家に帰って来て夕食をとり、風呂に入る。毎日それを繰り返していると空白の時間があることに安仁屋は気づいた。風呂から上がった
後、寝るまでの時間が全くの空白だ。興味本位で買ったギターもパソコンもゲーム機も、結局は埃を纏う運命だったのだと思った。
長い黒髪に残った水滴をバスタオルで拭いながらベッドの上に座った。何もすることが無いのか、何もしたく無いのか、その判断さえ
難しかった。何となく携帯電話を手に取った。メールの受信箱には未読のメールが積もりに積もっていた。送り主は全て女の名前だった。
何してるのとか会いたいだとか、そんなのはほんの序の口で、吐き気がするほどに甘い言葉の羅列がそこにはあった。一体このうちの何人
が無機的な活字の中に本心をこめているだろう。もとよりそんなことさえ安仁屋にとっては考えるに値しない。本心なんてものを寄こされた
ところで何の意義も見出そうとしない男だ。一気に面倒臭さに襲われた安仁屋は携帯電話を折りたたんだ。ぱたんという音と共にくだら
ない繋がりから解放された気分だった。
しかしくだらない繋がりを一方的に楽しむのも良いかもしれない。それもまた有意義な時間の過ごし方だろう。そう考えるに至った
安仁屋は再び携帯を開けた。人間とは何とも便利なものを作り出したものだ。これさえあればおおよそ何不自由なく生きていける。
カチカチとボタンを操作して電話帳を表示させた。めぼしい人間を探す。少しの間そのカチカチという音は鳴り続けた。けれどめぼしい人間、それを
探そうにも、画面には名前と電話番号が規則正しく並ぶだけ。似たような名前を読み上げてみても、そこからは何一つ思い出されるものが
無かった。容姿も性格も、何一つ。めぼしいという形容詞の定義さえ分からなくなった。ただ、野球部の面々の名前が出現するたび
に現実味がわいて何だか笑った。
捜索作業に飽きてきたころ画面に現れたのが新庄の名前だった。驚きはしなかった。電話帳を開く前からこの名前に出くわすだろうこと
ぐらいは予想していた。ひょっとすると発信ボタンを押してしまうことさえ予想していたかもしれない。最初からこうなる運命だった
のだと。
『誰』
その声の主は明らかに新庄じゃなかった。
「あ?誰おまえ」
『・・・ちっ・・・いたずらか』
受話器の向こうの謎の人物はそう吐き捨て、なんと通話を切ってしまった。何てことだろう!一体何の根拠を元にいたずら電話呼ばわり
をされなければいけないのか。しかも舌打までされる筋合いがどこにあると言うのだろう。みるみる怒りが込み上げて来た安仁屋は乱暴な
動作でかけ直す。するとまた謎の人物が、さっきと同じ言葉を口にした。
『誰』
「だからおまえこそ誰だっつってんだ!」
『て、てめーさてはストーカーだな?』
ひどく神妙な声色でそう言われ、安仁屋はしこたま驚いた。
「ああっ!?」
『そうか、そうに決まってる。この野郎どこのどいつだ名前を言いやがれ』
「ちょ、てめー何言い出してやがる!頭おかしいんじゃねーのか?おまえこそ名乗れっつうの」
『逃げようったってそうはさせねー。て言うかかけて来た方が名乗るってのが常識だろ』
いたずら電話の後はストーカー呼ばわりだった。それにしても聞き覚えのある声だ。だがそれよりも無茶な因縁をつけられた挙句に常識
まで持ち出されてしまいそれどころじゃない。安仁屋の腸は煮えくりかえる寸前だ。一発や二発ぶん殴ってやりた
かったが(その方法はあずかり知らないが)、しかし言われてみればこちらが先に名乗るのが常識だった。非常識で一方的な言いがか
りをつけて来た相手に常識を説かれるとは屈辱の極みだ。安仁屋が歯を食いしばりながら名を名乗ると、しばらく無言だった謎の人物が「ああ」と
呟いた。その呟きにはいかにも不機嫌そうな含みがあった。
『何の用でしょう』
「んなことよりてめー誰だよ」
『赤星』
安仁屋は声にならない悲鳴を上げる羽目になった。赤星、安仁屋の知る限りでは赤星とはあの赤星しかいなかった。たとえ他に知って
いようがあの赤星じゃなかろうが、相手が赤星というだけでさっきよりも遥かに凄まじい怒りが込み上げて来た。よって時間も考えずに
声を荒げた。
「てめーは何を当たり前のように人様んちの電話に勝手に出てんだよ!!」
『いやあ、人様んちっつっても新庄さんしかいねーし』
「その新庄を出しやがれ」
『風呂』
「ふ、風呂だあ!?」
安仁屋は叫んだ。すると何か問題があるのかとでも言いたげに「そうだけど」と返された。まだ乾いていない黒髪をがしがしと大雑把に
掻いて、安仁屋はとりあえず深呼吸をした。風呂に入ってるだけじゃないか。何をそんなに驚いてしまったのだ。それとも本当に何か
問題でもあるのだろうかと、自分自身の反応を理解しかねた。安仁屋はこれといった意味も無く咳払いをしてから口を開いた。
「し、新庄と代われよ」
『何で?』
「なっ、何でって何だよ!?」
『や、理由は?』
「てめーに言う必要がどこにあんだっ!」
『用が無いなら切りますよ』
「だから代われっつってんだよてめーにゃ耳がついてねーのかコラ!」
『あんたこそちゃんと聞こえてた?風呂入ってんの』
安仁屋は声を押し殺して布団を引っ掻き回した。ひとしきりめちゃくちゃにしてから、赤星ごときに何を苛ついてんだと自分を
落ち着かせるよう勤めた。きっとこの後輩には日本語が通じないのだろう。そうだ、そうに違いないと言い聞かせる。以外に律儀な性格
である。
「・・・てめーじゃ話になんねー。今からそっち行ってやんよ」
『それは困る』
「困るもへったくれもあるか!」
何か言いかけた赤星を無視して通話を切断すると安仁屋は携帯電話を投げつけたのだが、あくまでもそれはベッドの上であり、破壊する
までには至らなかった。安仁屋にとってそれほどまでに携帯電話の存在は大きかったのだった。
チャイムを鳴らすと数秒後にドアが開いた。安仁屋にはその数秒は数分にも、数時間にも感じられた。安仁屋の黒い長髪と同じく、新
庄の金髪も風呂上りを物語っていた。
「何だよ突然」
新庄にそうさらりと尋ねられ、思わず口ごもる。理由なんて考えても見なかった。ここへ来るにあたっての原因があるとすれば、
何となくいても立ってもいられなかったってぐらいだった。出鼻を挫かれた思いがした。
「別にまあちょっと・・・暇だったからよ」
「ふうん」
新庄は疑う素振りも見せずに部屋の奥へと入って行った。玄関には赤星のものと思われる靴が雑に脱ぎ捨てられていた。また苛々が
蘇った。安仁屋も靴を脱ぎ、上がり込む。この部屋の主とは別の、第三者がいるんだと思うと訳も無く身構えてしまった。しかし赤星
の姿は見当たらなかった。
「あいつは?」
「風呂入らせた」
簡潔に答えた新庄はベッドの上に座った。たっぷりと水分を含んだ金髪が男を別人のように見せていた。まるで秘密の領域を覗いた
気分だ。Tシャツにハーフパンツという格好も、その可能性を大いに拡張していただろう。安仁屋は何度か訪れたことのある部屋をきょろきょろ
と見渡し、自分の居場所を探した。とは言えそう広くない面積の中に選択肢は幾つも無かったのだが。とりあえず部屋の真ん中に置かれた
低いテーブルの前に座った。
いつ見てもこの部屋はすっからかんだ。テレビとテーブルとカラーボックス、それからベッド。ギターもパソコンもゲーム機も見当
たらない。それどころか携帯電話さえ持っていないことを安仁屋はふと思い出した。ここから生まれる生活リズムは安仁屋のものとは
全くの別物だ。
「何してたんだよ」
「何って?」
新庄は屈託の無い目で安仁屋を見つめ、無邪気に聞き返す。こういう無邪気さは時に安仁屋を困らせた。しかしながら本人に自覚が無い
うえ、安仁屋にも指摘しようという気が無いのだから改善の余地のは望めなかった。安仁屋はこんな新庄らしさを素直に美点だと思って
いた。その美点が安仁屋に自分のした質問の意図を見失わせるのだ。何って何だろうかと安仁屋はしばし眉を寄せる。後輩とすることと言えば普通、とりとめも
ないお喋りとか、あるいはそうだ、食事をしたりとか、そういうことだろう。応えが返ってこないことに痺れを切らしたのか、それとも
それが会話というものの真っ当な姿だったのか、新庄は言った。
「特にこれと言って何も」
「その何だ・・・おまえはあれか、仲良いのか」
「べ、別に良かねーよ」
「・・・風呂まで貸す仲なんじゃねーかよ」
「しょーがねーだろ帰れっつっても帰んねーんだから。風呂入らすのにどんだけ時間かかったと思ってんだ」
言い終えると同時に新庄は大きくため息を吐いた。そこにはもうとっくの昔に諦めたんだ、そんな思いが込められているようだった。
「おまえなら殺したって追い出すんじゃねー?」
「・・・あれは殺しても死なねーぞ」
新庄が豪語する。その口ぶりは人類史上最も重大な発見でもしたかのように大層なものだった。諦めというものにはそれ相応の過程とい
うものがあるはずだ。ましてや負けず嫌いで頑固な新庄が諦めるなどと言うことは相当な目に合ったに違いなかった。知らない月日
をそこに垣間見た気がした。特別見たいわけでもなかった。
「八木は?」
あんまりいきなりだったものだから安仁屋は「へ?」と間抜けな声を上げた。
「暇なら相手してもらえよ」
「う、うるせー、何で俺があんなガキに相手されなきゃなんねーんだよっ!」
「おまえいつか女に殺されるぞ」
「んなバカな死に方するか。ちゃんと考えて遊んでんだよ俺はこう見えても」
新庄から言葉が返って来なかったので安仁屋は心なしか虚しさを覚えた。新庄は普通の同年代とは違って呆れもしなければ羨みもしな
かった。それでいて安仁屋の淫らな交際関係を決して黙認している訳でもない。そうじゃなければわざわざ忠告なんてして来ないだろう。
安仁屋はしらじらしく新庄から視線を逸らした。するとどう考えてもこの部屋には不釣合いなものが目に入った。
「・・・金魚なんか飼ってたか?」
「ああ、祭りの金魚」
「てめー金魚すくいっつうのはガキの遊びだろ」
「赤星。あいつがすくったやつ」
「あ、あのハゲが金魚すくい・・・!」
安仁屋は目を大きくして丸い金魚鉢の中で泳ぐ金魚に見入った。赤い金魚と黒い金魚が泳ぐ。赤星がすくい上げた金魚が新庄の部屋の中
で生きている。新庄は金魚を一瞥して言った。
「金輪際あいつと祭りにゃ行きたくねーな。それすくうのに一時間もねばりやがって」
二つの小さな命に安仁屋はふんと鼻を鳴らした。赤星と新庄の夏の面影なんて知りたくも無い。
突如として赤星が現れたことに一番驚いたのは安仁屋ではなく、赤星を風呂へと追いやった新庄だった。
「おまえ・・・早すぎるだろ」
「普通でしょ」
平然とした答えに呆れ果てたのか、新庄はそれ以上何も言おうとしなかった。赤星がテーブルを挟んで安仁屋の前に座ると空気が静まり
返った。
「どうも」
「・・・おお」
新庄はさっきからついているテレビを見続け、赤星はこれと言って何をするでもなくただその場にいた。安仁屋はどうしたのかと内心思った。
時間的に食事は終わったにしろ、とりとめのないお喋りが始まる気配は一向になかった。けれど何故か、不自然だとは思えなかった。
「コンビニ行って来る」
いきなりそんな決意表明をしたのは新庄で、安仁屋と赤星はほぼ同時に彼を見上げた。
「水道代今日までだったの忘れてた」
これは良いチャンスだと思った安仁屋は声を出そうとした。けれど赤星の方が一歩早かった。安仁屋がチャンスと称した一瞬は見事に
奪い去られた。
「俺も行く」
「ああ?何かいんのか?」
「別に何もいらねーけど」
「じゃあいいだろ来なくても」
「行くっつったら行く」
「来んなっつってんだろが」
赤星は新庄を睨みつけ、新庄はあっさりと財布を手に取った。
「何かいんなら買って来てやる」
「・・・いらねー」
「安仁屋は?」
「・・・いや、いい」
まさか赤星と同じ台詞を吐くわけにはいかなかった。安仁屋のプライドはそれほどまでに高かった。新庄が出て行くと、新庄の部屋に
安仁屋と赤星、そして二匹の金魚というおかしな模様が完成した。しかしそんなことをとやかく考えるほど彼らは繊細な心の持ち主でも
なかった。
「てめー何でこんなとこにいやがんだよ」
「何でって言われても」
「好きとか言うなよ」
軽い気持ちで言った。もちろん男同士なのだから、冗談に決まっている。赤星は何も言わない。半分しか開いていない生意気そうな目で
安仁屋を真っ向から見据えている。そして、何秒か後にようやく口を開いた。
「愛してるけど」
その非日常的な単語は何の抵抗もなく赤星の口から生み出された。愛してる。この言葉をこんなにも呆気なく言い放つ人間が現実世界に
いるとは思いもしなかった。安仁屋にとってはひどくバカバカしい響きでしかなかった。
「本気で言ってんのか?」
「そりゃまあ」
「ふん、どーだかな。何が愛してるだよ気持ち悪りい」
「あの人さえいれば生きていけるし」
「・・・おま、それ以上言うなよ、鳥肌立つから」
「さ、さてはあんたあの人に惚れてんだろ!?」
赤星が突然声を張り上げた。安仁屋は思わず顔をしかめた。
「何バカなこと言ってんだよ!アホかてめーは!」
「・・・何食わぬ顔してこんなとこまで押しかけやがって、そういうことだったのか」
「違うっつうの!」
「横取りしようったってそうはいかねー。俺はあの人と死ぬ覚悟だって出来てんだ」
こんな日常の一場面で死の概念を持ち出されるなんて!バカバカしさもここまで来ればある種壮絶なものがある。赤星のただ事では
ない形相ぶりに安仁屋は失笑を禁じ得なかった。
女をとっかえひっかえして来た安仁屋にとって、愛や恋なんてものは笑い話にもならない。愛なんて、人間がでっち上げた幻想だ。
次の週の月曜日の午後、新庄と安仁屋は授業を抜け出して屋上にいた。もう学ランが無ければこの場所に立てないほど冷たい
風が吹いていた。
「おまえ今日ずっとそればっかだな」
新庄が座った隣に安仁屋も腰を落ち着かせる。屋上という一種独特な場所はたばこの味をほんの少しだけ思い起こさせた。安仁屋の言うそれとはルービックキューブのことだった。朝練が終わって着替えを済ます
なり、新庄がかばんの中からおもむろに取り出した立方体。それからというもの授業中休み時間問わずにひたすらキューブの謎と戦い続け
ている。誰に話しかけられても新庄が口にする言葉と言えば「ああ」とか「おお」とか「んん」とか、それぐらいだった。
「へったくそだな、ちょっと貸してみろ」
「あ、てめーコラ」
長い指に支えられていた立方体をふんだくった。安仁屋の脳にもルービックキューブの存在は刻まれている。小学校の頃これがクラスで
流行り、安仁屋も一つ買ってもらった覚えがあったのだ。しかし手にしてほんの数時間で飽きてしまい、それ以来行方不明になって
しまった。もう永遠にその居場所が突き止められることも無いだろう。かしゃかしゃと無造作にキューブを回してみる。そしてものの
数分もしない内にこう言った。
「こんなもん無理に決まってるっつうの」
回したって、永久的に回り続けるだけだという結論に達した。ふんと鼻を鳴らして立方体を持ち主の手に返す。新庄はルービックキュ
ーブとまた睨めっこ。
「バッカ、出来ねーわけねーだろ」
「ぜってー無理、あり得ねえ」
「何かあんだよ、法則みてーのが。それさえ分かりゃ何とかなる」
「法則?何だよ法則って」
「法則っつうか、方法っつうかな」
「だから、どんなだよ?」
「順番とか回したときの駒の動き把握しとかねーとまず無理だ」
「じゃあ把握しろよ」
「何通りあると思ってんだおまえ。人間の記憶力じゃ不可能」
「ほら言ったじゃねーか、結局は完成なんて出来ねーんだよ」
「・・・何も全通り把握する必要はねーよな。全部分かってたら面白くもなんともねーし」
新庄がひとり言のように呟いた。何をそんなに真剣になっているのかと、安仁屋はルービックキューブを睨みつける横顔を見つめた。
面倒臭がりのくせに、新庄は時々おかしなところでおかしな情熱を見せる。
「おもちゃごときにそこまでマジになんなよおまえ」
「むかつくだろこいつ」
「・・・おもちゃにむかついてどーすんだ。そんなもん適当に回しまくって遊んでりゃいいんだよ」
「バカ」
はっきりとそう言った新庄がまたキューブ回しに没頭し始める。安仁屋はふいに、金魚すくいをする赤星を思い浮かべてしまった。一時間、金魚をすくうために費やしたらしい。
どうしてそんなくだらにことに情熱を傾けることが出来るのか、安仁屋にはさっぱり理解できなかった。ルービックキューブと金魚すくい。
新庄と赤星は似ていないようで似ている。
「面白れーか」
「んん」
「どの辺が?」
「おお」
「おまえ赤星とつき合ってんの?」
「ああ?」
新庄が不思議そうな面持ちで振り向いた。
「愛してるっつってたぞ」
そう報告すると、新庄は耳まで真っ赤にさせて言った。
「バッ・・・あの野郎マジで頭いかれてんじゃねーのか!」
手の中でみしみしと音を立てる立方体に気づき、新庄ははっと手の力を緩めた。それから水道代なんて払わなければ良かったんだと思った。
「どうなんだ?」
「た、たぶん、つき合ってる」
安仁屋は絶叫を止められなかった。新庄は思わず耳を遠ざける。
「お、おまえ、気は確かか!新庄!」
「確かっつうか、血迷ったっつうか」
「今からでも遅くねえ、別れろ」
「それは無理だろ」
「ああ?」
「あいつ、つき合わなかったら殺してやるとかひでー死に方して呪ってやるとか目の色変えて言いやがる」
「はっ、んなもん本気なわけねーだろが」
「・・・本気じゃなかったらどんだけありがてーか」
新庄はしみじみと言う。その声からは日頃の苦労が滲み出ていた。死ぬだのなんだの、そんなことを言ったり信じたり、そういうものに
安仁屋は首をかしげた。所詮人間がでっち上げた、幻想の域を超えない感情。いつか必ず終わりが来ることは目に見えている。だから
安仁屋はその感情で幾度と無く遊んできた。
「どうせいつか終わるっつうのに本気になるやつの気が知れねーよ。バカバカしい」
安仁屋が言うと、新庄は目をぱちくりさせた。
「あ?何だよ」
「いや、おまえにしては真面目なこと言ってんなと思ってよ」
「うっせーな。てめー永遠はあるとか言ったらぶっ殺すぞ」
「ないんじゃねーの永遠なんて」
新庄はあっけらかんと言ってのけた。安仁屋は目を瞬かせる。こうもはっきり言われるとは思ってもいなかった。
永遠なんてない。暑い夏が終わり、寒い冬が始まるように、全ては必ず終わりを迎える。そして始まった冬さえ嘘みたいに消えていくのだ。
それなのに何故、新庄は赤星の言葉を信じたの
だろう。安仁屋にはその矛盾を消化出来なかった。
「・・・それでもあいつの言うこと信じんのかよ」
「俺はまだ死にたくねーからな」
「くだらねー」
「・・・おまえは永遠っつうのがあって欲しいのか?」
「べ、別にんなんじゃねーよ!アホか!」
「何むきになってんだ」
「・・・せーよ。・・・そう言うおめーはどうなんだよ」
「永遠?」
「そう」
「昔は欲しかったかな」
「じゃあ今は?」
「今はいらねーかも」
「・・・何でだよ?」
「今が一番好きだから」
そう答えた新庄の強さに安仁屋は飲み込まれ、返す言葉を探せなかった。永遠という幾何学的な思想に一体どんな価値があるのだろう。
新庄がああも簡単に断言したのは、永遠より大切なものを持っていたからだ。みんな今を生きている。この惑星で呼吸しているみんな、
ただ今という時間の欠片を生きているんだ。永遠に焦がれていたのは誰だろう?安仁屋は永遠なんてないんだと、今さえ愛そうとしなかった。その思想に
とらわれていたのは誰でもなく、自分だっだ。
「・・・おまえが赤星とつき合う理由って何なんだ」
「理由?さあ、考えたこともねー」
「・・・俺には理解出来ねーな」
「何つーか、何となくあいつはマジで俺のこと殺すと思う。当然みてーに死ぬだろうし。呪われそうだし」
「好きなのか?」
新庄はキューブを何度か回した。色はまだちぐはぐのまま。色とりどりのキューブ。回してはまた戻し、そしてまた回す。それから、澄みきったきれいな声で
言った。
「嫌いではねーかな」
安仁屋の耳にとても真っ直ぐ声は届いた。そこにある暖かな温もりを、見過ごすことが出来なかった。新庄慶が意地っ張りなのか素直なの
か、安仁屋は時折あやふやになる。だけど、新庄の声がいつもそのわずかな量の響きだけで
受け取る側に小さな変化を起こさせることは、知りすぎているほどに知っていた。だからこそ安仁屋は馬鹿げていると知りながらも、口にせずにはいられなかった。
「・・・愛っつうのは一体何だ?」
どちらともなく目を合わせた。先に目を逸らした新庄が空を見上げ、質問の答えなのか、それとも見たものへの感想なのか、こう
言った。
「すげー晴れてる」
安仁屋はならって顔を真上に向けた。確かにそこには青い空があった。新庄の美しさを知った気がした。たかがルービックキューブに
情熱を費やし、新庄は空の青さに気づくことが出来た。その声がなければ、安仁屋は空を見上げることさえ無かっただろう。
かつて新庄が犯した過ちのその根底にあるものは何だったのだろう。誰かを傷つけ、自分を傷つけ、そうまでして手に入れなければ
ならないほど価値のあるものがこの世界にあるのだろうか。間違っていると知りながらも欲しかったもの。それがどんなものなのか
、安仁屋には見出すことが出来なかった。
そして赤星もまた、相手を殺してでも手に入れようとしている。まして赤星の場合その矛先が新庄にしか向いていない。そこにある強さとは
一体。
安仁屋にはそこまでして手に入れたいものがなかった。すっからかんの新庄の部屋。物質に事欠かない安仁屋の部屋。本当に
すっからかんなのは、果たして。
安仁屋は空のあまりの青さに眩暈を覚えた。そして、それを拒否するかのように目を伏せた。
あれ以来、数日前に赤星の言葉を聞いて以来、安仁屋の胸には何かが引っかかっていた。正体なんてものは分からなかった。
それでも、その存在は確かなものだった。久しぶりに女と約束をした。きれいさっぱり忘れてやろうと企てた。そうやって空白の時間
さえ埋めてやろうと思ったのだ。しかしそれは失敗に終わった。なめらかな肌に触れて抱き合っても、何ら忘れることは出来なかった。
それは思いのほか強烈だったから。
「恵ちゃん」
玄関まで後数メートルというところで聞こえた声は聞き慣れたものだった。その抑揚も、声色も、手に取るように知っている。こうして
出くわすということは珍しくも何とも無かった。彼らの家は隣同士だった。
「・・・うお、何やってんのおまえ」
「コンビニ行ってたの。恵ちゃんは?」
「まあちょっと」
「そう、じゃあねおやすみ」
「おい」
「え?」
「何買った?」
「ケーキ。甘いもの食べたくて」
「二個入ってるやつ?」
「・・・あげないわよ?」
「うるせー食わせろ」
安仁屋はそう言うなり自分の家の玄関を通り越した。これもまた運命かと、払拭しきれない思考が働いた。きっと
訳など無かっただろう。理由も無く家を訪ねたり、理由も無く時間を共にしたり。結局、人との繋がりに大した訳なんて必要ない
のかもしれない。むしろその方が根本的で、純粋だ。
「ちょ、ちょっと!あたしの部屋は駄目よ!」
「ああ?何で?」
「何でもくそもないわ、女の子の部屋に突然上がりこむなんて無神経にも程があると思わない?」
「・・・女の子がくそとか言って良いのか?」
塔子はつんと顔を背けて自分の家の玄関を通り越し、幼馴染の家の玄関に立った。
二人は一つのパックに入った二つのケーキを食べた。他愛の無い
話をした。テレビの話、部活の話、二人の共通の思い出の話。まるで義務であるかのように口を開き続けた。塔子が安仁屋が出掛けていた
先を聞くことは無かった。安仁屋はそれにほんの
少しだけれど腹を立てた。知っているくせに聞かない。知っているからこそ聞かない。
「どこ行ってたか聞かねーのかよ」
「聞いて欲しいなら聞いてあげるけど?」
考えるほどにおかしな関係だと安仁屋は思った。お互い好きだということは火を見るより明らかだ。それなのにここから踏み出そうと
しない。塔子は全て知っている。けれど安仁屋は罪悪感を持ったことが無かった。罪悪感を持たないことに、罪悪感を持つ。
「たまには手入れぐらいしてやったら?」
ケーキを食べ終えた塔子が言った。一瞬何のことかと思い、その視線の先に目をやると埃まみれのギターを見つけた。
「おまえやれよ」
「何であたしが。バカじゃないの」
「もう興味ねーわ」
「・・・興味なんて最初から無いのよ。無いくせに欲しいふりをするの、恵ちゃんは」
「何だそりゃ」
「パソコンもゲームもそうよ。怪獣のおもちゃもダーツのセットも100色の色鉛筆もルービックキューブも、昔っから変わんないわよね」
「ルービックキューブ?」
「買ったその日にもういらねーだもの、呆れたわよあたし」
「ふん、覚えてねーな、んな昔のことなんざよ」
「でしょうね」
「あれどこ行ったんだろ」
「あたしの部屋にあるわよ」
「おま、それは犯罪だろ」
「はあっ?恵ちゃんがやるよとか言ってあたしに押しつけたんでしょっ」
もう永遠に、その居場所を突き止めることなんて無いと思っていた行方不明のルービックキューブ。
「おまえすげーな」
「・・・何のことだか分からないけど、あたしがすごいんじゃなくて恵ちゃんが駄目すぎるんじゃない?」
塔子は悠然と言った。生涯塔子に頭が上がらないんじゃ無いだろうかと、安仁屋はそんな心配をしてみた。それは案外悪いこと
でもなさそうだ。そして初めて口にしてみる。
「愛してる」
言った瞬間、別の声が頭の中で響いた気がした。赤星が言い放ったあの一言。そこに満ち溢れていた狂気じみたまでの想い。
そして相手を傷つけ、自分を傷つけてまで何かを手に入れようとした、新庄のあの愚かなまでの情熱。そういう強さを、初めて生み出した声の中
に込めることが出来ただろうか。バカバカしいほどの感情を、込めることが出来ただろうか。安仁屋は自分でも分からなかった。
塔子は目を丸くして、それから優しく微笑み「バカね」と言った。
「・・・新庄のやつ、赤星とつき合ってんだって」
「あら、そうなの」
「驚かねーの?」
「驚かないわ」
平気な顔をして塔子が言う。まるで何もかも知っていたような反応に、安仁屋の方が驚かされた。塔子はからからと笑っている。
「悔しいんでしょ?」
「ああ?何がだよ」
「新庄くん、とられちゃったね」
「・・・バカ言うな」
「あたしはちょっと悔しいな」
「何言い出してんだおまえは」
「あたしの方が先に知ってたのよ新庄くんのこと。それなのにあの子、まんまと自分のものにするんだもの、そりゃ腹が立つわ、ちょっと
ね」
「・・・ふん」
誰にも触れない彼らの月日、夏の面影。それを少し安仁屋は思う。自分が入ることの出来ない時間。そこには一体何があったのだろう。
別に知りたくもない。ただ、まだ見たことのない鮮やかな彩が溢れている気がした。
安仁屋はどうしてだか穏やかな気持ちになり、塔子の優しい笑顔につられて口元を緩めた。
新庄があのルービックキューブを完成させる日がいつか訪れるかもしれない。赤星がすくい上げ、新庄の部屋で泳ぐあの二匹の金魚
だって、飢えることなく生きていけるかもしれない。安仁屋は珍しくそんな哲学的なことを考える。新庄と見たあの空の眩しさを、
忘れられそうになかった。
ルービックキューブのその後が気になり、安仁屋がそれを口にしたのはたった一日しか経っていない次の日だった。キャプテンの声が
しばしの休憩を告げる。新庄の元へ向かう途中に赤星の姿が目に入った。あのつんつん頭と金髪が恋人同士だということが未だ信じられ
ないが、安仁屋はもう何も言うまいと決めた。新庄が恋人だと宣言してしまった以上どうにもこうにもならないのだ。安仁屋は
赤星に一瞥をくれてやった。
「おい新庄、おめーあれどうなった?」
「あれって何?」
新庄はあれというのが何を指しているのか全く分かっていない顔を呈した。何だか肩を透かされた気分になった安仁屋が「あれだよ、
ルービックキューブ」と言うと、数秒を費やしてからようやく事を把握したらしい。
「ああ、ルービックキューブか。それが?」
「そ、それがじゃねーよ。完成したのかよ」
「してねーけど」
新庄はけろっと言い放った。あれだけの情熱を見せていたのだから、徹夜でもしてとうとう完成させていると思い込んでいた。安仁屋は
眉を寄せる。新庄の表情からは昨日の情熱がこれっぽっちも感じられなかった。
「早く完成させろよ」
「何で?」
「な、何でじゃねーだろ、あんだけマジになってたじゃねーか」
「そうだっけ?」
安仁屋は絶句せざるを得なかった。これが一日中キューブを回し続けていた男の台詞だろうか!新庄の顔をまじまじと見つめ、軽薄にも
程があるってもんだと非常なほど遺憾に思う。何て気紛れな友人なのだろう。安仁屋はがっくりと肩を落とした。
「俺は人間の本質を今やっと見抜いたぜ・・・」
「ああ?」
新庄は何のことだかさっぱり分からずきょとんと首を傾げた。そんな二人の間へ割って入ったのは、赤星だった。
「やっぱり俺の言ったとおりだ。あんた新庄さんに惚れてんだろ」
その場の空気がしんと静まり返った。その静けさを覆したのは新庄だった。
「て、てめーは突然何を言い出してんだコラ・・・!!」
「何もくそもねーっス。あんたもあんただ、他の男と喋るなんて信じらんねー。浮気者」
新庄は顔を真っ赤に染め上げ、思いつく限りの罵声を赤星へと贈った。返す言葉すら見つけられなかった安仁屋はとぼとぼと踵を返す。もう痴話喧嘩なりなんなり好きに
してくれと彼は思った。
しかしこうなるとあの金魚はどうなる運命にあるのだろう。ルービックキューブの存在を既に忘れ去った新庄だ。安仁屋は一瞬あの二匹の
行く末を案じた。しかし、きっと大丈夫だろうという心強い結論を弾き出すに至った。狂気に満ち満ちた赤星を新庄は決して見放そうとしない。
だからあの金魚たちも、ずっと幸せに暮らすことだろう。そしてルービックキューブだって、新庄の手に握られる日がまた来るに違いない。
何たって気紛れで情熱家で、負けず嫌いな持ち主なのだから。