愛してるという言葉をここまで身近に感じたことは正真正銘初めてだった。

せっかくメロン持ってってやろうと思ったのに電話しても出なかった。昨日何してた?
メロン丸ごと一人で食った。すげーうまかったし。
さっき虹出てたの知ってる?こっから見えた。まだ3時間目。グラウンドすぐ干乾びそー。
こないだ言ってた映画見たけど途中で止めた。今度一緒に見よう。
ホントはメロン一口も食ってねーの。今日こそ持ってくから。すげー愛してる。
何であんた2年なんだ。教室が広い。死ぬほどキスしたい。

 御子柴の頭の中に文字の羅列が勢いよく流れ込んでくる。それは光のようなスピードだった。
 まさかこんなことが書かれていると知っていれば決して見てはいなかったであろう 新庄の学ランのポケットからひらりと落ちた一枚の紙切れ。ノートを大雑把に破いたような、それは本当に単なる紙切れでしかなかった。 しかしひとたび読んでしまえばこう呼べる代物だった。そう、ラブレターである。 新庄のポケットに入っていたこと、そして2年という文字、そこから受取人が 新庄だということは簡単に察しがつく。そして何を隠そう、御子柴には差出人の予想までも立てることが出来てしまった。拾った時にすぐ新庄に渡せば良かったのだが、何しろ大混雑の学食 だったのが悪かった。小さな御子柴は簡単にもみくちゃにされてしまうのだから。
「新庄っ」
「あ?」
 他の部員たちから新庄が離れたところを見計らって呼び止めた。何故周りに人がいてはいけなかったのか、それは 御子柴がそう判断したからだ。わざわざあんなくだらないことを手紙にしたためているということは 秘密にしておきたい恋愛に決まってる。秘密の恋、なんて甘美な響きなんだろう!、と妙に感じ入った御子柴は彼なりに気を回して まるで諜報員にでもなったかのように辺りを警戒する。みんなそれぞれ自分たちのお昼ご飯を求めて散り散りだ。今こそがチャンスだと 決断した御子柴はそっと切り出した。
「実は新庄・・・」
「・・・何だよ?」
 右手で軽々とおぼんを持った新庄がきょとんとした表情で顔を覗き込んでくる。御子柴は新庄のそんな仕草によって自ら念頭に置いた はずの目的をほんの数秒という短い間であるが忘れてしまった。新庄はいつもためらうことなく相手を真っ向 から見つめてくる。御子柴は思わず息を飲み、どうしてだか暑い暑い夏の日を思い起こした。 圧倒的に純粋で、燃えるような強さに目が眩みそうになる。それなのにずっと見ていたいと思ってしまう、 新庄の目はまるで夏の太陽のようだった。一体自分が何を考えているのか理解出来なかった御子柴は出来る限り自然な素振りで少し視線を 下に向けた。それがいけなかったのだろう、視界の真ん中にご登場したのは薄く開いた唇だった。 ラブレターと判断した紙切れに書かれていたことを思い出す。人間という生き物はしばしば超人的とも言える想像力を発揮した。 健全なる青少年ならば尚更というものだった。
 新庄の赤い唇に誰かがキスをする。頭の中でどんどん映像化されていく。ダメだダメだと思いつつもどうしたことか止められない。 このどこを取っても男らしい新庄は一体どんな反応を起こすのだろう?
「御子柴?」
「・・・はっ!!お、俺としたことが何て想像を・・・!」
「何言ってんだよ」
「いいやあ、何でもない何でもない!それより渡したいものが・・・」
 頭の中からどうにか破廉恥な映像を追い出して、大事に大事に自分のポケットにしまい込んだ例の紙切れ、ではなくラブレターを 取り出そうとした。だがしかし、そうは問屋が卸さなかった。
「何なに何の話?」
 二人の間に割って入ったのは湯舟だった。なんて空気の読めないやつだろうか!御子柴はあからさまに苦虫を噛み潰すような顔を 呈したが湯舟は何のこっちゃ全く分かっていない。
「な、何でもねーよ、別に、全然」
「・・・そう?・・・いや、何か匂うぞ」
「あー・・・、そうだ新庄!実はのっぴきならない相談事があるもんでちょっと屋上までつき合ってくれねーかっ?」
「相談?」
「あははは、そうなんだ、相談。けどここじゃ何だから話は屋上で・・・」
「何だよ!相談って何!?俺も聞いてやんぜ!」
 妙に張り切り出している湯舟に焦りを感じつつも御子柴は凄まじい勢いで頭を働かせた。
「す、数学!数学でどうしても分かんねーとこがあってさ!」
「・・・数学ぅ?」
 数学という単語は湯舟の気分を悪くさせるのには打ってつけだったようで一気に表情を曇らせた。我ながら上手いことやったもんだと 思っていた御子柴の気苦労なんて知ったことじゃなかった新庄はけろりと言ってのけた。
「御子柴に分かんねーこと俺に分かるわけーねーだろが」
「ぐっ・・・いや、俺に分かんねーからこそ新庄に分かるってこともあり得るだろ、な!そうと決まれば早速勉強だ!」
「ちょ、おいっ」
「・・・行ってらっしゃあい」
 やけに疲れた声で送り出してくれた湯舟を置いて御子柴は新庄の手を引きなりふり構わず学食を後にした。



 屋上に辿り着くまで御子柴は一切気を抜かなかった。自分の行動一つで秘密の恋をぶち壊してしまうことになるのだからその責任は 重大だったのだ。なんたってキャプテンなのだから!と関係あるのかないのか、御子柴はある種の使命感にかられた。そんなキャプテンの おかげかどうか二人は無事屋上に到着するに至った。新庄は適当に腰を下ろし早速とばかりにカツ丼に箸をつけ、それを頬張りながら 落ち着かない様子の御子柴を不思議そうに見上げて言った。
「で?」
「ふう・・・ここまで来ればもう安心だ」
「安心?」
 御子柴はおいしそうにカツ丼にがっつく新庄の隣に座った。それからにっこりと微笑んで「新庄、大事なもの落としてたよ」とポケット から取り出したものを差し出した。それを見るや否や新庄は世にも盛大にむせ返った。
「わ!大丈夫っ?」
「なっ・・・んで御子柴が・・・!」
「実はさっき新庄のポケットから落ちたのを拾ったんだよ。すぐ渡せばよかったんだけどさ、新庄見失っちゃって。でもって大っぴらに 渡すってのもどうかと・・・」
 どうにか呼吸を整えようとしている新庄は耳まで真っ赤だ。そして恐る恐るといった具合に口を開いた。
「・・・み、見たか?」
「・・・ご、ごめん」
「・・・はあ」
 がっくりと肩を落としてため息を吐く。御子柴は途端に罪悪感を覚えてしまった。
「ほんっとごめん!ま、まさかラブレターだなんて思わなくて!」
「バッ・・・!べ、別にララララブレターなんかじゃねえ!」
「ええ!?どこどう読んでもラブレターだよそれは!俺ちょっと感動したし!」
 断じて違う!と新庄は叫んだのだが御子柴からしてみればラブレター以外の何ものでもなかった、それはそれは熱烈で、濃厚な。
「何で否定するんだよ?あれは絶対にラブレターだよ」
「だから違うっつってんだろうが!」
「いいよいいよ、大丈夫」
 果たして何が大丈夫なのか御子柴は達観したような面持ちで二、三度頷いてみせる。
「それより本当に悪かったよ、ごめんな」
「あ、謝るこたねえよ。こんなもん大したもんじゃねーんだ」
 全然大したもんなんかじゃない、そう言いながら新庄はラブレターをくしゃくしゃに丸めてポケットの中に突っ込んだ。
「ああっ、折角のラブレターが!」
「だ、だからラブレターなんかじゃねえ!・・・こんなのただの紙切れだ」
「・・・何でそんな風に言うんだよ?」
 いきなり大真面目になった御子柴が身を乗り出した。辛うじて声にはしなかったが、新庄は内心う、と小さく唸っていた。
「それ書いた人はすっっげえ心込めて書いたと思うんだけど」
「お、俺の知ったことか。んなこと言ってねーで早く昼飯を食え」
「またそんな言い方する。これはもう昼飯なんて食ってる場合じゃない!」
 このハイテク時代に紙とペンで愛を綴るなんてとてもロマンチックだ。御子柴は突如として日常の中に舞い込んだそのラブレターを 蔑ろにしたくなかった。
「何なんだよ・・・そんな大層な話じゃねえだろおい・・・」
 一方新庄にとっては何とも迷惑な話だった。やっと昼食にありつけたかと思いきやこの始末なのだから。カツ丼にがっつきたい。 だけど御子柴の目は真剣そのものだ。新庄はこの世の何よりも御子柴に詰め寄られることが一番苦手とすることだった。 いやはや、何とも。
「きっと新庄のことを心から好きなんだよ」
「しっらねえよ」
「知らねーなんてひどいよ新庄。あれ読んで何も伝わって来なかった?」
「伝わるも何もうざってえだけだな」
「・・・どうしてさ?俺にはすげー伝わったよ。恋するってこんな感じかあってさ。うざってえなんて言うもんじゃないよ」
 切実にそう訴えるも、新庄はこれっぽっちも納得している様子はなかった。あんなに愛されてて一体何が不満なんだろう? 御子柴はつらつらと考えてはみるけれど、愛さえあれば何もかも全てが丸く収まると思っている御子柴に答えを見つけられるわけもなく。たとえば死ぬ気で 愛されることがどんなに疲れるかとか、溺愛される億劫さとか、そういうものはいざ愛されてみないと分かるものじゃない。恋愛は愛という一言では片づけられないぐらいに色んな要素で成り立って いる。けれど御子柴が定義する恋愛にはそんな複雑さはなかった。とは言え新庄だってつい最近、愛の深みを思い知ったばかりだ。
「でさ、これはプライバシーの侵害になっちゃうかも知れねーから答えなくても良いんだけどさ・・・一つ聞いても良いかな?」
「・・・な、何だよ」
「差出人はずばり、赤星?」
 新庄の頬っぺたが見る見る内に赤くなる。御子柴はまさかそこまで分かり易い反応をされるとは思っていなかった。
「や、やっぱり赤星なんだ・・・!もしかしたらと思ったんだけどやっぱり・・・!」
 予想していたとはいえ御子柴は世界がひっくり返るぐらいに驚いた。至って正常極まりない御子柴には男同士という時点で十分驚き だったのだが、それ以上にあの赤星があんな手紙をしたためてるということの方が何十倍も衝撃的だ。愛になんて無縁そうなあの顔で 愛してるだのキスしたいだの、思いのたけを書き綴る赤星。なんて滑稽なんだろう!
「ということはつまり新庄と赤星はつき合ってるってことかな?」
「バっ、バカを言うな!んなわけねーに決まってんだろ」
「そうなのか?手紙見る限りじゃ親密そうだったけど・・・」
「あのバカが勝手に書いてるだけだろ。要するにストーカーだな」
「ス、ストーカー!」
 御子柴は仰天した。曲がりなりにも後輩のことをストーカー呼ばわりするとは一体どんな了見なのだろうか。新庄がそこまで赤星を 毛嫌いする理由が分からなかった。確かにお世辞にも良い後輩だとは言えないが、野球の腕はぴか一だし、あそこまで自分を貫ける のだって良くも悪くもすごいと思うし、実は少しばかり憧れていたりもする。愛さえあれば何の問題もなく上手く行くはずなのに、現実 問題はそう簡単には行かないものなんだろうか?御子柴が首を捻って考え込んでいる間、新庄はおいしそうにカツ丼を食べていた。
 そしてそんな時、勢い良く屋上の戸が開いた。それはおおよそ招かれざる人物だった。
「あ、安仁屋!」
 そう、屋上に降り立った人物、それはご自慢の長髪をなびかせている安仁屋だった。何やら彼はひどく気分を害しているようで、 眉の間に深いしわを刻んでいる。そのしわの原因など分からない御子柴には、新庄が面倒くさそうに舌打ちをした理由さえ分からなかった。
「てめーら、話は全部聞かせてもらったぜ・・・」
「・・・うえ!?」
 御子柴は素っとん狂な声を上げた。新庄はとりあえずカツ丼をかっこむ。腹が減っては何とやら。
「は、話って何だよ安仁屋っ?」
 のん気にカツ丼を頬張る新庄に代わり御子柴は言った。そうだ、彼の使命感はまだ消えちゃいなかったのだ。キャプテンとして、いや、最早平和を尊ぶ一人の人間として これは何とか誤魔化さなければならない。しかしあまりにも突発的過ぎて上手い言い訳が浮かばない。御子柴はアクシデントに弱かった。 それに湯舟のように簡単にはいかないはずだ。そんな御子柴の隣で新庄は「ああ、うまかった」と満足そうに言った。
「おい新庄・・・一体どういうことだ?」
「ああ?何がだよ」
「何がじゃねえ!んな話俺は一言も聞いてねーんだよ」
「だって言ってねーし」
「て、てめえ、そりゃこの俺を騙すつもりだったっつーことかっ!」
「別にそんなつもりじゃねえけど」
「だったらどういうつもりだってんだ、ああ?」
「何絡んでんだてめーは。いちいち言うようなことか」
「言うようなことだろうがー!!」
「そうか、なら今聞いたとおりだ」
「・・・あのハゲにどこまでやらせた?もう突っ込ませたとか言ったらどうなるか分かってんだろうな!?」
「んなっ・・・バッカかてめえは!今メシ食い終わったっつう時にんな気持ち悪いこと言ってんじゃねえ!」
 一触即発といった空気に御子柴はあわあわと頭を抱えた。この二人のケンカなんて止めれるわけがない。しかし新庄には 全くその気がなかったのか、御子柴の不安を他所にもう何でもない表情を取り戻していた。至って平然と安仁屋を見つめる。じっと 見つめる。まだ見つめる。御子柴の視線は何度も新庄の目と安仁屋の目を往復した。安仁屋は新庄のその目にいたたまれなくなったのか どんどん仏頂面になっていく。新庄はと言うと、痛くも痒くもなさそうだ。
「・・・ふっ、まあいい。この俺が知っちまった以上あのハゲの思い通りにゃいかねーぜ」
 安仁屋はそんななけなしの捨て台詞を吐くなりくるりと背を向けて屋上を後にした。御子柴は安仁屋が何をしたかったのか一向に 分からなかった。
「な、何だったんだ一体・・・」
「嫌な予感がする」
「嫌な予感?」
 御子柴の声が届かなかったのか新庄は安仁屋が消えて行った方を何とも不安そうに見つめていた。




「てめーコラ!新庄に手ぇ出してんじゃねえ!!」
 その怒号は部活の真っ最中に鳴り響いた。赤星が新庄に話しかける。新庄が相手にしない。相手にされなかった赤星が新庄の ユニフォームをくいくいと引っ張る。そしてそれを目撃した安仁屋が怒鳴る、といった経緯だった。たちまち二人の傍までやって来た 安仁屋は昼休み以来それとなく新庄や安仁屋のことを気に掛けていた御子柴の制止をもろともせず赤星の手をばしんと払い落とした。
「あ、安仁屋・・・!ケンカはダメだぞケンカは!」
「汚ねー手で触ってんじゃねえ」
「あ?何が?」
 赤星は目を瞬いて首をかしげる。そして新庄は一人空を仰いだ。彼は見たこともない神さまをべらぼうなまでに恨んでやった。昼休みの嫌な 予感が的中してしまったのだ。何の非もない自分がどうしてバカな二人の巻き添えを食わなきゃならないんだ。そんなことを考えていると 安仁屋が新庄の手をしかと掴んだ。
「こっち来い!おまえは今度半径五メートル以上赤星に近づくな」
「・・・それについて特別文句はねーけど練習が出来ねーだろ」
「それは俺がどうにかしてやろう。口出しする奴はぶっ殺すまでだ」
「ちょっと、いきなり何言ってんスか」
「てめーは寄るな汚らわしい!」
「わー!もう止めろって安仁屋!」
「・・・新庄さん、何これ」
 赤星は物凄い剣幕でまくし立ててくる安仁屋と、それをどうにかなだめようとしている御子柴を放って新庄を睨みつける。
「知るか。俺のせいじゃねーよ」
 新庄がさらりと言った。いまいち状況が飲み込めない赤星はわけの分からない長髪に連れ去られないよう、条件反射的に新庄の二の腕を 強引に捕まえた。状況なんてものがどう転ぼうと、とりあえず新庄さえ目の前にいればそれでいい。
「だから触るなっつってんだろうがハゲ!離しやがれ!」
「無理」
「・・・てめえな、この際言っといてやんよ。新庄のファーストキスの相手は何を隠そうこの俺だ」
「ああ!?」
 叫んだのは他の誰でもなく新庄だった。突然何を言い出すのだろう!頭でもおかしくなったんじゃないのかとしこたま驚いた。赤星は安仁屋の言葉に 雷にでも打たれたかのようなショックを被ったが、それを顔に出すほど可愛い性格の持ち主でもなく。安仁屋とは一切目を合わせようと せずに新庄に向けて言う。
「・・・マジ?」
「マジなわけねーだろ考えろよバカかてめえは」
「ほ、ほんのジョークだよ!そうだよな!安仁屋!」
「おいおい新庄、まさか忘れたとは言わせねーぜ」
 安仁屋がやけにいやらしい笑みを見せる。どうやら自信たっぷりらしい。新庄はキスなんかしたっけと、右手首を安仁屋に、左の二の腕 を赤星に掴まれたままのん気に首を傾げた。赤星は内心穏やかじゃない心境でそんな新庄を見守る。世界一嫉妬深い赤星が他の男とキス しただなんて事実を見過ごすわけがないのである。
「・・・あ、思い出した」
「・・・マジなんじゃねーか!」
「う、うるせーな、ただの罰ゲームだ」
「罰ゲームでもキスはキスってもんだ!いやー赤星、あん時の新庄は可愛かったぜ?ちょっと舌入れただけでそりゃもうメロメロだ」
「てめーも嘘ばっか言ってんじゃねえぞコラ!舌入れただ?ガッチガチに緊張してたのどこのどいつだよ」
「そそそそーだそーだ、あの時の安仁屋はかなり緊張してた。信じるなよ赤星!」
「ぐっ・・・」
「・・・ファーストキスが何だってんだ。俺なんか昨日やったばっかだっつうの」
「な・・・何!?本当か新庄・・・!」
「か、関係ねえだろうが!赤星てめーは余計なことを・・・つーか、あ、ありゃてめえが無理やり・・・!」
「無理やりでもキスはキス」
「・・・かわいそうに新庄、バカがうつっちまうぜ。よしここは一つ俺様が消毒してやろうじゃねーか」
「いやいや何おかしなマネしてんスかそれこそ変な病気うつるっしょ」
「んだとコラ!?」
「マジ危ねーよ、ね、こんなの相手にしちゃダメ」
「てめーら・・・どうでもいいから引っ張んじゃねえ殺すぞコラ!」
 とうとう堪忍袋の緒が切れてしまったのか、新庄は器用に安仁屋の太ももにひざ蹴りをお見舞いしてやった。あまりにも痛かったもので 安仁屋は反射的に新庄から手を離し声にならない悲鳴を上げる。新庄は赤星の手も振り払って完全なる自由を取り戻した。そもそもの話が、新庄を不自由 の身にさせるなんてのは限りなく不可能に近かった。
 新庄慶は多感だ。 毎日まいにち悩んだり笑ったり、人一倍傷ついて人一倍輝いて、いつも自分に 素直に行動し、自分を信じ、そして疑い。そんな風に時間の中を自由に泳いでいる新庄を不自由の身にさせるなどこの世の誰に可能なのだろう。 まるで宝石のようにきらきらと光を放つ新庄慶だからこそ、こんなにも手に入れたいと思わせてしまうのだ。
「ひ、ひざ蹴り入れやがったっ・・・てめーは鬼か!悪魔か!!」
「鬼だろうが悪魔だろうが結構なこった。大体おまえは何がしてーんだよ意味分かんねーな」
 新庄はひどいまでに冷たく顔をしかめてそう言った。かっとなると目の前のことしか見えなくなる新庄には安仁屋の目的が何であるのか なんてさっぱり分からなかった。安仁屋は何とも悲しくなる。まるで娘に冷たくあしらわれる父親みたいな気分だった。
「俺はてめーをこいつの毒牙から守ってやろうと思ってるだけだろうがっ」
「ああ?毒牙?別にいらねーよ。はなっからこいつのことなんか相手にするかよ」
「何その言い草・・・。恋人に向かってよくそんなこと言うよあんた」
「こっ、恋人だあ!?」
 安仁屋の怒号が再び響き渡った。新庄は顔を真っ赤にして赤星を睨みつける。
「うるせえ!元はと言やてめーがあんなくだらねー手紙よこすのが悪りーんだろうが!」
「いやっ・・・きっと俺のせいだ!俺があの時すぐに渡してたらこんなことには・・・!」
「御子柴のせいじゃねえよ。全然違う。全っ部こいつが悪い」
「・・・待て待ておまえら。恋人ってのは一体どういうことなんだか説明してもらおうじゃねえか」
「どうもくそもねーっス、恋人は恋人」
「な、何だってー!?」
 手塩にかけた娘をわけの分からない男に奪われた父親、そんな意味不明な心境に立った安仁屋はもちろん黙っちゃいなかった。 そんなバカな話を許してなるものかと目に入れても痛くないほどに可愛がってきた新庄を力ずくであろうと取り戻そうと決意したのだが、 そこへこともあろうか颯爽と塔子が現れてしまったのだった。
「ちょっと、さっきから何してんのよ?練習中なの分かってんの?」
「練習なんかしてる場合か!このハゲが!このバカが!このチンカス野郎が!こともあろうか俺の可愛い可愛い新庄を・・・!」
 すっかり興奮しきった安仁屋がそんなことを口走ると塔子は訳が分からないといった具合に眉を寄せた。すっかりややこしいことに なってしまい、この事態を収拾したくても何から初めていいのか新庄にはさっぱり分からなかった。赤星はぴったりとくっついて離れ ようとしないし、安仁屋は狂ったように喚き散らしている。キャプテンである御子柴もおろおろと頭を抱えていて頼りになりそうに ない。新庄がどうすればいいんだと頭をフル回転させていると、騒ぎを嗅ぎつけた若菜と桧山までもが登場するという、何とも 残酷な現実が待ち構えていたのだった。
「てめーら何を騒いでんだ?」
 誰かを特定せずに桧山が訪ねた。新庄はこれ以上ことを大きくしてなるものかと間髪いれずに言葉を返す。
「な、何でもねえ。てめーらは練習してろ」
「何でもねー風には見えねーっスよ、安仁屋さんなんか血相変えちゃってる!」
 心配そうな目をしてそう言ったのはいつの間にか登場していた濱中で、確かに安仁屋は物凄い形相だった。
「てめーなんかに俺の大事な新庄を渡してたまるかってんだよ!」
「つうか全く関係ねーと思うんスけど。何の権利があるんスか?」
「おい安仁屋!何がどーなってんだ」
「うっせーな、外野は黙ってろ」
「ああ!?何だとてめー!」
「ふざけてんのかコラー!」
 桧山と若菜は怒りを露にしたが、安仁屋は二人に目も暮れずに赤星を新庄から引き離すことに情熱を捧げていた。また違う勢力が 出現したことに慌てた御子柴はすぐさまそこへ割って入った。
「若菜!桧山!何でもねーんだホント!」
 キャプテンとして少しでも役立たねばと力の限りを尽くそうと御子柴は決意した。元はといえば自分のミスがことの発端となってしまった のだからと冷や汗ものである。しかしそんな御子柴の努力を泡とさせるかのように、顔色を青白くした濱中が赤星を指差してゆっくりと 口を開いたのだった。
「・・・も、もしかして、このバカが新庄さんに手を出した・・・とかっスか・・・?」
「なっ・・・何ですって!?」
 いきなり声を荒げたのは何を隠そう今の今まで傍観者という立場を崩さなかった塔子である。そして同じく濱中の個人的解釈を聞き捨て られなかった桧山と若菜だったけれど、塔子が叫んだことによって声を出すタイミングをすっかり逃していた。
「どういうことなの恵ちゃん!?説明してちょうだい!」
「ああっ?な、何だよおまえは突然・・・」
「いいから早く説明しなさいって言ってんのよこのバカっ!!」
 世にも恐ろしい塔子の形相に赤星を除いたこの場にいる全員が固唾をのんだ。赤星はというと、やけに平然と新庄に何か話しかけている。
「今日家行っていい?」
「おまっ・・・何言ってんだこのバカが!これ以上話ややこしくするようなこと言ってんじゃねえ!」
「別に俺関係ねーし」
「ほ、本物のバカだな、おまえ・・・」
「行ってもいいっスかって聞いてんの」
「耳の穴かっぽじってよく聞けよ、ぜってー来るんじゃねえ」
「・・・メロン持ってくって言ったっしょ。いらねーの?メロン」
 問答無用で赤星の要求を跳ね除けるつもりだった新庄なのだが、メロンという単語を耳にした途端に口をつぐんだ。何を隠そう彼は メロンに目がなかったのだった。甘い甘い、メロン。
「・・・チッ、しょーがねえ、メロンに免じて許してやんよ」
 赤星は目を瞬いて驚いた。いつも拒否されることがメロン一つですんなり受け入れられたのだから。果たしてメロンが自分のおまけなのか、自分が メロンのおまけなのか。もしかしてメロンがあれば何でも許されてしまうんだろうか?そんなことを考えてしまったけど、行ってもいいと いう許しが出るんなら何だってよかった。
「・・・こないだ買ったアイスまだ残ってる?」
「まだ冷凍庫ん中入ってんじゃねーか多分。チョコは俺のだからな」
「言われなくても分かってるし」
「んなこと言ってこないだ食ったやつどこのどいつだよ」
「・・・あれはちょっと誘惑に負けた」
「ふん、今度黙って食ったら殺してやる」
 そこまで言った新庄ははっとして周囲に目をやった。みんなの視線が突き刺さっていることの気がついたのだ。何か余計なことでも 言ってしまったのかと咄嗟に口を手のひらで塞いでみたりする。
「・・・て、てめえ新庄・・・何中学生カップルみてーな会話をしてやがる・・・!!」
「ああっ?べ、別にそんなんじゃねえだろうがっ!」
「言い訳はいけないわ新庄くん・・・あたしにもその辺の安っぽいバカップルの会話にしか聞こえなかったわよ・・・」
「な、なんてこった・・・なんてこった・・・」
 安仁屋は物凄い剣幕で、塔子に至っては顔面蒼白である。若菜はもはや生きる気力を失い、彼の新庄への淡い恋心を承知している桧山は 掛ける言葉も見つけられなかった。
「う、うわーーーん!新庄さんは俺の女神さまだったのにーーーー!!」
 ただならぬ空気を切り裂いたのは、濱中による奇妙な台詞だった。新庄には何を言ったのか一瞬理解出来なかった。濱中が狂った ようにグラウンドを走り去って行く。そう、意外と純朴な濱中少年にとって新庄慶はまさに女神だったのだ。しかし女神と称された本人は 何のこっちゃ分かっておらず、ただ唖然として濱中の背中を見送るばかりだった。
「いいか新庄、俺は断じて許さねえ」
「てめーは何なんだよさっきからわけ分かんねーことばっか言ってよ!」
 もういい加減にしてくれとばかりに新庄は声を張り上げる。それからちらちらとグラウンドの方へと目をやった。そう、新庄は岡田の姿を探して いたのだ。困ったときは岡田だけが頼りだった。しかしこういう時に限って肝心の親友は関川や川藤先生、それに部長と輪になって 何やら話しこんでおり、全くこっちに気づいてはくれず。 ああ見えて真面目な岡田のことだから何か相談ごとでもしているのかもしれないと考えた新庄はがしがしと頭をかいた。 先ほどから御子柴が間に入ってくれているものの安仁屋たちを束ねられるとはとうてい思えないし。
「言っとくけど俺だって赤星には迷惑してんだ。何が気に入らねーのか知んねーけどな、文句があるんだったらこいつに言え!」
 新庄はやけくそ気味に言った。全くもって相手にしていられない。とは言っても別に嘘や大げさを言ったわけじゃない。実際赤星には うんざりしていたのだった。毎日まいにち言い寄られ、あんな手紙を休み時間ごとに渡され、挙句の果てには家にまで入り込んで来る。 赤星の熱心さはもはや正気の沙汰じゃなかった。勝手に恋人という関係まで結ばれてしまっているのだから。
 一方赤星は恋人のその言いざまに心底傷ついていた。命を削り、魂を削り、そうまでして全ての愛情を捧げているというのに、迷惑 なんて評価をくだされてしまうだなんて。そんな仕打ちに黙っていてなるものかと赤星は文句の一つでもお見舞いしてやろうとしたのだが、 それよりも先に口を開いた塔子によって制されてしまうこととなったのだった。
「前々から赤星くんが新庄くんに粉をかけてるのには気づいてたわ。けどそれは新庄くんの問題だと思ってあたしはなくなく目を つぶってたのよ・・・だけど、新庄くんの口から迷惑だって聞いたからにはもう黙ってられないってもんよ!!」
 遂に塔子の正義感に本格的に火がついてしまった。それに塔子の新庄贔屓は部内でも、いや、この学園内でも有名だった。しかし赤星にとっては 関係のないことである。
「もしかして新庄さんのこと狙ってんスか」
「ふん、どうかしらね、ご想像にお任せするわ」
「とんだ女狐っスね」
「あら結構よ、何とでも言ってちょうだい」
 新庄は眩暈を起こしそうだった。塔子が登場したのはマネージャーとしてこの場を治めるためなのだと思っていたというのに、ちゃっかり 主力となって赤星と張り合っているではないか。
「新庄さんは俺のっスから」
「迷惑がられてちゃ世話ないわ」
「んなの照れてるだけ、本心なわけねーでしょう」
「バカも休み休み言いなさい!キミみたいなろくでなしに新庄くんを渡してなるもんですかっ!!」
 誰のものだとか渡さないだとか、正常な感性の持ち主である新庄にはもうついていけなかった。異常なまでにヒートアップしたやり合いに根をあげ、ああだこうだと 言い合っているどさくさに紛れて逃げを打つことにした。騒動の中核を担っている張本人がそそくさと退散するとは何とも無責任で あったが、どこか抜けている新庄には自分が原因であるという自覚なんて一ミリもなかったのであった。
「もー!頼むからみんな止めてくれーー!!」
 御子柴の叫び声は悲鳴にも近かった。しかし独占欲というものに捕らわれてしまっている者たちの耳にその声が届くことはなかった。 独占欲とはそれを向けられる者よりも、それを持ってしまった者の方が人生を狂わされてしまうものなのかもしれない。
「そもそも赤星と新庄の問題だろっ!?部外者が口出しするもんじゃねーんだっ!」
 そう言うや否や、みんなが一斉に振り返った。その血走った目に御子柴は思わず身を仰け反らせてしまう。そして半泣き状態の若菜が 縋るような目をして真っ先にこう言った。
「・・・てめえよくもそんなのん気なことが言えたもんだぜ・・・っ」
「そうだぜ御子柴・・・こいつがどれだけ新庄に惚れてると思ってんだ・・・かわいそすぎて俺はもう見てらんねーよ・・・」
「部外者だろうと何だろうと許せないものは許せないのよっ!!」
「てめえはこんな奴とつき合って新庄の人生が台無しになっても言いっつーんだなキャプテン」
「い、いや、そういうわけじゃなくてだな・・・」
 一斉攻撃を受けた御子柴はすっかり弱腰になっていた。このままでは赤星の恋を守りきれないんじゃないだろうかと、そんな弱気なこと を考える。だが御子柴は頭をふってその考えを思考の中から追い出した。赤星とつき合うことで新庄の人生が台無しになるとはどうしても 思えなかったのだ。だって、愛してるという言葉をこんなに身近に感じたことは正真正銘初めてだったんだから。
 赤星が望むこと、それはきっと、新庄とあらゆるものを共有すること。家にあったメロンを見て、空に架かる虹を見て 、愛する人から教えられた映画を見て、自分の教室の光景を見て、そこから赤星が思い起こすのは新庄のことだけなのだ。そしてそれらすべてを二人で共有した いだけなのだ。なんて純粋な愛情なのだろう、そう思った御子柴は目頭が熱くなり、使命感をまためらめらと燃え上がらせた。 何の変哲もない日常の中に咲いた汚れなき愛のために。
「とにかくっ!今は練習中なんだから騒ぐの禁止!それでも赤星に妙な因縁吹っかけるってんならグランド50周だ、分かったか!!」
 何十人もの生徒たちが密集する小さな四角い教室を広いと感じてしまうほど、赤星は新庄のことを愛しているのだ。
 しかし肝心の赤星はというと御子柴の胸中になど少しも興味がなく、矛先が自分以外に集中しているのをいいことに新庄の元へと 向かっていた。赤星にとって何がどうなろうとも、大切なのは手の届く範囲内に新庄がいるかいないかでしかない。勝手にふらふらされる と不安だ。ようやく新庄に追いつきその手を捕まえた。
 それだけで赤星の世界には誰にも侵害することの出来ない完璧な平和が訪れる。