一生分投げるつもりなんだろうかと自分たちのことを疑うぐらいにボールを投げあったのは数日前までの冬の寒さを忘れ去るには 十分なほどの暖かさの中でだった。一生なんて長さはお互いよく分かっていなかったのだが。ボールは真っ直ぐ飛び、そしてでたらめに 飛んだりした。ある時唐突に高く高く投げられ、空に 吸い込まれそうになったそれを赤星は必死の思いで捕まえなければならなかった。日の傾きに強いられるようにキャッチボールは終わりを 迎えた。太陽の光はそうやって人間の暮らしを支配していた。
 土手の上にあるアスファルトに辿り着く間、赤星はずっと汗がしみ込んだTシャツの袖からすらりと伸びた腕の先にある新庄の手を見ながらある一つ の葛藤をしていた。時間にしてほんの数秒ではあるが人生の全てをかけて悩みぬいた。そしてその結果、赤星は申し出るという平和的な 答えを導き出した。
「手ぇ繋ご」
「無理。・・・つうかおまえは友達いねーのか?休みの日にわざわざ先輩と過ごすやつがいるかよ」
「先輩じゃなくて恋人。あんたといたいからいるだけ」
「おめーが思ってるより何千倍も友達って大事なの知ってるか?」
「別に知りたくねーっスよそんなこと。それより何で無理なの?」
「ああ?」
「手」
「・・・嫌だからに決まってんじゃねーか」
 新庄はまるで頭のおかしい人間でも見るように引きつった顔をしてそう答えた。バカだとか何だとか、罵られなかっただけマシだ、 赤星はそう前向きに考えることにした。
「相変わらずケチっスよね・・・」
「文句あんなら帰りゃーいいだろ」
 心底腹が立ったが全くその通りだった。返す言葉もないほどだったのだが、それでも眉間にしわを寄せて不満を訴えた。新庄は痛くも痒くも なさそうだった。それと言うのも、せっかくの休みだからと言って強引に新庄を引っ張って来たのは何を隠そう赤星なのである。しかし 何もすることがなくて、予定がないなら最初から連れ出すんじゃないと睨まれてしまったのはつい数時間前のことだった。結局赤星が思い ついたことといえばいつものようにキャッチボールをすることくらいだった。新庄は仕方なくそれにつき合った。二人の間にはいつも野球 があった。野球は二人を離さない役割を一途に担っていたし、野球さえあればという核心的な安堵感を赤星に強く与えた。キャッチボール をしようという提案をしていなければ新庄はとっくの昔に赤星を残して帰っていただろう。
「腹減った」
「俺も。焼きそば作って」
「やだよ。勝手に焼きそば屋でも行ってろ」
 さっきまでの明るさが嘘だったみたいに太陽は徐々に遠ざかっていき、そしてこの時刻特有の色彩で全てのものを染め上げていた。 新庄の髪さえもがいつもと違って見えている。いつもの金色の髪はとても派手だった。人ごみの中にいたとしても一際目立った。金髪じゃ ない新庄なんて新庄らしくなくて赤星はまるで新しい発見でもした気分になる。何だかそれが愛しくて賞賛したくなった。
「オレンジ色になってる」
「何がだよ」
「あんたの髪」
 褒めるという行為をしたことがなかった赤星にはこれが精一杯の言い方だった。当然のように上手く伝わらなかったようで新庄が不審 そうな目を注いでくる。こんなのが恋人に向ける目であってたまるものかと赤星は静かに思った。それから手を伸ばしてオレンジ色に なった髪に何も言わないまま触れたみた。新庄はすぐ鬱陶しそうに頭をふり、今度はぎらりと睨んでくる。新庄の目には魔法でも宿ってんじゃないかと思える ほどの力強さがあり周囲の関心を集めて止まなかった。誰だってこの瑞々しい黒目の中の自分と出会ってしまえば息を飲んでしまうだろう。 新庄のとうてい理屈では説明することが出来ないそういう魅力の前に赤星は呆気なく平伏してしまった。他人を褒めたことさえない、 そんな赤星が今や命懸けで新庄を溺愛している。恋に落ち、赤星の世界はすっかり変わり果ててしまったのだ。 積極的な思想を持ったのなんて生まれて初めてだ。一緒にいたいだとか手を繋ぎたいだとか、髪の色一つだって丁寧に褒め称えたかった。 赤星は少し考えてから口を開いた。
「さすがマイハニー、尖った目つきが超キュートっス。よっ、世界一」
「・・・とうとう狂ったか」
 新庄は小さくそう呟いただけで相手にしようとしなかった。愛してもらう方法を知っていれば良かった、と赤星は思った。何から 何までマニュアル通りにいかなかった。それは本当の恋をしてしまったからで、その相手が運悪く新庄慶だったからだろう。
 夕焼けは二人の姿を同じ分だけ赤い光で照らしたが夕焼けというものの色が例え赤色であろうと緑色であろうと赤星にとっては 大した違いがあるわけじゃなかった。夕暮れとは新庄の髪が新しい色に染まる瞬間だ。二つの影が長く空へと伸びる時間だ。新庄がいなければ 何も無いのと変わらなかった。
「あんた怖いもんあります?」
「ああ?何だ突然」
 新庄はまた顔を歪めた。脈絡のない会話の切り出し方にはほとほと呆れ果てる。赤星は暇さえあればわけの分からないタイミングで くだらない質問を投げ掛けてきた。そもそも何をやっても支離滅裂だった。その度に何が言いたいのかを新庄が紐解いてやらなければならなかった。
「怖いもん、あんのかなって」
「ないとでも思ってんのか?」
「・・・分かんねーから聞いてんスよ」
 表情こそ至って冷静だった新庄だけれど実は度肝を抜かれていた。分からないから聞いている、なんてまともなことを言うんだろう。 赤星のくせにそんな理にかなった発言をするなんて思ってもいなかった。こんなこと誰にも予想出来なかったはずだ。そこまで考えた 新庄は、赤星がこんな面白いことを言ってたんだと今度岡田に教えてやろうと思った。
「あるの?ないの?」
「あるけど?」
 赤星は少しだけ目を丸くした。一人の人にここまで愛され、何不自由なく思われ、そんな人間が何かを怖がるなんておかしな話だ と思った。もし自分が新庄に深く強く愛されていたなら怖いものなんてあるはずなかったから。
「何が怖えー?」
「そうだな、お袋とか」
「・・・お袋」
 お袋、それは母親のことだ。赤星は新庄の母親を一度だけ見たことがあった。 一人暮らしのあの部屋へ訊ねて来たのだ。赤星の記憶力はたぐい稀なる乏しさで、そのうえ先客があると知った新庄の母はすぐに帰った のだけれどまだその姿はおぼろげながらも珍しく記憶に残っていた。あれは残暑が厳しい折だった。確か半袖の白いワンピースを着ていた。 その女性がまさか新庄の母親だとは知らず、浮気相手に違いないと一人でいきり立っていたことも思い出した。後でこっぴどく怒鳴られた。 確かに気の強そうないかにも亭主を尻に敷いていそうな感じがしたが、目が合うなりにっこりと優しそうに微笑んでいた。恐怖心とは 結びつきそうにないんだけど。
「他には?」
「・・・ゴキブリ。怖いっつーか苦手」
「マジ?ゴキブリのどこが怖えーの?あんなのただの虫っしょ」
「お、おまえまさか平気なのか?」
「別に平気っスけど」
「・・・すげーな・・・やっぱ普通の人間じゃねえ。何かどっかおかしいよなおまえ」
「ゴキブリごときでんなレッテル貼られたくねーし」
「普通その単語言うのだって寒気すんぜ」
「ゴキブリのどこがやなの?」
「ゴキ・・・何回も言ってんじゃねえよ気持ち悪りい。名前も見た目も動きも全部やなんだよ。今後一切口にすんな」
「出たらどうしてんスか」
「うるせえなどうにもしねえよ」
「うわ、典型的」
 新庄が恥ずかしさを誤魔化すみたいにむすっとした。その仕草が可愛くて可愛くてたまらなかったけど、奇跡的に口にはしなかった。
「・・・他にもある?」
「そりゃあるけど何なんだよ聞いてどうする気だよ」
「別にどーもしねーけど」
 内心ぎくりとしたが赤星はいつもの表情をぶら下げたまま微動だにしなかった。弱味を握るチャンスだと思っているなんて言えるわけ ない。一方新庄はあからさまに疑いの目を向けたけれど、赤星に教えたところでどうにかなるわけでもないかという結論をさっさと 弾き出し、指折り数え始めた。そんな新庄があずかり知ることの出来ない頭の中で赤星は長い指だなあと思っていた。
「戦争だろ、テロだろ、地震だろ、富士山の噴火もこの辺危ねえっつうしな」
 並べられたそれらはあまりにも非日常的な事柄で赤星にはいまいちぴんとこなかった。新庄もまた真剣に恐れているのかもっぱら怪しく、 「それから・・・」と唸りながらもう意識は別のところにあるようだった。
「試合の前の日の夜かな」
「はあ、何で?」
「何でって何だよ、試合の前の日だからに決まってんだろうが」
「もしかして緊張とかするんスか」
「あたりめえ」
「緊張したからって何で怖くなんの?」
「打てなかったらどうしようとか考えたら怖くなんだよ」
「俺んなこと思ったときねー」
「つうか大体、てめーと一緒にされたくねえな」
 新庄は心底不愉快だと言わんばかりに顔をしかめた。そこまで嫌がらなくたっていいのに、と内心で赤星は男を責めた。
「そんな嫌?」
「嫌に決まってんだろーが」
「・・・何がそんなに嫌だっつうんスか」
「おまえと一緒にされんのが嫌だっつうんだよ。俺は友達だっていなきゃ死ぬほど寂しいし、実際一人んなったら生きていけねーだろうし。てめーと違って怖えーもんぐらいいっぱい あんだよ」
「なら考えなきゃいい。あんたは俺のことだけ考えてりゃいいんスよ」
 赤星がそう言うに至ったのは彼の言動の根本的な法則が新庄に愛されたいという思い一心で成り立っているからだ。しかし新庄はその 文章の前半を聞いた瞬間に後半部分などもはや耳に入らなくなった。なら考えなきゃいい、それはそうなのかもしれないけど、新庄には どしてもそんな風にして自分の感情を切り捨てることが出来なかった。何だか胸がつかえて、悩んで、悲しくて苦しくて、新庄の考えには ちゃんとした過程が存在した。悲しさを切り捨てて、苦しさを切り捨てて、悩みを切り捨てる。その後に残るものは一体何だろう? そんなことをしていたらいつしか本当に何も感じない人間になってしまいそうで、そんなのは絶対にごめんだった。
「・・・まあおまえからすりゃそうだろうな」
 新庄は小さく小さくそう零した。赤星という人間を見失ってしまったのはこれで何度目だろうかと思った。思春期の真っ只中を生きている新庄の感性はごく普通の十六歳らしくとても豊かだ。 怖いものなんて考え出すとたくさんあった。特に試合の前の日なんて怖くて怖くて眠れなかったりもして。新庄はたびたび 多感な時期と称されるちっぽけな高校生でしかない日々をあらゆる感情を抱えながら送っていた。それが輝かしい思春期の日常だった。 そんな新庄は時々、本当に時々、赤星に人間らしさを感じられなくなることがあった。緊張をしない、感動をしない、ましてや泣くことなんて きっとない。新庄は自分でも不思議なぐらいよく泣いた。嬉しかったり悲しかったり、泣く理由なんてどこにでも転がっている。だけど 赤星が泣いているところなんて一度だって見たことがない。赤星は泣かない。新庄は勝手にそうだと決めつけた。だって、この目から涙が こぼれるなんて信じれるわけなかった。だけど泣かないというより、誰でも持っているはずの 感情がすっぽり抜け落ちてると表した方がしっくりくる。泣かないと心に決めていたとしても涙なんてものはその意思とは関係なく自然と 込み上げてくるものだと新庄は知っているからだ。そんな風に考えていると赤星のことが心配になってくる。生きていれば 怖いものの一つや二つあって当然だし、泣かないなんて普通じゃない。
「おまえは?」
「何が?」
「怖いもんねーのかよ」
 赤星は何度か瞬きをした。グローブとボールを片手に当てもなくふらついている二人の背景には本格的な夜が訪れつつあった。
「やっぱねーか、赤星には・・・」
 新庄が時折まるで自分の全てを知っているかのような態度を取ることに赤星はちゃんと気づいていた。まだ何も言ってないのに勝手な 答えを出されてしまった。赤星は口を開くタイミングをすっかり失った。何だかもどかしかった。いくら赤星とはいえ怖いという感情 ぐらい持っていたのだった。しかしそれは母親やゴキブリではなく、戦争やテロや地震や富士山の噴火でもなかった。それよりもずっと、 比べものにならないほどに怖いことを知っている。新庄とするキャッチボールが出来なくなったら、新庄のオレンジ色の髪を見れなくなっ たら、新庄の目の中の自分と出会えなくなったら、新庄が浮気をしたら。数えたら限なんてなかった。恐怖心というものを赤星より知り 尽くしている人間が一体この世界のどこにいるだろう。新庄が怖いと思うものが自分と同じだったら嬉しかった。同じことを同じだけ 恐れて欲しかった。だけど、全然違った。自分だけが一方的に恋をしているその現実に赤星は落ち込んだ。絶望的なまでに。
 うつむいて歩いていると新庄が突然「あ」と声を出した。
「一番星」
 指で示された場所を見やると夕空の中に名前も知らない星があった。赤星はそれを数秒の間見つめ続けた。そしてその美しさに気づく こともなく、今名前も知らない同じ星の下を二人で歩いているという現実を噛み締めた。こんな何でもないことを教えてくれただけで、どうして今の今まで自分を苦しめて いた絶望感が消えてしまうんだろう。赤星はそんなことを思う。つまりそれは、同じ時間を過ごしているという自覚をちゃんと持ってくれて いるという証拠に違いないんだ、と結論づけてみた。
「腹減ったな」
「激減り。焼きそば食いてえって言ってんスよ」
「だから勝手に行きゃいいだろうが」
「あんたが作ったやつじゃないとやなの」
「じゃーてめーで作れよ」
「あんたのじゃなきゃ意味ねえ」
「何だって同じ」
「全然違う」
 赤星は一向に引き下がろうとしない。たかが焼きそばぐらいで何をそんなにむきになってんだ、と新庄は隣から睨んでくる後輩を訝った。 それから冷凍庫の中のご飯の存在を思い出した。
「焼飯だな」
「何で?」
「白メシ余ってっから」
「・・・ったく、しょーがねーっスね」
 手は繋いでくれないしひどい目で見てくるし、帰れなんて冷たいことも平気で言えば焼きそばさえ作っちゃくれない。そんなつれない恋人 だけど一番星と焼飯に免じて全てを許してあげよう。それが恋に落ち、たった一人の人を死に物狂いで愛し続ける赤星に出来る精一杯の ことだった。たとえ一度たりとも通じ合うことが出来なくても、こうして二人は何度でもまたくだらない会話に戻ることが出来る。 そんなことに自分でもびっくりするほど安心した赤星はその足をゆっくりと止めた。そしてそんなことに気づきもせずに歩き続けるオレンジ色の 髪をした男へ向かって叫びたい衝動に駆られる。けれど声は思いのほか頼りなく、本当に叫びたいことを叫ぶのは案外難しいんだということを今日初めて 知ったのだった。
「あんたが作ったメシ食えなくなること」
「あ、」
 まだ辺りが赤くなる前に新庄が投げたのと同じように、赤星は最後の明るさが辛うじて残る空へと願うかのようにボールを放った。 ボールを投げるだけでも二人には軽視出来ないほどの差があるんだということを赤星は悟らずにはいられなかった。ちゃんと新庄の元へ 還って欲しいから、可能な限りそうなるように努力して投げた。けれどあの時、新庄のボールはまるっきりでたらめな方向へと飛んで 行った。
「何の話?」
 赤星が願うようにして投げたボールは迷うことなく新庄の元へと還った。