永遠だと信じたていたかった日常が崩れていく、冬の終りと共に。




 部室では新たなる未来を模索する会話が時間軸のほとんどを占めていた。もう、大人になる準備を始めなければならなかった。
「俺も野球選手になりてーなあ」
「思ってもねーことを言うなっつうの」
 湯舟が現実から目を逸らすかのように遠くを見て言うと、すぐさま桧山がその頭を小突いた。関川もまた湯舟に便乗するかのように 寂れた目つきで口を開く。
「けどスポーツ選手っておいしいよな実際。収入とか桁違げーだし、女子アナと結婚出来るし、芸能人から尊敬されるし」
「・・・おまえサラリーマンとかぜってー無理だろ」
「うっわ、てめーに言われたくねー!」
 部活に出る必要もなくなったというのに、放課後になれば今でも折を見ては部室に集まりこんな話を繰り返していた。それ自体が現実から逃れる 手段だったのかもしれない。そんな彼らにうんざりしていたのは赤星だった。練習が終わってもなお狭い部室にはちらほらと先輩たちが 居座っていた。
「まあ、若菜、てめーはとにかく就職決まっても出勤初日に社長殴ってクビになるとかってバカなことだけはすんなよ!」
「俺もそれだけが心配だぜまったく」
「するかボケ!」
 なんて現実的な会話なんだろう、赤星はぼんやりとそんなことを思った。逃避してるのかそれとも直視しているのか分かったものじゃ なかった。興味はなかった。だけど、いつもこの光景を見ると不思議になることがあった。いい加減なことを言いながらも、 就職だの進学だの主題はあきらか現実から外れてはいない。でも新庄だけは違った。一人だけ、とても非現実的だった。
「うわ、てめーらまだいやがったのか」
「わあ、ホントだ」
「おーキャプテン、安仁屋。一緒に帰ってやってもいいぜ」
「まったくこの暇人どもめ・・・」
 こんな遣り取りもまた一つの日常となりつつある。




 ぞろぞろと連れ立って歩いている集団が分かれ道で分裂する。いつも一番最初に声を掛けるのは岡田で、それを合図にそれぞれ適当な 挨拶を口にした。じゃーなとかまたなとか、好き勝手に。岡田と新庄の背中を見送った後、しばらくしてから湯舟がもう耐えられない とばかりに発言をする。
「新庄は何になんだろう?」
 言った本人がびっくりしてしまうほどみんなが一斉に振り返ってきた。一挙に視線を独占した湯舟はぎょっとする。もうみんな、 不安定ながらも将来のことを考えながら残りの学校生活を過ごそうとしていた。だけど湯舟は新庄が進路について提言している のを見たことがなかった。新庄なら野球選手になるのだって無謀じゃないだろうと思った。それなのに行動を起こす兆しが一向に なかった。段々不思議になってきたのだが、誰も口を出そうとしない。だから湯舟も今の今まで我慢していた。それでももう気になって 気になって耐えられなかったのだ。たった二ヶ月で野球の才能を開花させた新庄の未来、気にするなと言う方が無理ってものだった。
「・・・俺も、実はすっげえ気になってた」
 桧山が言った。それが皮切りとなった。
「あいつが進路のこととか言ってんのって聞いたことねーんだけど」
「プロ行かねーのかよ」
「大学だって普通にいいとこ行けんだろ?なあキャプテン、何か聞いてねーの?」
 次に注目を浴びたのは御子柴だった。期待されているところ非常に申し訳なかったが、御子柴だって同じようにその点については 気になっていたのだ。
「いや、俺も聞いてねーんだよな・・・」
「マジ?つうか、新庄みてーなのって何て言うんだったっけ?」
 若菜に突然そんなことを聞かれた桧山は奇跡的に閃いたけれど、あと一歩というところで言葉が喉に引っかかった。
「おお、分かる分かる、あれだろ?何だったっけな、ほら、あれだあれ」
「何だ!早く思い出せコラ!」
「な、何の話だ、俺全然分かんね!」
「ぐおー!出ねえ!ここまで来てんだよここまで!」
 いきなりそんなことに苦悶していると、横からしゃしゃり出てきた関川が得意そうにこう言った。
「宝のもちぐされ、だろ?」
「おお!それだそれ!宝のもちぐされ!」
 若菜と桧山は苦悶から解放され、湯舟はそんな言葉があったことを今初めて知った。
「勿体ねーよなあ」
「一発がつんと言ってみるか?」
「そうだよな、後悔先に立たずっつうし」
 心配半分、期待半分、というところだった。安仁屋や御子柴と違って、新庄とはスタートがほぼ同時だった。まったくの素人だった 自分たちがある日突然始めた野球。才能なんかなくたって、死に物狂いで努力して甲子園にまで出場した。そんな自分たちの力を 新庄なら世の中に知らしめることが出来るはずだ。夢は叶うんだって、証明出来るはずだ。そんなことを考えた若菜たちは同時に同じ ことに気づいていた。安仁屋と御子柴とはまた違う、新庄は自分たちの光なんだ。
「バカ、おめーら余計なこと言うんじゃねえぞ」
 そう言ったのは沈黙を貫いていた安仁屋で、彼はいとも不満げな視線を浴びた。関川が代表して口を開く。
「何だよ安仁屋、このまんまでいいのかよ」
 安仁屋は平然とした表情を保ったまま答えた。
「あいつは人一倍バカなんだよ」
「・・・どういう意味よ?」
「新庄に当たり前を求めんなっつってんだ」
 安仁屋も初めは、新庄は野球から離れるべきじゃないと考えていた。才能があり、努力を惜しまない新庄はまさに野球をやるには 打ってつけの人物だった。プロを目指すのが当然のことだと思った。それに就職にしろ進学にしろ、新庄なら人よりも選択肢が 広いはずだった。安仁屋には野球しかなかった。しかし新庄はそうじゃない。だからこそ安仁屋は何も言おうとしなかった。あの金髪の少年を当然さによって縛りつける必要など 少しもなかったのだ。
「あいつもバカじゃねーんだからよ」
「・・・さっき人一倍バカだっつったのどこのどいつだ?」
 桧山がそう言うと、安仁屋は一転してバツが悪そうな表情を呈する。
「う、うるせーな、とにかく新庄は新庄、あいつはある種変人だから凡人のプロセスなんざ踏まなくていいんだよ」
 プロセスという単語を上手く噛み砕けなかったのか、若菜たちは「うーん?」と唸るだけだった。湯舟は「プロミス?」と誰にともなく 訊ねたが、相手にする者はいなかった。そんな彼らと全く違うことを考えていたのは御子柴だった。仲間っていいなあ、としみじみ 思った。心配し、信じ、見守る。御子柴も新庄のことが心配だった。だけどそれ以上に信じていた。幾度となくニコガク野球部を窮地から 救い出してくれた新庄が次は何をしでかすのか。それがとても楽しみだった。




「おまえプロ志願届け出さねーの?」
 誰もが口に出来なかった質問を岡田はあっさりと言い放った。果たして新庄がこの質問に関心を向けてくれるのだろうか、という疑問が ないと言えば嘘になる。その実、新庄はまるで当然のことを今さらになって聞かれたかのようにきょとんとした表情をして言った。
「出さねーけど?」
「そうか」
 新庄といると自分たちが卒業を控えているということを忘れてしまいそうになる。冷静な岡田でさえ、周りが慌しくなるにつれて 将来のことで多少は悩み、焦った。人生の中でも最も重要な決断を勝手に迫られるのだ。悩んだり焦ったり、大抵はそんな過程を経て 決めていく。
「おまえは何になるんだろうなあ」
 岡田はゆっくりとした口調で言った。新庄の、将来。まるで想像がつかなかった、一秒先さえ予測不可能な新庄の将来なんて。
「どうすっかな」
 大人になるとか、大人にならないとか、そんな価値観で新庄を縛ることは出来なかった。新庄はあくまでも新庄のままであり続ける だけなのだろう。それはきっと限られた人間にしか出来ない生き方だ。新庄はそれを、簡単にやってのけるのだ。
「就職、進学、プロ野球選手。で、新庄はプー太郎だな」
 くすくすと笑った新庄がプー太郎、と繰り返して言った。決断を迫られているような緊迫感はまるっきり見えなかった。大人とはかけ 離れていた。それなのに少しも危なげがなかった。 未来を見据えながら、過去を思い、そして今この瞬間を軽んじない、そんな器用さを持っているのかもしれない。それとも、本当にただ 何も考えていないだけなのかもしれない。しかし岡田は誰よりも新庄を信じていた。
「新庄、おまえは何にだってなれるよ」
 少年の未来は無限だった。その可能性は計り知れなかった。新庄は変わらない。幾つもの夜を越えるたびそんな思いが確信を得て、だからこそ岡田は 明日を恐れなかった。自分が大人になってしまい、重荷を背負い、息苦しくなったとしても、新庄が笑ってくれさえすれば、 夜を愛することが出来そうだ。明日を、愛せそうだ。




 卒業。その言葉が口にされるようになったことにより、赤星は自分の無力さを痛感せざるを得なかった。時々、新庄と川沿いの道を 辿って帰ることがあった。帰ると言っても二子玉川駅に着けば来た道を一人で引き返す。そんなおかしな下校方法を赤星は一年以上も 繰り返して来た。今日こそは、と呪文のように何度も心に響かせながら。まるで一年以上もの期間をそう唱えるためにだけに費やしてきた みたいだと思うとやり切れなかった。今日もまた自分しか知らない呪文を唱えていると新庄が何やら小難しい表情をしていた。 もしかして気づいてくれたのかもしれない。そんな期待を抱いた矢先、新庄がまた突然わけの分からないことを言い出した。
「おい、フカヒレって知ってるか?」
 赤星は呆気に取られる。あまりにも考えていることがずれ過ぎていて思考が追いつかなかった。
「フカヒレだよフカヒレ。サメの」
「・・・知ってっけど」
「あれってヒレしか食わねーのか?」
「はあ?」
「だから、ヒレ取ったらそのサメどうすんだよ」
「・・・んなこと知らねーよ、俺漁師じゃねえのよ」
 そう答えると新庄は不満げに顔を歪めてからぶつくさ言い始めた。どうやらフカヒレのことが気になって気になって仕方ないらしい。 時折とんでもなくくだらないことを言い出す男だった。
「ヒレしか見たときねーんだよ」
「へえ」
「ヒレ切ったらサメ自体は捨てんのか?」
「さあね、捨てんじゃねーの?うまくなさそうだし、見た目」
 新庄の目が瞬く間に丸くなった。赤星は何かまずいことでも言ったのだろうかと内心どぎまぎする。
「な、何スか」
「マジで捨てんのかよ?」
「や、俺知らねーし」
「おまえが今言ったんだろうがよ」
 赤星は困り果てた。サメのことなんて知っているわけがない。知っているわけがないのだから勝手な憶測を言う他ないのだ。 どうして自分が責められなければならないのだろう。それともサメのことを熟知しているとでも思っているのだろうか?新庄は あきらかに衝撃を受けている。赤星は慌てて言葉を紡いだ。
「肉だって食うに決まってるっしょ、せっかく釣ったんスよ。そう言えば俺サメの肉って食ったことあるよ、忘れてた」
「嘘くせえ」
 新庄は不審そうに眉を寄せた。
「嘘なんかじゃねー。うまかったの覚えてる」
 一体何だって立派な嘘を嘘じゃないとまで言って、嘘をつき通す必要があるのだろうかと赤星は自分を訝る。だけど自分のついたくだらない 嘘によって新庄を守ることが出来るならどんな話だって捏造しようと思った。だからまた、口からでまかせをすらすらと言った。
「あれだね、大体がソーセージとかになるわけ。だからサメを食ったっつう意識がないわけ、そうなわけ」
「・・・なるほど、そういうことか」
 新庄は満足気に呟いた。無力だった自分でも愛する人の苦悩を一つ減らすことが出来たのだ。サメのことでいちいち悲しんでいたら この先生きていけない。あらゆる動物たちの命を奪って世の中は成り立っているのだから。安心しきったのか、新庄が表情を和らげる。 世の中にどんな不幸が巻き起こっていようと、新庄がここにいてくれるだけで自分は絶対的な幸福を手に入れることが出来るのだと、 そう思える幸せを赤星は味わった。
「安仁屋がプロんなって稼いだら世界一たけーもん奢ってくれるっつっててよ」
 赤星はどうして突然フカヒレだったのかを今になって理解した。物事にはそれ相応の繋がりがあった。 だけど、話さなければならないことはそんなことじゃないはずだった。新庄はいつも見つけようとしてくれなかった。何故わざわざ遠回りを しているのかという、本当の理由を。相変わらずの寒さだけが唯一の救いだった。
「プロ目指してたのがたった一人だけだったとはね」
「いや、御子柴もなると思う。まだ俺の予想だけどな」
「何で分かんの」
「見てりゃ分かんだろ」
「分かんない」
「それはおめーの目が節穴だからだ」
 節穴って一体何だろうと瞬間だけ思った。どうして、そんなことを予想したり、わけが分からないぐらいサメのことなんかを考えたり するというのに、この時間を支えている理由については何一つとして予想してくれないのだろう。本当はそんなことばかり考えていた。
「あんたは?」
「何が?」
 決して顔には出さなかったが、赤星はえらく驚いていた。おまえの会話には脈絡がないだとか、赤星はいつも新庄にそんな批判をされる。 しかしこのタイミングでこの質問だ、自分で自分を褒めてやりたいぐらい的確だったはずだ。そうだと言うのに新庄は全く理解していない。 頭でもおかしんじゃないかと思った。やっぱり、少しも現実味がなかった。
「・・・だからあんたはプロんなんねーのかって聞いてんのよ」
「なんねーよ」
 新庄は何の迷いもなく、きっぱりと断言した。赤星はここへ来てようやくこんな質問をしてしまったことを悔やんだ。
 野球だけが絶対だった。サメの真実を知りたかった新庄と、サメの話を捏造した赤星、全く通じ合えない二人が唯一共有したもの。 野球があれば繋がっていれるのだと、赤星は頑なに信じていた。そしてその繋がりが今、断ち切られたのだ。もう何もなくなってしまった。 自分と新庄を繋ぐものがなくなってしまった。あんなこと聞かなきゃよかった聞かなきゃよかった聞かなきゃよかったんだ。
「どう考えてもあんたのが向いてる」
「あいつ最近体つきがすげーぞ」
「人の話をちゃんと聞きなさいよ。自分がどんだけ素質持ってるか分かってる?」
「・・・何ムキんなってんだ」
「・・・ならねーとか、簡単に言わねーでほしい」
 それっきり、二人は口を開かなくなった。何かを話さなければ、どうしてそう思う分だけ言葉が出てこないんだろう?赤星はそんな 痛みに耐えるばかりだった。それに自分の発言によって自分たちの考えていることが全く符合していない事実をこれ以上暴きたくなかった。 赤星はサメのことなんて考えたことがなかった。どうすればいいんだろう、そうやって途方に暮れいてると、新庄がこの沈黙をいとも簡単に 破った。
「まだ直ってねーな」
「・・・ホント」
 それはこのわけの分からない下校方法の時に必ず行われる遣り取りだった。壊れた街灯の話。壊れているのかどうかは分からないが、 もうずっと前から本来の役割を担っていない一本の街灯。光を放つことなどもう二度とないのだろうと、そんな結論を導けるほどの月日を この街灯は無意味なまま存在し続けていた。毎回まいかい、まるでそうしなければならないとでも思っているかのように 新庄がその街灯を見ては言い、赤星も決まって同じ言葉を返し続けた。繰り返し繰り返し遣り取りされてきたそんな何でもない会話が 赤星を救った。
「税金の無駄遣いだな」
 そんなこと考えてもみなかったけれど赤星は頷いた。このつまらない遣り取りを守るために、二人の関係を守るために。壊れた街灯だけ が二人の関係を繋いでいた。街灯で繋がる関係、それってどんな関係なんだろう。どうか、永遠に冬でありますように、そう祈るしかなかった。




 うじゃうじゃと増えた部員たちとの練習にはいつまで経っても慣れることが出来なかった。新庄がいない部活。隅々まで見渡してもあの独特な 金髪を見つけることは出来ない。その光景はずっと不自然なままだった。難なくこなしていた練習メニューの辛さを知っては、何度も 新庄を恨もうとした。そしてそのたびにその無意味さに気がついた。結局、今日もまたあの金髪を探している自分がいた。練習が 終わったとき、部室にいたらいいなと思った。
「プロ志願届け出しました」
 迷惑極まりない取材陣に御子柴が言っているのが耳に入った。新庄の言った通りになった。誰がプロになってもならなくても 赤星には何の関係もなかった。新庄じゃなければ意味なんてなかった。どうして新庄じゃないんだろう。あの、金髪じゃないんだろう。 どうして誰も疑問に思わないんだろう。どうしてもっと重要視しないんだろう。赤星には不思議でたまらなかった。だけど、簡単な ことだった。新庄のために野球をする、そんな愚かさを持つものが誰もいないからだ。
 御子柴に名前を呼ばれた気がする。何かを言っている。何を言っているんだろう。新庄のプロ志願届けを勝手に提出してしまおうか? 赤星はそんなことを考えていた。
「ふーん、あっそ」
 赤星は今まで培ってきた力でもってして投球した。グラブにすっぽりと入ったボールはけたたましいほどの衝撃音を鳴らした。 未来なんかぶち壊してしまいたかった。




 新庄のいない土の上で、投げ続けなければならない。その事実は思いの他赤星を追いつめて行った。数メートル先には監督と御子柴が いた。監督は勝負だと称したが、赤星はただ投げることを引き受けたに過ぎなかった。彼は、何があっても投げ続けなければならなかった 。本来授業中であるこの時間グラウンドは静まり返っている。赤星は監督の言った勝負という言葉を思い出した。そして自分と戦おうと考えた。 ストライクを三つ取ったら、未来をぶち壊せる。自分の中にそういうルールを作った。いつも戦う相手は自分だった。 そういうやり方でしか、進めなかった。
「ねー、ほぅら」
「ワンストライクだ」
「くそっ」
 のん気なものだと思った。ここで打てなかったからと言って何が変るわけでもない。夢なんて諦めたものの負け、ただそれだけのことだ。 キャッチャーとバッターが何やら話しこんでいるようだったが、赤星にはまるで世界が違いすぎた。全てが懸かっていた。それは人生で あり、未来であり、世界にたった一つしかない愛であり、命だった。こんな賭けをするなんてあまりにもバカバカしいとは自分でも 思う。それでも、どんなに無様でも未来を壊さなければならなかったのだ。
 結果から言えば、負けてしまった。そもそも過程など必要ではなかった。赤星は負けたのだ。それがたとえ運や偶然だったのだとしても 負けたのだ。未来を壊してしまえる力などなかったのだ。新庄は飛び立って行くのだろう、冬の終りと共に。 最初から分かっていたことだった。




 とっぷりと日の暮れた人気のないグラウンドにグラブとボールを持った赤星は立ち尽くしていた。制服にも着替えていなかった。 ユニフォームを脱ぐのが、グラブとボールを手放すのが躊躇われた。孤独の闇のふちから光が差すのを待っていたのかもしれない。 母親を待つ迷子の子どもみたいに。声が聞こえた時、あの時もそうだったなと赤星は思った。まるでずっと見ていてくれたかのように あの金髪が現れてくれた。ヒーローのように、名もなき風のように。
「何やってんだ」
「・・・こっちのセリフね、それ」
 泣き崩れてしまいそうな自分を支えているのは何なのだろう。新庄はわずかな逡巡も見せずに歩み寄ってくる。いつもそうだった。 この男は勝手に、心の中に土足で踏み込んでくるんだ。そして触れそうになった途端にいなくなる。そういうことを繰り返して来た。
「今日ソーセージ食ったぜ」
 一瞬それがどうしたんだと言いそうになったけれど、赤星は慌てて口をつぐんだ。そうだ、そう言えばサメの心配をしていたんだった。 なんて、くだらないんだろう。
「てめー俺に嘘言ったな」
「・・・はて、何のことかしら?」
「サメなんか入ってなかった」
「あはー・・・つうかソーセージにも色んな種類があんのよね」
 また架空の事実をでっち上げようと頭を捻る赤星を差し置いて、新庄は言ってのけた。
「まあ別にいいけど」
 赤星は目を瞬いた。昨日あれだけ悲しそうな顔をしていたのに、どうして昨日の今日でそんなにまで手のひらを返すことが出来るのだろう。 そういうつかみ所のなさがよく分からなかった。
「じゃあな」
「何しに来たの?」
「忘れ物取りに」
「どこに忘れたの?」
「部室」
「何忘れたの?」
「ビデオ」
「何の?」
「あしながおじさん」
「あ、あしながおじさん・・・」
 タイトルにびっくりしてる間に部室まで辿り着いてしまった。あんなに、身動きさえ出来ずにいたのに。
「・・・あんたが観んの?」
「そう」
「何でわざわざあしながおじさんなんか」
 やっぱり新庄という存在には現実感が足りないような気がした。おそらく三年生は進路について考える時期だろう。そのさなかに あしながおじさんを手にする男。だけどそれが滑稽で、ある意味においては現実よりも現実的だった。
「世界名作劇場のくせに二十七歳と十三歳が恋愛するんだぜ?革命的だろ。それだけで観る価値あるぜ」
 二十七歳と十三歳。新庄が革命的と言ったように、それだけの年齢差はきっと世間の好奇心をそそるのだろう。十四歳の年の差が 生み出す苦悩の数々とか。だけど赤星には十四歳差なんてどうってことなかった。それよりも重い一歳の差を彼は現実の中で痛感している 真っ最中だったのだから。たった一つ年が違うだけで別々になってしまう、世界。
「プロ志願届け出さねーの?」
「・・・出さねえよ、前も言わなかったか?」
 前じゃない、ほんの昨日の話だった。
「野球が嫌いになったわけじゃねーから」
 果たして自分はそんなことを言ってほしかったんだろうか?赤星はそんなことを思った。
「別にあんたに野球やってほしくて言ってるわけじゃねえよ」
「じゃあ何なんだよ?・・・はっきり言わねーと何も分かんねーぞ。いい加減直せ、そういうとこ。時期キャプテンだろうが」
 新庄が馴染みのソファに腰を下ろしたことによって赤星は静かに狂喜していた。一緒に帰ってくれるのかもしれない。とは言っても、 あのおかしな下校方法でしかないのだろう。はっきり言わないと分からない。そりゃそうかもしれないけど。
「・・・金髪、探しちまう」
「ああ?金髪なんかどこにでもいるぜ?」
「結局分かってねえし」
「だからはっきり言えっつってんだよバカ」
「あんたがいねーと息も出来ない」
 孤独というものが、こんなにも脅威だったなんて。赤星の中にようやく孤独という概念が生まれた。それを生み落として行ったのは 新庄慶だった。新庄がいない人生を生きていく自信などなかった。新庄がいない人生を生きたくなどなかった。ただ純粋に、子どもの ように寂しさに耐えられなかった。新庄はしばらく黙りこくっていた。その間、赤星は出来ることならこの世から消えてしまいたいと 本気で思った。
「俺逃げてた」
 新庄がぽつりと言った。そしてまたゆっくりと確かめるように口を開いた。
「けど岡田が言ったんだよ、何にでもなれるって。おまえはメジャー行くんだろ?」
 赤星には新庄の言いたいことがよく分からなかった。新庄は冷たい男だった。何一つ気づいてくれなかった。誰も気にかけないサメの ことを考えているのかと思えば、次の日にはもう忘れていた。新庄という存在をつかみきれなかった。それなのに時々、めちゃくちゃな 文法を使っては、心に直接触れてくる。
「あんたは何になんの」
「さて、何になるかな」
 焦点の合わない曖昧な答え。その中に新庄はきっと変わらない、そう思わせるだけの強さを持っているからたちが悪いのだ。 出会った頃から何一つ変わっちゃいない。最初からめちゃくちゃな男だった。一年前であろうと、今この瞬間であろうと、新庄慶は新庄慶 でしかないのだ。それなら、一年後も。そう思いたかったし、そう思わなければ立つことさえままならなかった。
「一緒に帰ってもいい?」
「別にいいけど・・・おまえ、何でわざわざ遠回りして帰んだよ」
 赤星は人差し指でこめかみをかいた。一年以上かけて、やっと、これだ。この金髪のせいで人生が狂っていくのだろうと達観せずには いられなかった。ヒーローの強さ、名もなき風の音。
「あんた相当頭悪い」
「あしながおじさんの主人公、本当に十三歳だったか?」
 赤星は長い長い沈黙の後、そんなもん知るかと言った。
 二人は例の下校方法をとった。意味など分からなくても、意味など伝わらなくても、それが二人の習慣だった。習慣が出来上がるまでには それだけの時間を費やさなければならない。今日も相変わらず同じだけの気持ちでもって街灯の話をするのだろう。 そういう、誰にも理解出来ないだろう二人だけの時間が確かにあったのだ。 永遠だと信じていたかったそんな時間も冬の終りと共に消えて行く。




 赤星は春という一種特別な季節を愛し、そして憎んだ。
 新庄を愛していることなど分かりきっていたから。
 次の春も、その次の春も、永遠に。




 いつものように街灯を見上げた新庄が言った。
「あ、直ってる」
「・・・ホントだ」
 世の中にとっては取るに足らない変化だっただろう。しかし、赤星にとってそれは大いなる変革だった。痛みに耐えながら生きている 赤星だからこそ、見出すことの出来た。日常とは常に変化しているのだ。一年以上もの間唱え続けてきた呪文が本当の力を得た 瞬間だった。
「俺も観たい」
「ああ?何を?」
「・・・あしながおじさん」
 ついに日常は崩壊した。お決まりだったおかしな下校方法が形を、変えるのだ。