二月ということを忘れそうなほど暖かく強い日差しは新庄の眠気を誘うことでその意識の中から簡単に赤星の存在を
なくしかけた。
ここのところ屋上へ行くと二人は必ずと言っていいほどの確率で出くわした。まるで待っていたとばかりに何食わぬ顔をたたえた
赤星が新庄のお気に入りの場所を陣取っている。新庄はそんな後輩を
今日もまた無言でやり過ごした。赤星が作り上げた、偶然ではない必然性。それが拾い上げられることは永遠になさそうだった。
あらゆる単位の中で最も長い期間である永遠は幾度となく赤星を戸惑わせた。
新庄はごろりと地べたに寝転がった。午後の太陽の偉大さに薄々気づきそうになったけれど宗教的なほど感じ入ることはなかった。
新庄はどこにでもいる単なる普通の十六歳でしかなかった。太陽は偶然にもそこにあっただけだった。赤星はいきなり取って
つけたように言った。
「夜なんて来なけりゃいい」
空はどこまでも青かった。赤星は生まれて初めて自分の本音を青い空の中に解き放った。その二つはとても対照的だった。
いくら新庄に近づいても心の内をさらしたことなんてなかった、たったの一度も。だけどもう隠しきれる場所なんてどこにもなかった。
それは強い自分よりも力強くてなかったことになんて出来ないぐらいに輝いていたから。
相手からの返事を諦めなければならない決意を赤星がしかけた頃、新庄が寝返りを一つ打った。あまりにも突然すぎたのかもしれない、
赤星はそう後悔した。
もっと的確な切り出し方をするべきだったんだ、青い空と調和するように、相手にちゃんと届くように。掃いて捨てるほどの声を出して生きてきた赤星には一番
肝心な時に必要な表現力が身についていなかった。
新庄は薄っすらと目を開けて陰日向がコンクリートに描いている模様を視界に入れた。別に春の気配を感じようとしたわけじゃなく、
ただこのまどろみが心地良かった。色んなことを忘れていきそうだった。終りの見えない二月の寒さも機械のように淡々と紡がれた赤星の
声も。
「おまえにもそんな人間らしさがあんのか」
自分の中から確実に消えていきそうだった赤星の声をどうにかかき集めた新庄が言った。赤星がまず初めにしなければならなかったのは
それがどういう類の発言なのかを推理することだった。さっき自分が言ったことへの返事なのか、それとも単なる感想でしかなかったのか。
新庄のことが分からなくなるたび象徴的な金髪に直接触れて確かめたくなった。
「人間らしさって何?」
「人間らしさは人間らしさ」
分かり切っていることをいちいち聞いてくるな、新庄のそういう態度は時に見えない傷を赤星に作った。
それからしばらくして新庄はようやく面倒くさそうに体を起こした。新庄は時々赤星という人間を見失わずにはいられなかった。
「今まで経験したことなんかなかったんだろ」
「何を?」
「そういう気持ち」
赤星はゆっくりと辺りを見渡した。そしてそういう気持ち、その抽象的な言葉が指すものを記憶の海の中から探し出そうとした。
しかし特にこれと言って何もなかった。本当はあるのかもしれない。けど、良く分からなかった。
「ねえっスね」
何度も何度も新庄なりに何かを見出そうとしてきた。だけどそれは無意味なことなのかもしれない。太陽に宗教的な要素を見つけ出して
崇めたてる方がよっぽど意義のあることなのかもしれない。夜なんて来なければいい。新庄は何度だってそういう気持ちを経験してきた。
面白くも何ともなさそうな目で赤星を見つめる。果たしてこの男は今ここにどうやって立っているんだろう?
赤星はほんの少し触れただけで足元から崩れていきそうなほど弱々しかった。
「もっとちゃんと思い出してみろ」
あぐらを組み上げた新庄は片方の手で頬杖をつき、物珍しげな視線を赤星に向けた。一度も経験をしたことがないなんてにわかには
信じられなかった。夜、いつもと同じでしかないのに、急に怖いと思える暗闇。だからこそ朝が来ることを願った。誰かにそばに
いて欲しいと望んだ。きっと誰もが孤独な夜と向き合いながら生きている。同じだけの孤独を分けあいながら、同じ思いを抱えながら、
そうやって生きていく温かさ。それを知っている新庄には忘れてしまう軽薄さと他人を必要としない寂しさ、それもまた人間らしい
生き方だということを理解できるわけがなかった。
「ねーっスよ、特に」
「・・・なら良かったんじゃねーか?これで一歩まともな人間に近づけたってことだ」
新庄は赤星に特別な意味性を無理やり引っ付けた。こうやって赤星はあらゆる意味を新庄からもらった。そのほとんどが価値をなさない
でたらめなものだった。まるで創造されるように月日が重ねられていく。それがちっぽけな十五歳の日常だった。
「あんたはあんの?」
「ないわけねーだろ。おまえじゃねーんだから」
軽蔑するような、あるいは侮辱するような、そんな言い回しだと赤星は思った。それだけの強さが託されていたのならまだマシだった。
新庄はこれ以上はどうでも良さそうに、両方の手のひらを枕にしてまた横になった。赤星は惜しみなく注がれる陽だまりを憎みたいような、
愛したいような、自分でもよく分からない感覚を見つけた。
「誰だって一回や二回経験すんだよ」
もう永遠に口を聞いてくれないのかも、赤星がそう思いつめていた矢先のことだった。新庄の優しさはいつも難解だった。
再び声を聞かせてくれたことに心から安堵する少年の存在は誰にも知られることなく埋もれていく。同じ空を見ている新庄にさえ
気づかれることもないまま一体自分はどこへ流されて行くんだろう。赤星はそう考えかけて咄嗟に止めた。
「俺のはそんなどこにでもあるみてーなやつじゃねー」
「ああ?そりゃ一体どんなだよ」
その質問に赤星は悩んだ。どんな風に表せばいいのか分からなかった。あまりにも長い沈黙が流れた。このまま日が暮れて
しまうんじゃないだろうかと、そんな不安が生まれるぐらいに長い長い沈黙だった。新庄は赤星の口が開くのを静かに待った。
普段はべらべら喋る赤星が生み出す沈黙、新庄はそれを決して蔑ろに扱おうとしなかった。そうするたびに赤星といることの不自然さに
慣れてしまっている自分に気づかされた。
胸を締めつける確かな感情は自分一人では抱えきれなかった。でもそれを明確に示す方法が浮かばなかった。単語を選んでは文章を組み立てた。
文章を組み立ててはそれを崩壊させた。その作業を何度も行った。表現することの難しさを知ってしまった。最終的に赤星が選んだのは
どこにでもありそうなありきたりな表現だった。
「死にそうになる」
「死にそう?」
新庄は方目を開けた。そうしてさんさんと降り注ぐ眩い光から身を守りながらもずっと空を見ていた。空は何かを言ってくれる
わけでもなかったし、特別な反応を求めていたわけでもなかった。ただ、二月という季節の中で照りつける太陽はどこか優しかった。
冬の美点を知った気がしたと同時にまた赤星の存在を意識から失いかけた。だけど淡々とした声が空気に溶かされたことによって
新庄が本当に失ったのは赤星のことを忘れるという機会だった。
「息が出来ねー感じ」
ぽつりとそう言った。夜なんてもう二度と来なければいい。眠れない夜なんて、夜の定義すら曖昧にする。一度も経験をしたことが
なかった。上手く息が出来なかった。だから吸って、吐いて、そう考えていると呼吸は余計によそよそしさを増していった。
「自分じゃねーみたいで苦しくなる。眠みいって感覚忘れる」
一言ひとことを確かめるように言った。赤星の話し方は普段からは想像出来ないほどの拙さだった。新庄が聞いているのか聞いていない
のかは分からなかった。眠そうな目をごしごしとこすっていた。けれど一度も話を遮ろうとはしなかった。赤星の中にまたさっきと似た
ような、けれど新鮮さを失わない、そんな不安が芽生えた時、まるで春だと勘違いしそうなほど穏やかな午後に相応しい声色がその不安を
音もなく消して行った。
「ココアでも飲めば?」
「はあ?」
「ココア」
「何でまた」
「昔っから言うだろ、ココア飲んだら寝れるって。まあ迷信だろうけど」
「・・・迷信試さしてどうすんの」
「バッカだな、やってもねーのに嘘かどうかなんて分かんねーだろ」
ココア。赤星は繰り返した。何だか間抜けな響きだと思った。
それ以上二人は何も伝え合おうとしなかった。それでも同じ空をつかの間分け合った。
夜なんて来なければいい、そう祈るように思った。
それは寂しいからだった。寂しいのは新庄に会えないからだった。たったそれだけの簡単な理屈だった。新庄に会えない夜が怖かった。
いくら眠らない都市と称されていても新庄に会えないのならこの街特有の
ネオンも人の多さもその全てが無意味だった。街中を包む陽だまりなんかより、手を伸ばせば届く距離にいる新庄の金髪に触れたかった。
「もしまた夜なんて来なきゃいいってあんたが思ったら」
どこからともなくチャイムの音か響き渡った。一気に学校中からあらゆる音が蘇った。椅子を引くときのあの独特の音、何百人分の
話し声。新庄に「何?」と聞き返されたことによって自分の声が呆気なく流されてしまったことを赤星は悟った。
「別に、何でも」
ずっとそばにいる。そう言おうとした。
新庄が暗闇を怖いと感じてしまった時はせめてそばにいて守りたいと思うから。金色の髪に触ることさえ出来なかったのに。
触れたら失いそうで怖かった。赤星が恐れたのは暗闇なんかじゃなかった。