お天気キャスターが伝えたとおりの晴天の下、ニコガク野球部は練習試合の真っ最中だった。空模様はまさに穏やかの一言につきていた。しかし彼らの心中はその正反対をいっていた。
 相手チームとの点差はひどいものだった。誰もがもう追いつくことは出来ないだろうと諦めて手を上げた。キャプテンさえもがその雰囲気を持て余した。そんな折、攻守交替のためベンチに引き上げて来るなりグローブを地面に叩きつけたのが新庄なら、咄嗟的に彼に振り向いたのは先生たちも含めて全員だった。新庄はありったけの怒りを叫んだ。
「てめーらふざけんじゃねーぞコラ!」
 清々しいまでに響き渡ったその声に審判が何事かと目を丸くする。新庄が苛々をぶつけるかのように目についた荷物を蹴ると、運悪くそこにいた平塚の足に命中した。彼はたちまち文句を言おうとしたが先手を打った新庄に睨まれたことによって思わず口をつぐんだ。世にも鋭い視線に物怖じしたのか、それとも勢いに呑まれてしまったのか。
「何一人で熱くなってんだよ、考えてみろ十四点差だぜ?」
「俺らだってやるこたやった」
 一回表だったとしても九回裏だったとしても十四点という数字は彼らのやる気を削ぐには十分なものだった。誰彼ともなく僅かでもネガティブになればそれはひとたび周囲に伝染した。彼らはチームであり、お互いに影響を受けやすい。それが裏目に出ることだってあるってものだ。
「つーか毎回まいかい勝ってたら既に日本一じゃねー?負ける日だってあんだろ、人間生きてりゃよ」
 関川は落ち着いた口調だった。それも一理ぐらいならあるだろう。生きていればどうにもならない時だってあるかもしれない。例えばそれは今日みたいな日だ。部員たちは関川の言葉に静かに頷き、新庄は彼を真正面から見据えて言った。
「てめー殺すぞ」
「・・・別に止めるわけじゃねーだろうが。ただ勝てる見込みはねーってのが目に見えてるだけ。運が悪かった」
 桧山はそう言って、新庄は遂に忍耐力を手放した。今あるだけの感情全てをつめ込み、それらを託した彼の拳は桧山の頬を直撃した。
「いってえ・・・!何すんだてめー!殺すぞコラ!!」
「こういう状況になるたび運が悪かったですますんだなてめーらは、ああ!?」
「だ、誰もそこまで言ってねーだろうがっ!」
 一触即発、最悪の空気だった。相手チームは仲間割れでもしたのかと怖いもの見たさの視線をこぞって注いでいる。しかしニコガク野球部のキャプテンもマネージャーも監督も部長も、誰一人として止めに入ろうとはしなかった。彼らは遅かれ早かれこうなるだろうことを予測出来ていたし、むしろこの事態を待ち望んでいたのだ。だからこそ穏やかな表情で部員たちを見守った。諦めムード一色の選手たちに新庄が苛立ち、最終的にはそれが爆発する、という一連の流れはもはや恒例となっていた。たとえ小さな乱闘が起きても何のその、不器用な彼らにとって暴力というものは立派な意思疎通の方法だった。そんな野球部を見て来た部長の教頭先生も慣れたもので、鼻血ぐらいじゃ微動だにはしなかった。今では若いとは素晴らしいと内心で感嘆の声を上げるほどである。
 みんな心のどかかで待っていたのかもしれない。投げやりにはなっても諦めたくはない。だからいつものように新庄の強い言葉を心のどこかで。
「十四点差?上等じゃねーか」
 最初の一言は誰のものだっただろうか。新庄の怒りを皮切りに勝利への執念が一気に芽生えた。誰もが当然のように勝利するつもりだろう。十四点をそっくりそのまま返してやるだけじゃないか。彼らは逆境という状況下でこそより強くなれるのだ。
「てめーら行くぞコラー!!」
「行くってどこにだよ!俺らの攻撃だろうがっ!」
「う、うるせーとにかくぶっ殺して来りゃいんだよっ!!」
 部員たちは見る見る目の色を変えた。監督も部長もマネージャーも、それに応えるように大きな声でバッターを送り出す。
 そんな中、赤星奨志は明らかに違っていた。この点差から勝利を掴むなんてまず無理だという結論を出していたのだ。彼の頭脳は冷静に状況を判断し、あらゆるシュミレートを行った。赤星は野球においては誰よりも明晰で、ベンチの奥でチームメイトたちの背中を見ながら無茶苦茶だなあと何とも呑気に思っていた。だけど諦めたわけじゃなくてただ手を抜くことも必要だと考えただけだった。常に全力投球するってことがどれだけの利益を人間にもたらしてくれるだろう。たかだか練習試合だ。この試合には何の決定力もありゃしないのだ。彼は自分の経験上つちかって来た価値観に従ったまでだ。一人間の価値観を覆す権利が一体誰にあるって言うんだ。
 そこへつかつかと歩いて来たのは新庄で、彼は赤星の胸倉を掴むなり静かに言った。さっきよりもずっと静かに。
「やる気ねーなら帰れ」
 赤星は何度か瞬きをした。相当怒っていることぐらい目を見ればすぐに分かった。だけど赤星には赤星のやり方ってものがある。
「・・・やる気ねーってこともないんスけど」
「ならちゃんとやれ。やんねーんだったらマジで帰れ」
「ていうかあんた」
 十四点という数字がしっかりと見えているのかどうかを聞こうとしたら相手はもう背中を向けていて。赤星はひどく腹を立てた。何の権利があって自分のやり方を曲げられなければならないんだ。赤星奨志は協調性というものをこれっぽっちも持っていなかった。この試合が目指している場所だったら幾らだってやってやる。
 しかしこのままじゃ腹の虫が一向に治まらない。思う壺になんかさせてやるもんか。ぎゃふんと言わせてやろうってもんだ。そんな訳で彼は奮起したのだった。




 秋という季節のせいか太陽はもうずっと前から沈んでいるようだった。新庄は今始めて夏が終わったことを実感した。季節は静かに過ぎた。終わる瞬間に気づくことなんてまずあり得なかったし、その連鎖に上手くついて行けているのかさえも分からなかった。それでも隣にはいつも通り生意気そうな顔をぶら下げた赤星がいる。新庄は昨日と何ら変わらないこんな時間に安心感さえ覚えた。この沈黙がたとえ永遠に続いたとしても壊そうとは思わないだろう。いつからこんなに仲良くなったんだっけ?新庄はそれとなく考えた。こんな思考が浮かんでしまうのも今ここにある静けさのせいに違いなかった。ぴったりと息の合った歩幅、ただそれだけでいいんだ。
「好きだから食うんだって、相手の骨」
 赤星は少しの間声を失った。鉄橋を渡る電車の音や少し離れた道路を走る車の音、そして二人きりの足音が聞こえた。まず最初にしなきゃならなかったのは何の話をしているのかを解読することだった。新庄にはいつもこうして驚かされる。いい加減慣れればいいのだろうけれど、一つに慣れたと思えばまた違った一面を唐突に見せつけられた。
「・・・何の話っスか」
「どっかの遠い国の話。食うんだよ骨を」
「誰が誰の骨を?」
「残されたやつが死んだやつのを」
「何だってわざわざ骨なんか」
「そういう愛なんだって」
「愛・・・」
 そう小さく繰り返した赤星は考えを巡らせてみた。思えば愛というものに苦しめられてばかりだった。苦しめられすぎて愛という言葉を辞書で引いたことだってあるぐらいだ。けれどそこにはこれといって助けになるようなことは何も載ってなかった。その時赤星は辞書の役立たずさを痛感した。愛はひきつけられ、かわいがること、たいせつにすること、したうこと。そんなこと赤星には分かりきってる。あれ以来辞書なんて開く気にもならなかった。
「愛って何だか知ってる?」
「さあ、知らねー。何だろうな」
「・・・俺が死んだら全部食って」
 そう言うと新庄が振り向いて目が合った。骨も肉も血も全部食べつくしてと赤星は言った。新庄は初めから何も聞かなかったみたいに顔を逸らした。目を離されるたび悲しくなる男がここにいるってことを考えてもくれない。
「俺は全部食ってあげる。髪も睫毛も全部」
 どこの国のどんな人たちがそれを行っているのか知りもしないくせにそう宣言した。赤星は新庄の全部が欲しかった。その金髪も、長い睫毛さえも自分のものにしたかった。愛する人の一部を本当に食べてしまうなんて、異常さと愛情とは紙一重なのかもしれない。自分の気持ちをまるごと知ってもらえるなら何だってやってやると思った。
「あんた、無駄な脂肪とか無くてうまそうだし」
 赤星はうっとりと男を見つめてその手を捕まえた。いつもいつも触れたと思えば逃げていく大きな手。しなやかに伸びる指を絡め取ろうとしたら新庄は真っ赤な顔でバカヤロウと言い、やっぱり振り解いた。
「言いだしっぺはあんたでしょーが」
「っせーな、んな意味で言ったんじゃねえっ」
「意味もくそもそのまんまだし」
「てめーの解釈は病的なんだよ」
「・・・愛ってそういうもんなんスよ」
 大人っぽく呟いたらバカじゃねーのかと返って来た。こんなに愛しい人はいないし、こんなに憎い人もいない。新庄はどうでもよさそうに欠伸をした。こんな風に二人の時間を他人事みたいに扱われるたび、赤星は自分という人間の在りかを叫びたくなった。けれど叫んだからと言ってそれが相手に届くという保障はどこにもなかった。新庄の言うとおり本当にバカなのかもしれない。赤星は自分でも狂ってるんじゃないかと思う時があったし、好きだという気持ちが大きすぎて頭がおかしくなる時だって確かにあった。だけど一体、それが誰のせいだと思ってるんだ。赤星はむっとした。
「ちょっとは褒めたらどーっスか」
「あ?」
「練習試合、俺すげーかっこよかったっしょ」
 自慢げにそう言われて新庄は首を傾げた。
「褒めて欲しくて野球やってんのか?」
「・・・勘違いせんでくださいよ。俺を褒めれるぐれーに立派な人間が一体どこにいるっつーんスか。是非とも会ってみてーもんっスね」
「じゃあいいだろ。俺だって別に立派じゃねーよ」
「しまいにゃ犯すよ」
「ぶっ殺す」
「ケチ」
「おまえがやる気出したのほとんど後半だろうが」
「・・・十四点差でマジで勝つつもりだったの?」
「当然」
「そういうの無鉄砲っつーんスよ」
「結構だ」
「怒った顔すげー可愛かった」
 新庄は途端にまた頬を赤くし、居心地の悪そうな表情を呈した。突然こういうことを言われてもどう対処していいのやらが謎だった。赤星は耳にたこが出来るぐらいおかしなことを言う。からかわれているだけなら一、二発殴って済むことだ。だけどそれは時に真剣に、時には切なそうに、あるいは本物の怒りと共に。協調性の欠片も持っていない赤星のくせに真っ直ぐ気持ちをぶつけて来た。そういうことが出来るんだったら他の部員たちともっと仲良くすることだって可能なはずなのに、赤星はありとあらゆる感情を新庄たった一人に向けた。目が合うたびにどれぐらい求められているのかを新庄は知る羽目になった。応えることなんて容易いだろう。好きだと言えば済むことなのかもしれない。けれどそれじゃ駄目だと思った。それほどまでに赤星の気持ちは強くて深いのだから。
「おまえあの時かなり際どかったのに走ったろ、ベースまで。んでみんなまた火が点いた。ありゃすごかったんじゃねーか」
 話は急に元に戻った。欲しい時には欲しい言葉をくれないのに、どうして忘れようとしている時に限ってそうさせてはくれないんだろう。本当は見透かされているのかもしれないと時折赤星は新庄のことを疑った。自分の一言がどれだけの幸福を相手に与え、どれだけの不幸を相手に与えるのかを本当は全部知っているんだ。そうでありながら突き放して、惹きつけて、ずっと楽になんてしてくれない。もしそうだとしてもそれに溺れることしか出来なかった。自分の功績を他人に結びつけて欲しくなんてないのに。赤星の中に真っ白な憎しみが生まれる。愛憎という日本語の意味を赤星は誰よりもよく理解していた。愛するという気持ちと憎むという気持ちは常に隣り合わせだ。温かくて穏やかで、優しいだけの思いを向けるなんて困難だった。ありとあらゆる感情が新庄へと向かってしまうから。
「今日あんたのこと食ってやる」
 赤星は復讐だとばかりに再び話を換えた。全部を食べつくせたら、この思いもちょっとは報われてくれるかもしれない。そんな期待を持つことでほんの一ミリでも自分を救おうとした。どこか遠くの国で愛する人の骨を食べるという慣習。その真意を少し知った。
「頭のてっぺんから足の先まであんたの全部」
 強い意志をもった目を眺めながら新庄はふと赤星に食べられている場面を想像した。それはぞっとするほどまざまざとした現実味を伴った。この男なら本当にやりかねない。きっと一滴の血さえ残してくれず、模範的なほど綺麗に食べられてしまうだろう。どれだけ赤星に愛されているのかなんてとっくに分かっていたことじゃないか。こうして二人きりで歩いて来たから、景色は二人の前を同じ速度で過ぎて行ったから。いつの間にか始まっていた夏が終わり秋の気配がそこら中を包んだ。そしてもうすぐ冬が巡って来る。
「・・・おまえってまずそうだよな」
 赤星が何も言い返せなかったのはそこにある無邪気な笑顔のせいだった。こんな僅かな瞬間に愛から生まれた憎しみはひとたまりもなく消化されて行く。結局最後に残るのは胸を焦がす愛だけだった。
 少し背伸びをした赤星を新庄はきょとんと見つめた。唇と唇が触れてもなお二人は目を閉じなかった。まるで何かの競争みたいにお互いの目を見つめあった。赤星はこの大きな黒目にずっと捕らわれていたかった。これから幾度傷つけられたとしても、この苦悩が最後の最後まで報われないとしても。祈るような思いを抱きながら赤星は大人のキスを仕掛けようとした。熱心な痛みを忘れたかった。それでも全てを抱きしめていたかった。焼きつけたくて、焦がしたかった。そういうキスをしたかった。赤星は目を閉じた時、下唇を噛まれたことにすぐ気がついた。甘い刺激をもたらした相手は誰に言うでもなく、ただ呟くように言った。
「最初のひとくち」
 唇は瞬く間に解放された。まるで何事もなかったみたいに甘い刺激が消えて行く。赤星は刹那的に全ての身動きを失った。呼吸さえ忘れそうだった。だけどどうにか垂れ下がっていた腕を伸ばし、生まれたての距離を壊した。
 自分を苦しめる男の白い制服を必死になって捕まえた。今度こそもう二度と離すまいときつく。そして何もかもを奪うような強さで大人のキスをした。