習慣的に開けていた窓から舞い込む風が鼻の先をかすめたのはある夜の出来事で、その長らく忘れていた冷たい匂いは季節が
変わったという明確な合図だった。
ベッドを背もたれ代わりにぼんやりと座っていた新庄は突発的にこれから夏の匂いを忘れていくんだという思いに駆り立てられた。
枕を抱きかかえて顔を埋めてみても、風は無断で金髪をゆらしたりする。
そんな新庄の数十センチ先の隣にいたのは赤星だった。面白くもなんともないお笑い番組を無意味に眺めながら、新庄が生み出す理不尽
さに頭を悩ましていた。その才能には着々と気づき始めていた。気づかないふりをまかり通せるほど薄っぺらな時間を過ごして来たわけではなかった。
誰にも侵せない世界を作る才能、新庄はそれを持つ男だった。
テレビから聞こえる規則的な笑い声も、ベランダから滑り込む生きた都市の騒音も受け入れようとしていない。
何もかもが偽物であるかのように、それら全てを切り離してしまえる別次元の世界を作り上げていた。
恋は十五歳の少年を未知の困難に直面させた。他人に向ける興味さえ持たず完璧なまでの人生を送っていた赤星が恋をしてしまった。
それはひとえに予想外であり、赤星が過ごして来た十五年間の中で新庄に出会ってしまったことが唯一の誤算だった。だから、たくさんの
障害が立ちはだかった。さて、今新庄を振り向かせるには何が必要だろう?
こうして壁を作られてしまうと途方に暮れる以外なく、最も良い方法がどれであるのかが分からなかった。それでも赤星が
諦める決意を持ったことはただの一度もない。あらゆる手を使い、何度も何度もこの壁をぶち壊してきた。
「好き」
唐突に囁き、何を思ったのかそのまま新庄の耳を噛むという暴挙に出た。しかしこれで全てが、何もかも全てが上手くいくだろうと、
赤星は至って真剣に思い込んでいた。ある世界を作り上げた男は眉一つ動かさなかった。
新庄といると迷子の子どものような気持ちにさせられることがある。自分がどこにいるのか、ここがどこなのかさえもが分からなくなる。誰といても何をしててもこんな風にはならなかった。他人なんて
生きていようと死んでいようとどうだって良いはずなのに。赤星は他人に向ける悪意さえ持っちゃいなかった。
どうすることも出来なくてようやく思いついたのが髪を引っ張ることだった。太陽の色によく似ているその髪はいつも赤星の視界を独占
していた。触れると焦がされるかもしれないという危険性は常にすぐ傍にあった。一瞬躊躇して、それでもこの手を止めるなんて出来るわけもなく。
新庄は目も寄こさないで赤星が必死になって動かした手を振り払った。
とても寒い夜の始まりで、急に季節のことを思い出した赤星は、冬は寒いなんて当たり前のことをみるみる内に思い出していった。
「俺のこと好き?」
決死の覚悟でそう言ってみても状況は何一つ変わらなかった。これから空気はどんどん鋭くなって、寒くなって、凍えてしまって、この身はどこまでもつだろう?
どうして赤星がここにいるのかを新庄はちゃんと知っているのだろうか。ただ会いたいって想いだけを携えて、毎日毎日ここまでやっくて来ることを。新庄が作る世界は
怖い。ここは宇宙のほんの一部に過ぎないはずだった。しかし本当の無限を持っている宇宙なんかよりずっと無限だ。
「聞いてんの?」
新庄はじっと一点だけを見ていて悲しい思いをしているみたいだった。この目を見ていると赤星は不思議な気持ちになった。きっと悲しみをたたえているはずなのに、
とても強い眼差しだった。新庄の目はいつだってあらゆるものから逃げ出そうとしない強さを持っていた。だから彼が作り上げる世界は誰にも汚すことが出来ないんじゃ
ないだろうかと、赤星は全てを知ってしまった気分になった。
そこだけがただ純粋なままで存在し続けた。
また一から考え直した赤星は不意にキスをした。ありったけの思いをこめた。けれど世界は壊せなかった。触れ合ったところはあんなにも
温かかったのに。かつて新庄に言われたことを思い出した。人間との関係をもっと持てと言われた。人間との関係。赤星はただ首を傾げた。一体どうして?何のために?
人と関わること、そんなのを望んだことなんて一度もなかった。これからだって望む気は毛頭ない。だけど、誰とも話したくないときとか何もしたくないときとか、おまえは
そういうのを分かってないって呆れたように言われた。あの時はその意味を理解出来なかった。こういう時のことを言っていたのかと、何の前触れもなくあの日が今日に
繋がった。
赤星はぎこちなく新庄の手に触れた。物音一つ立たない静かな動きだった。振り向かせるためと言うよりはただ触れているべきだという漠然とした感覚に従った。
彼のやり方はいつも幼かった。触れたいという積極的な気持ちをまだ覚えたばかりだった。そんな気持ちを持てる相手に出会ったのだって正真正銘初めてだ。
人の手が触れる。新庄にはその感覚が何だか薄気味悪く思えた。自分が大事にしているものを、自分のためだけの世界を、断りなく汚された気分。それなのに自分のとは別の温かさは
消えない。待っても待っても、ずっと消えない。
「・・・何だよ」
枕のかげから顔を半分のぞかせた新庄が言った。赤星はしばらく彼の目を見つめた。ここにいるわずかな時間だけで色んなことを知ってしまったんだと思った。呼びかけに応えてくれない不誠実さと手のひ
らに触れただけで反応が返って来る単純さ。それらを同時に持つことの複雑さとか。この男は何も知らないんだろうなと思う。自分の行動がどれだけのことを相手に提議する
かなんてきっと知っちゃいないだろう。誰が何を思おうと、どんな現実に直面しようと、何一つ新庄には関係しない。だから手を繋ぐことの理由を聞いたりする。キスしたって
見向きもしなかったくせに。
新庄はただ自分の思うように生きている。
誰に強制されるわけでもなく、自分のやりたいように、ただ自分のために。自分を愛した時、初めて他人を愛せるのだと知っているからだ。だからこそ何でもない顔をして
周りの人たちの心の中に忘れられないものを生みつけることが出来る。たとえば誰かに振り
向いて欲しいと思う強烈な感情を赤星の中に生み、手を振り解かないことで赤星の思いをさらに切なくさせたように。
新庄と同じように赤星だって自分を愛してた。だけど新庄のように他人は愛せなかった。それが彼らの決定的な違いであり、そこから
は天文学的確率で数々の問題が生じた。だから何度も何度も、
飽きもせずにすれ違いを繰り返していく。どうして
同じように出来ないのかさえ分からないのが赤星の欠点だとするなら、他人を愛する意味を理解したいとさえ思わないのが赤星の強みであるとも
表現出来た。全ての物事は無数の側面の存在と共に成り立っていた。一人の人間をある一定の枠組みを用いて定義することは不可能に近い。
欠点や美点というものは視点を変えてみれば全く逆の意味合いを発生させる。だから少年たちは数え切れないほどに傷つき、幾度だって
立ち直ることが出来るのだ。
「別に、きれいだなと思って」
「・・・ったくてめーは意味分かんねえやつだな」
「あんた触んのに理由なんてねーっス」
「俺は触られる筋合いがねーんだよ」
「それはいっぱいある」
そう言うと新庄は顔をしかめて頭をかいた。それでも手は離さないでくれた。こうやって今、赤星の想いが一つ報われる。生まれて初めて触れたいと思う人に出会い、
その人に触れ、たとえ気紛れだとしても受け入れられた。新庄のそばにいるとたくさんの問題に直面するけど、そんな赤星だからこそ今起こったことがどんなに奇跡的な
ことであるかを知ることが出来たのだ。手と手が触れるだけ、ただそれだけの大切さをここまで痛感出来た人間が果たしてどれぐらいいる
だろう。それは冬の寒さにようやく気づけた要領と何ら変わらない。
この世でただ一つの汚れない世界に触れることが出来たのかどうか、それは分からなかった。
だからこそ人は声を持って生きているのかもしれない。声がなければ文字を使い、文字がなければ目で、もしそれが叶わないとしても温かい体が残っているんだ。
こうして赤星は新庄といることで一つ一つを理解していく。失ってしまったパズルのピースを新庄と対峙することで見つけ出し、空いた部分に丁寧にはめ込んでいくように。
こういう作業の繰り返しが二人の日常を作り上げていく。全てがなければただ隣にいればいいだけだ。
「何考えてたの?」
「別に」
「すげー目してた」
「どんなだよ」
赤星はしばらく考える。どう表現すれば良いだろう?とても悲しい目。だけどそれだけじゃない。悲しくて、強くてきれいで、それを見ている自分の心にまで何かを生み出
させる
ような。こっちを向いて欲しいはずなのに、ずっと見ていたいと願ってしまうような。悲しみにさえ恐れることなく立ち向かっていく目をしていた。こんなに難しいことを上手く伝える日本語なんてきっと存在しない。そもそも新庄のことを言葉を並べて語ろうって
方が無茶に決まってるんだ。赤星は自分の考えに一人深々と納得した。一般論も常識も、人類がその歴史の中で築き上げて来たあらゆる
価値観を一瞬にして崩してしまう、それが新庄慶という人間なのかもしれない。
「・・・えっとね、変な目」
「そりゃ悪かったな」
思わず新庄は笑った。何一つ飾りがついていない赤星の言葉には悪意がなくて、だからこそ笑えるぐらいに不器用だった。時々、赤星ほど愛情を持っている人間はこの世に
いないだろうと思うことがある。世界という広義な範囲の中で赤星ほどに愛情深い人間がいるはずないという確信に迫ってしまう。
あんなにも悲しそうにそっと手に触れてくる人間はいない、そんな風に。どうして赤星なんかと一緒に
いるのかを、赤星にどれだけの時間を奪われてしまったのかを、新庄はこういうときにこそ知った。そうだ、もう夏は終わったんだ。
「寒くなってきた」
赤星が新庄の指をなぞりながら言った。時にこうして、愛情ははっきりと目に映った。
寒くなってきた。誰かが言うと本当に冬が始まるんだと改めて思う。別に冬が嫌いなわけじゃなくて、ただ夏への気持ちを捨て
るにはまだ早すぎると思っただけだった。眩しくて空が高かった。蝉は鳴くし、かき氷にだって不自由はしない夏の日だった。それがもう終わってしまったなんて、
あと一年も待たなきゃならないなんて。季節が全部夏だったらいいのに。新庄は真剣に、この世の終わりであるかのようにそう思いつめた。終わらない夏、頭の中で呟いて
みるとまんざら悪い響きじゃないと思った。それを求めるのがどれだけわがままなことかを考えようともしなかったし、過酷な暑さをその身に感じている時にどれだけ
冬の寒さを恋しいと思っていたのかも、とうに忘れ去っていた。人間とは無責任な生き物だ。それでも新庄は何の混じり気もなく、ただ腹が立つほどに夏を夢見た。誰にも気づかれないまま終わった
夏がかわいそうだった。また現実を手放そうとしたら、それは赤星によってまんまと妨害された。
どんなに腹立たしくてもそれが赤星と一緒にいるということだった。こんな理不尽さに目をつぶってしまうなんて、人間の慣れとは恐ろしいものだと実感する。
「もう冬かな」
「まだ秋だ」
「つーか秋なんてあってないようなもん」
「だから今が秋だっつうの」
「だって夏終わったらもう冬でいいっしょむしろ」
「おまえには季節なんて関係ねーか」
「俺をバカにしましたね」
「じゃあ関係あんのかよ」
「・・・春はいろいろ変わってめんどくせー」
「で?」
「夏は暑くてうぜーし、秋はあんのかないのか分かんねーし、冬は寒くてうぜー」
「やっぱ関係ねーんじゃねーか」
「・・・そういうあんたはどうなの」
そう聞くと数秒黙ったままの新庄に見つめられた。無意識的な視線。新庄は季節についての何かを考えている。おおよそそれはくだらない内容に違い
なかった。この男が四季なんてものを愛しているはずがなく、そんなこと赤星には分かりきっていることだった。ところが一度何かを考え
始めると、新庄はそれに没頭しすぎてしまいすっかり周りが見えなくなった。突飛な場面で妙な熱心さを見せたりする。きっと今だって目と目が合っていることなんて頭にない。
さっきはあれだけ働きかけても振り向いてくれなかったのに今度はこんなにあっさりと見つめてくる。これだからこの金髪の少年は、ほと
ほと理解不能な人間で、次から次へとまた新たな障害を赤星に与えていく。真っ直ぐな視線に今にも吸い込まれそうになってしまった赤星
はこうも何の抵抗もなく見つめられると反対に恥ずかしいんだということをその胸に刻み込んだ。
「夏がかわいそう」
「かわいそう?」
「かわいそう」
夏がかわいそう。何だか暗号めいた言葉に聞こえた。夏をかわいそうだという感情。赤星はいつもそうするように思考錯誤して、その感情を自分の中にも探そうとした。
だけどあるとは思えなかった。そもそも新庄だって本当にそんなことを思っているのかどうか、怪しいものだ。
「意味分かんねーっス」
「そのまま」
「ついこないだまで暑い暑い文句言ってたくせに?」
「暑いから暑いっつうんだろ」
「・・・別にかわいそうじゃねーっスよ、夏なんか、夏だし」
「バッカだな、かわいそうだろ。気がつきゃ秋なんだ」
新庄はふんと鼻を鳴らし、赤星は目を瞬かせた。よくもまあこんな訳の分からないことをさも当然だとばかりに言い放てるものだ。
夏がかわいそうだなんてこと、生涯思えそうにない。今この瞬間だけが必要なんだと赤星は強く思った。絡めた指先がもたらす安心感だけ
で十分だった。
「悲しいの?」
「・・・そうなのかもな」
くだらないと思った。それでも訊ねたのは新庄の声を聞いていたかったからだ。赤星ほど新庄の愛情を無駄にしない人間はいないだろう。
彼は様々な媒介を通して新庄の愛情を少しでも多く見つけることにそれこそ毎日死ぬ物狂いで挑んでいる。どんなことだって質問という形に作り変えてやって来た。それに新庄だけが拾い上げることの出来た、誰にも気づかれないまま終わった季節、そのほんの一部だけでも共有したかった。
だけど本当は、全てを分かち合ってみたかった。
「あんたぜってーぶっ飛んでる」
「ああ?何か文句あんだったら言ってみろ」
「ていうか別に文句じゃねえし」
「文句にしか聞こえねーんだよおまえの言い方は」
「・・・んなはずねえ」
「おまえ下手くそだよな、会話」
勝手な評価を下されてしまい、赤星は新庄を恨めしく睨みつけた。言われなくたってそんなのずっと前から分かってた。言いたいことはいつも山ほどあった。だけど声として生み出せたものなんてその
半分もない。その内のどれほどがちゃんと伝わったかなんて、考えたくもなかった。新庄だって話すのが上手だとはお世辞にも言えない男だ。だけど、その少ない声の中には
十分すぎるほどの心がある。攻撃的で猟奇的で、優しくて温かい、そんな心がちゃんとこめられている。だから痛いほどに伝わる。赤星には逆立ちしたって真似出来ないやり方だった。
「夏のために悲しくなるなんてあんたしかいねー。マジで意味分かんねえ」
「うるせえ」
「俺はあんたが世界一可愛い」
「・・・っの野郎てめえは突然気色悪りーこと言うなって何べん言ったら分かんだよ!」
新庄が抱きしめていた枕を振り上げ、それは見事狙い通りのターゲットに命中した。やわらかい枕によって生み出された痛みは今にも
消えていきそうなほど微かなものだった。赤星はその痛みを噛み締めるように記憶の中に閉じ込めた。新庄に与えられたのなら、
痛みでさえずっと覚えていたかった。持ち主に手放された枕を空いている方の腕で抱えてみた。するとたちまち胸を焦がす匂いと出会った。
「照れてる」
「・・・もう一回言ってみろ」
「照れてるの、すげー可愛い」
「・・・呆れてものも言えねえ。てめーは世界一のバカ」
「あんたの世界一になれんならバカでいい」
新庄の顔がみるみる赤くなって舌打をされた。ただ季節に過ぎない夏をそんなにも思えるのなら、自分を心から愛している人間のことをもっと思ってくれても
いいんじゃないだろうか。赤星はしみじみと考えてはみたものの、やっぱり可愛くて可愛くて仕方なかった。別に夏が終わろうと冬が始まろうと知ったことじゃないし、
そんなものは何の条件にもなりはしないのだ。
全ての問題は、夏の終わりを悲しんだとしても、冬の始まりを喜んだとしても、何がどうなろうともこの男を可愛いとしか思えないという
ことだ。
赤星はまたひとつ新しい発見をした。愛ってすごい。
「いい加減好きっつって」
「いい加減手ぇ離せ」
「死んでもヤダ」
「じゃあ死ね」
あっさりそう吐き捨てた新庄が不貞腐れそうになっていた唇に突然キスをした。触れ合った瞬間、赤星は本当に死んでしまうんだと思った。一秒にも満たない間のキス。
「・・・な、何してんスか」
「別に?」
「信じらんねえ・・・んなことしたらどうなると思ってるの・・・」
「知らねーよ」
「ちょ・・・あんたねナメてるとマジでぶっ殺すよ」
「んなことよりおまえ腹減らねーか?」
赤星は瞬きさえ忘れて目の前の男の顔を食い入るように見つめた。こういう時の新庄は世界一性格が悪い。意識はもう食べること。自分で火をつけたくせにその後始末なんて眼中にないのだろうし、
もとより火がついたことにさえ無関心に違いなかった。悪気があってもなくてもたちが悪いことには変わりない。
優しさでも性格の悪さでも、新庄が生み出すものはとにかくどれもが一級品だ。バカみたいに思いやりがあって、悪魔みたいに人が悪い。なんてややこしい男なんだろう。
次の瞬間にはもう別のことを考えている。つかみ所なんてあったもんじゃなかった。これだから赤星の苦悩はいつまで経っても減ってなんて
くれない。
「・・・分かった。秋見つけた」
「ああ?」
「女心は秋の空っつーでしょ。それ、あんたのこと」
「・・・本気で言ってたら殺す」
「すげー本気」
「殺す」
「やらして」
「・・・コラ、バカ、離せ」
「だってもう無理。殺される前に死ぬ」
赤星は枕を放り投げで長い指を強引に口に含んだ。新庄の肌を舌で感じた。こらえきれない吐息を零した男は心まで突き刺すような目つきでもう一度殺人を宣言した。赤星もまた、このままじゃ死んでしまうんだと強く訴えた
。彼らは一体何度命を奪い、一体何度命を与えられてきただろう。新庄の口が再び開くよりも先に赤星が触れるだけのキスをした。
そして引き裂かれるような思いでゆっくりと唇を離し、言った。
「一生離れてなんてやるもんか」
「それ、プロポーズとか言うなよ」
「言う」
息がかかるほどの距離でまだ唇はキスの名残を完璧なまでに忘れていなかった。新庄は数秒間、十五歳の少年が口にするには相応しく
ない申し込みの響きを吟味した。新庄の身はこの世のあらゆる規則によって守られているはずだが、それは相手が十分に常識を考慮して
生きていてくれたらの話だった。実際問題、愛のために罪を犯す人間はたびたび人類史上に現れた。この男もまたどんな手を使ってでもその
目標を達成しかねないという危機感を覚えずにはいられまい。
それもそのはず、幸か不幸か、新庄はどれだけ赤星に愛されているのかをうんざりするほどに知っていた。本格的にこの身に迫る危険に対処していかなくてはならない。
たとえばその形式が結婚という不可解かつ純粋な契約ならば、生涯をかけて赤星につきまとわれてしまうことを認めたも同然になる。
そんなの、考えただけでもぞっとする未来だ。
だけど狂ってるんじゃないだろうかと思うぐらいの愛情を、やはり新庄は知ってしまっていた。悲しいぐらいに求められた手や
未だに残るキスの感覚。突然のプロポーズに対する答えは意外なほど早くはじき出せた。
「やっぱバカだな。世界一の」
他人に興味が持てなかったんじゃなくて、興味を持てる人間がいなかっただけ。一体自分がどれほどの覚悟を決めて言ったのかどうかを全く
分かっちゃくれていないだろう新庄の顔を見つめながら、赤星はそんなことを思った。果たしてプロポーズの返事はノーか、それとも。
夏の終わりに気づけず冬の寒さも思い出せなかった。秋の空なんて知ったことじゃない。赤星は新庄に出会えてなかったら、手と手が
触れる大切ささえ知らない、本当の悲しい人間になっていたのかもしれない。