしてるんだもの」
「休憩してんスよ」
「いいじゃないの、ちょっとそこまで運ぶだけよ」
赤星はこれ以上相手にしないと言わんばかりに口を閉ざした。塔子はにっこりと笑った。
「あのこと新庄くんに言われたくなかったら手伝ってちょうだい」
「・・・あのことって何スか?」
後輩の眉間に出来たしわを見て男の愚かさを達観する。そして丁寧な口ぶりを披露した。
「部室で初対面のあたしに後ろから抱きついたことよ」
「はー、んなことしましたっけ?」
「覚えてないかしら?」
「覚えてねーっスね。日常的な記憶力が乏しいんスよ俺」
「そう、だけど残念ね、これは紛れもない事実なの。新庄くんに言ったらどれだけ幻滅されるかしらね。ほら早く持ってよ」
無感動な目線を向けられても塔子はにこにこと微笑んだ。先に折れたのは赤星で、無言のまま軽々とかごを持ち上げた。塔子はご満悦であのベンチまでと言った。その
古びたベンチまでは恐らく数十歩程度で辿り着けるだろう。
「ありがとう助かったわ」
案の定数十歩で辿り着き目的を果たした赤星にはここにいる用がなかった。それなのに立ち去ろうとした時また呼び止められ一体何の嫌がらせかと思った。けれど
それを考えることすら面倒だった赤星は素直に振り返ったのだった。
「君の会いたい人って新庄くんね?」
「何でんなこと聞くんスか」
「そんなの気になるからに決まってるじゃない」
塔子は当然だとばかりに答えた。何がどう決まっているのか良く分からなかったけど、どうせ何も変わらないんだし、そう思った赤星はすぐに口を開いた。
「そーっスよ」
「どうして会いたかったの?」
「好きだから」
即答だった。半分冗談で聞いたものだから塔子はえらく驚いてしまった。赤星は何事もなかったかのように突っ立っていた。目の前いる後輩からまさかこんな言葉を
聞くとは思ってもいなかった。あの時の感覚が確信に変わった。赤星にだってちゃんと心があって、人を好きになるなんていう馬鹿げた感情をしっかりと持っていたんだ。
どうしてだか塔子の胸は熱くなった。
「無茶だわ」
「分かってますよ」
「それでも好きなのね」
小さく呟いた。赤星は何も言わなかった。それで十分だと塔子は思った。
「君、ときどき新庄くんのこと睨んでない?」
「別に睨んでなんかねーっスけど」
「・・・もしかして、あれで見つめてるつもりなの?」
「ただ見てるだけ」
「あっきれた・・・不器用にも程があるわよ」
赤星は先輩に何を言われたっていつもあっさりと交わす。それ以上の嫌味を次から次へと言ってのける。そんな彼がまさかこんなにも不器用だったなんて。それもこれも
全部、恋をしたから。
「言わないの?好きだって」
「邪魔する気っスか」
「ごめんだけど邪魔するほど君に興味なんてないわ」
「けどあの人には興味あるんしょ」
あの人、という一言が塔子にはやけに綺麗に聞こえた。幾何の思いが込められているのだろう。
「そうね、よく分かってるじゃない」
「渡しませんから、誰にも」
「・・・それはどうかしらね、新庄くん人気あるもの」
「知ってますよそんくらい」
「じゃあどうして言わないのよ」
「別に」
「・・・こわいのね?」
ちらりと動いた黒目に塔子が映った。それは優に図星だと物語っていた。
「これだから情けないのよ男ってのは」
「どうせ嫌われてるし」
「バカね!新庄くんが仲間を嫌うわけがないでしょう!ただ必要以上に関心を払われてないだけよ」
「後輩をおとしめて楽しいっスか」
「あら何よそれ、あたしはただ客観的事実を言ったまでだわ」
塔子は全く悪びれず実直な目を相手に注いだ。赤星もその目から逃げる気配はなかった。よくよく見れば本当にただ見ているだけなのかそれとも睨んでいるのか、塔子には検討が
つかない。ほとほと何を考えているのか分からない後輩だ。分かることといえば、苦しい恋をしてることだけ。新庄は程よく赤星を好きで、強い仲間意識を持っている
に違いなかった。それが塔子の言う客観的事実だった。だけどそれがなんだって言うんだろう。それでも赤星は新庄を好きなのだ。人はこんなにも愚かだ。報われる
可能性なんてどこにも見出せないのに、それでも感情を止めることなんて出来やしない。愛する強さはこんなにも浅はかで、揺るぎないんだ。
「そう言えばあの紙、ラブレターだったの?」
「あの紙?」
「昨日廊下で貰ってたやつよ」
「ああー、知らねーっス」
「見なかったの?」
「見なかった」
「捨てたの?」
「捨てた」
塔子は「そう」とだけ言った。それ以外何も思い浮かばなかった。一縷の未練も、僅かな期待も、そこにはなかった。赤星はあの紙の正体を知らないまま捨てた。
向けられていた感情が何なのかも知らないまま。それはただ赤星が恋する相手が新庄慶だっただけの話なのだろう。
「・・・言っとくけど君は人一倍可愛くないんだから、もっと頑張らなきゃ成るものも成らないってもんよ」
じゃあ可愛かったら片想いにならずにすんだんだろうか?赤星はふと思ったけれどそれを尋ねる労力なんて持っちゃいなかった。
「んなこと言うんだったら早くあんにゃさんとくっついてくださいよ」
「な、何よ突然!関係ないでしょうそんなのっ」
「だってあいつぜってー惚れてるっしょ」
「まあ、何て言うか、うん・・・あの変態は無視して大丈夫よ相手にもされてないから。あたしだって新庄くんに申し訳なくてならないんだからね・・・」
「くっつきゃいいんスよさっさと」
「うるさいわね!こっちにも色々と事情ってもんがあんのよ!!」
「んなの言い訳」
「赤星くんに言われたくないわ、君こそ死ぬ気で振り向かせて見なさいよ。こわがってるだけじゃこのまま終わるだけなんだから」
そんなの分かってる。分かってて簡単に伝えられたらこんなに苦しんでなんてない。何をどう伝えればいいのか、どんな顔で、どんな時に、どんな風に?こんな
無意味なことばかり赤星は考える。誰かを好きになったのも、強く求めてしまうのも、初めてだったから。それでも昨日、きれいだと言って笑ってくれた。
昨日がもう過去だとしてもあの笑顔は本物だった。時間が止まってくれなくたってあの笑顔は今も赤星の胸を焦がしてた。記憶という漠然とした領域の中に色濃く
残る一瞬がある。こんなにも苦しめるならいっそ消えてしまえばいい、何もかも消えて無くなればいいんだ。幾らそう望んでいても死んだって忘れられるわけがなかった。
だけどそれなら、消えてなんてくれないのなら。
この記憶は永遠なのだろうか。それならあの時、時間は止まっていたのだろうか。新庄は時間は止まってくれないと言い、雲は確かに流れて行った。それでも時を
止めれたのだろうか。
黙りこくっている後輩の顔はあまりにも真剣そうだった。この子でもこんな顔が出来るのかと塔子は目を見張った。けれどそうさせたのが新庄なんだと考えた時、彼女は
静かに納得した。これっぽっちも可愛くないし、褒めるところを探したって発見することなど出来やしない。でも人を見る目だけはあったんだ。塔子はそう思いながら
ゆっくりと声を出した。
「もしかして初恋?」
「恋なんて知らねーっス」
「そう・・・初恋は実らないって言うわ」
赤星は聞いているのかいないのか別の場所を見ていた。その先に何があるのかなんて想像に容易い。
「だけどそんなの一般論よ。君が普通なわけないじゃない」
そう言って赤星の視線の先を目で追った。恋は愚かだと思い、塔子は自分でも不思議なぐらい優しく笑った。