雨が降っていた。六月、あと数日もすると終わる六月。雨の月だ。日本が雨に支配される月。新庄が六月を嫌うのは雨のせいだった、
雨のせいでしかなかった。
「止みそうにないなあ」
しらじらしく窓の外に目を向けた川藤が言った。こんな相槌に何の意味があるんだろう、そう思いながらも新庄は「そうだな」と返した。
何を言っても雨は止んではくれない。重々しい雲はもう何日も何日も光を遮り続け、そうやって出現した灰色の街はいつかの光を
恋しくさせる。
自分の髪の色に光にも似た色を選んだ新庄は真昼でも薄暗い街にどうしても親しみを抱けなかった。しとしとと、まるで惜しみながら落ちてくる雨。
「どうした、元気がないな」
「そうかな」
「そう見えるけど?」
「そっか」
数回瞬きをした川藤は鼻の頭をかいた。新庄は今日も学校を休むつもりらしかった。つもりらしい、と事前に予測出来たのは新庄が
ここ五日間連続してまともに登校して来たためしがなかったからだ。案の定今日も、一時間目も二時間目も、その次の時間もずっと教室には
新庄の姿がなかった。だから川藤はこうして昼休みを利用して新庄のアパートまでやって来たのだった。
「今日も部活は出るつもりか?」
「ん」
「風邪でも引いたのか?」
「引いてねーよ」
「もう五日目なんだぞ?」
五日、という言葉に新庄は驚いた。けれど出かけた言葉は雨の匂いに吸い取られたかのようで、それを取りかえそうにも
、どうしてもやる気が起きない。だからぼんやりと頷いただけだった。何もかも雨が悪かった。
それでも五日間という長さは胡散臭かった。どう長く考えても三日間ぐらいの感覚しかなかった。毎日まいにち部員たちがここへやって
来ては普段と何ら変わらない時間を過ごしていたせいだった。安仁屋はまるで父親みたいな口ぶりで説教をしていたし、若菜はおまえの
いない学校なんてダイヤが乗っかってないエンゲージリングだとかなんとか喚いていたし、岡田はただ優しく笑ってくれた。
みんな優しかった。その優しさを棒にふりたくはなかったが、やっぱり雨は降っている。だけど部活は雨のせいでたまった鬱憤を晴らす
のには打ってつけで、六時間目頃にはのんびり学校へ向かった。
「どうしてだ、新庄」
「何が?」
新庄はきょとんとして言った。そのあまりに何も考えていないだろう表情に川藤はどうしたものかと思った。こういう無邪気さを
目の当たりにすると、以前二子玉川学園の教師たちが揃いも揃って新庄一人を持て余していたことに納得したくなる。いくら教師になって
間もない川藤とはいえ既に何百人もの生徒たちを目にしてきた。新庄はその中でも、まるでどの類にも属さない極めて特別な存在だった。
川藤がそこまで思うに至った一番の原因は新庄の無知さだった。五日もろくに登校していないというのに全く悪びれた様子がない。
そこまで純粋にやられると、登校しないぐらいが何だって言うのだろうと、むしろこの五日間の新庄の行為こそが正しいことのように
思えて来るのだ。悪気などないことは明らかだった。実際、さっき玄関で対面したとき、新庄は慌てることも焦ることもなく、むしろ
川藤自身が自分の目的を見失いそうなほど何でもない顔をしていた。普通の生徒なら言い訳をしたり、何しに来たんだと突っぱねたり、
つけ入る隙を与えるものかと無視したり、大抵がそういう幾つかのバリエーションのどれかに当てはまる。けれど新庄は何の虚勢も
張らず、自分を卑下することもなく、本当に何てこともなく迎えてくれたのだ。しかし教師である以上説き伏せなければならないことが
ある。新庄の特別性を潰してしまうのは一人の人間として辛かったが、川藤は教師だった。
「勉強ってな、今しか出来ないんだ」
新庄が不登校に陥った原因は勉強にあるとした。純粋に推理した結果、勉強のほかに思い当たることがなかった。
新庄はどこに出しても恥ずかしくないほど自慢の生徒で、若干の贔屓目を持ってしまうぐらいに可愛い生徒だった。そんな新庄は
友達にも恵まれていたし、野球部のマネージャーを筆頭とした女子生徒たちにもあれこれと世話を焼かれ、人間関係のもつれなど
まず有り得そうになかった。そういう単純明快な問題によって新庄の不登校が発生したなら説得も楽だったのに。
「勉強・・・」
「知識があると世界が広がる」
川藤の誠意は相手へ真っ直ぐ伝わった。だから新庄は自分が勉強をしたくないから学校へ行かないんだと思われていることを明確に
悟ることが出来た。もし雨が降ってるから、なんてことを言うとどんな対応をされるのだろう?一瞬そう考えたが、優しい先生のことを
思うと何だか正直に言うのが申し訳ないように感じられた。六月が終わるまであと数日。新庄は七月になれば雨からの解放が待っている
のだと何の根拠もなく信じている。だから後数日間、川藤の優しさにつき合ってあげようと思った。雨が降ってるから。そう打ち明ければきっと、
川藤を今以上に悩ませてしまうに違いなかった。
「まあ、それは分かってんだけど」
「楽しいだろう?新しいことを知っていくことって!」
「まーな」
一つ一つに答えを返しながらも新庄の意識は雨で満たされていた。雨が嫌いなだけならただじっと止むのを待っていれば
いいだけだったけど、雨は何か強い思いを生んでいく。それが一体何であるのか分かったためしなんてなかったけど。
こんな感覚を、川藤は知らないだろうか?そう考えて危うく口に出しかけたが、知っていれば勉強よりも先に雨について語っていた
だろうと思い直した。
「ほれ、それにもう期末テストだしな」
「うん、知ってる」
ぼんやりと窓の外を眺めながらこくりと頷くその姿が川藤にはまるで知らない少年のように見えた。さっきから素直に口を
開いてくれてはいるけれど、どうもうわの空だ。何かを拒絶しているような、夢中になっているような。しかし、そう義務付けられて
いるのだと思い込んでいるのか、この世の全てをただ愛して来ただけの川藤には一体この少年が何を拒絶しているかなど分かるはず
もなかった。何かに没頭したまま頬杖をつく少年の横顔は異様なまでに魅力的だった。全てを悟っている大人のよう
でもあるし、たとえば母親の帰りを待つ、それ以外を必要としない、たった一つだけを求めている子どものようでもあった。どちらに
しても自分は蚊帳の外にいるのだ、川藤はそう思い至った。読書家である川藤の頭の中は常にたくさんの言葉で溢れかえっていたし、
今も偉大なる作家たちの様々な言葉が頭を巡ったが、新庄の横顔を見ていると、それらは所詮、活字でしかないのだということを
思い知らされてしまった。
ああでもない、こうでもない。川藤は頭を捻った。その価値を見失ってしまった先人たちの言葉が駄目なら、自分の言葉を生み出そうと
したのだ。しかしどんな文章を構築しても今一つ何かが足りなかった。それは川藤にボキャブラリーがなかったと言うよりは、
この瞬間を作り上げる要素を統制していたのが新庄だったからだろう。
少年の横顔を見つめながら尚も考えを巡らせていた。すると全く突然、少年が振り向き、不意に視線が絡まった。ゆるい雨の音が
延々と流れる。
あまりに突発的で川藤は身動きを取れずにいた。
新庄から先に目を逸らして行くだろう、そんな風に頼りなく高をくくるしかなかった。しかしその期待はなかなか現実のものとならなかった。
新庄はじんわりと真っ直ぐ、川藤を見つめ続けた。何も言わずにただぼんやりと。相手に今ある現実を疑わせるほど無気力な強さで。
無気力な強さ、そんな矛盾を生み出させるほどの確かさで。川藤は何がどうなったのか分からなくなり、このはっきりとしない光景に
ひどく不安になり、それでも確かなものは新庄だけで、新庄に縋るしかなく、新庄の言葉や行動を待つことしか出来なかった。
けれどそんな川藤を裏切るかのように現実は動かない。
なぜ自分から目を逸らせないのか、川藤はその理由を掴みきれずにいた。
川藤は全てのものを平等に愛しているにすぎなかった。そんな彼がある特定の対象に見惚れたことなど皆無に等しい。
晴れの日も雨の日も、全ての人間も、川藤にとっては同じだけ美しかった。だから川藤には特別なものなどなかった、何一つ。
川藤は生まれて初めて特定の対象に出会った。新庄慶だった。
これ以上この目を見るべきじゃない、川藤はそう思い始めた。わけなど分からないが思想の根本的な部分でそう思った。それでも
物理的な力によって押さえつけられているかのように顔を逸らせない。だがそれは単なる言い訳だった、実際には何の力も
加えられていないのだから。憂う大人のような色気を持ち、何も考えていない子どものような無邪気さを持つ、少年のみずみずしい
目を見ていたかった。だからこそ見るべきじゃないと思ったのだ。
いまだかつて経験したことのなかった苦悩を終わらせたのは玄関から届いたチャイムの音だった。新庄が川藤の葛藤など微塵も考慮
せず、それどころかはなはだ気づいてなどいなかったのだろう、いとも容易くふらりと視線を逸らしていった。本当に呆気なかった。
川藤があれだけ苦悩しながらもついに出来なかったことを新庄は当然のごとくやってのけたのだ。
「うわ、何だてめえ」
新庄はドアを開けるなり言った。時間の流れに追いつこうとする川藤が目をやった先に立っていたのは赤星だった。
「行くよ」
「ああ?」
新庄は躊躇うこともなく顔をしかめた。赤星のこういうやり方に何度文句を言って来ただろう。普段はあれだけ流暢な日本語を無意味に
操る赤星が、新庄の前でだけしばしば肝心な主語を飛ばした。新庄は何度もいちゃもんをつけた。しかし赤星のそのやり方が直る気配は一向に
なかった。
「行くよっつってんの」
「てめーバカか?何回言ったら分かんだよ」
新庄は今日もまたいつもと同じような文句を並べようとしたのだが、赤星はやけに平然と部屋に押し入った。そしてそんな赤星が
担いでいるボストンバッグに新庄は眉を寄せた。赤星は川藤と出会った。
「赤星じゃないか、どうした、おまえも新庄が心配だったか」
心配?何だそれ。赤星は率直にそう思う。しかしそんなことよりも何だってここに監督がいるんだということの方がずっと重要だった。
よって赤星は新庄を睨みつけながら深い深いため息を吐いた。余計なことを口走って欲しくないのか、新庄が慌てて口を開く。
「て、て言うか何なんだよそれ」
「何が?」
「それだ、その荷物は何だっつってんだ」
「ああこれ?」
赤星はボストンバッグを床に下ろす。そしてこの五日間をかけて固めた決意を表明した。
「旅行行きましょう」
「りょ、旅行!?」
赤星が言うや否や声を張り上げたのは川藤だった。
「な、何だ?二人で旅行するのか?」
「つーかもうすぐ昼休み終わんじゃねーの」
赤星は小指で耳の穴をかきかながら言った。その隣でぽかんとしている新庄にやれやれとばかりに説明を始めた。
「沖縄。旅館予約取った。シーズンだからいいとこじゃねーけど。つうかオンボロだけど。一泊二日だけど。ちなみに飛行機は三時」
「んなっ、な、ああ!?」
「今予約取れるとこ探すの超苦労したのよね」
「て、てめーの妄想か?そうなんだろ?」
「いえ、現実」
いけしゃあしゃあと言った赤星に、遂に新庄の怒りが爆発した。
「てめえいい加減にしろ!本気で言ってんのか!?いっつもいっつも頭おかしいこと言いやがっててめーにゃ常識っつうもんがねーのかよ!!」
「早く荷物つめたら?」
「ひっ・・・人の話聞いてんのかコラ・・・!!」
「飛行機、窓側譲ってあげる」
川藤はいきなり勃発した口論を見守った。そうしているとどうして自分がここにいるのか一気に分からなくなってくる。
目の前にいる新庄はいつも通りの新庄だった。あれだけ正体不明の何かに没頭していただろう新庄が、めっきり元に戻っている。
川藤が何を言ってもうわの空だったというのに、赤星の意味不明な行動はこんなにも簡単に新庄を取り戻してしまった。
川藤とは全く違うやり方で、滅茶苦茶なやり方で。
「何が沖縄だ、行ってたまるか」
「沖縄、雨降ってねーよ」
雨、ちまちまとゆっくり、降り続ける雨。そうだ、雨が降ってるんだ。新庄は途端に思い出した。降水のことを、六月のことを、
灰色の街を。
「あっちじゃとっくに梅雨明けてる。天気予報も見てきたし」
「・・・梅雨明け?」
「梅雨明け。夏真っ盛り」
「夏真っ盛り・・・」
「青い空に青い海、かぶと虫は捕り放題だし、すいかもかき氷も好きなだけ食っていいよ」
赤星の口から次々と生まれてくる言葉は新庄にとってまさに魔法の言葉だった。新庄はゆっくりと確実に魔法にかけられた。
「行きたくねえ?沖縄」
「い・・・行きたくなくはねえ・・・」
「それは行きたいわけでもねーってこと?」
「そ、そうじゃねえよ!」
「じゃあ、何?」
「う・・・」
「すっげー晴れてますよ沖縄は」
「晴れ?」
「晴れ」
赤星は愛の言葉を囁くかのように甘い声で言う。そしてほだされていく新庄。赤星は心得ていたのだろう、何を言えば、どんな単語を
選べば、新庄の意識を奪ってしまえるのかを。二人を見守るだけの川藤にはそう思えてならなかった。
「行くの?」
とうとう甘くてとろけそうな赤星の声が核心を突くと、完全に魔法にかかっている新庄は大人しくこくんと頷いた。雨が引き起こす
のは嫌な思い出ばかりだった。上手にしまって置くことも、葬ることも出来ない、思い出。沖縄というまるで異国のような土地に
楽しみを見出せば雨の脅威から解放されるだろうし、何よりも新庄はこれ以上川藤に骨を折ってほしくなかった。
一人では到底沖縄旅行なんていう非常識な発想は生まれてこなかっただろう。
「決まり。荷造り手伝ってあげんね」
赤星はしめしめといった具合ににやりとした。すっかり沖縄の地へ思いを馳せ空想に浸りきっている新庄は最早赤星の手中にいた。
そんなわけで、川藤はもう、驚く他にかった。
「ほ、本気で行く気か!」
川藤を翻弄するかのごとく微動だにしなかった現実がいまや激動の瞬間を迎えている。誠実に教師としての職務を全うしようと
していた川藤が、どうすればこの流れに着いて行くことが出来たのだろう。いきなり沖縄へ行こうなんて馬鹿げている!ぱっと行って
ぱっと帰ってこれるとでも思っているのだろうか。時間だって必要だし、お金なんて、高校生の経済状況じゃ無謀にもほどがあるではない
か。
「お、おまえたち、とにかく落ち着け!何をそんなに早まってるんだ!」
「うわ、まだいたの?もう終わりますよ昼休み」
「そんなこといちいち気にしてる場合じゃないっ!!」
「あはあそっスか。まあ頑張って」
赤星は半開きの目を向けてそう言うなり、新庄に「何持ってく?」などと聞いている。川藤は何が何だか、必要以上に焦り始めた。
「し、新庄気は確かか?冷静になってもう一度ゆっくり考えてみろ」
「へへ、俺、サーターアンダギー食ってみたかったんだ、それからちんすこうだろ、紅芋タルトにココナッツジュース」
「しんじょー!しっかりするんだー!」
「そう言えば何かの雑誌で沖縄特集やってた気がする。どこ置いたっけな・・・」
川藤の叫びも虚しく新庄の意識はすでに沖縄へ飛んでしまっているらしく戻って来る気配は一向になかった。旅行に行くも行かないも
個人の自由と言ってしまえばそれまでなのだが、あまりにも結論を急ぎすぎていると言うか、それでは短絡的すぎるだろうと、
まだ十代でしかない少年たちの軽率な行動に、川藤はどうしても納得することが出来なかった。何やら数冊の雑誌を広げ、全くもって話を聞いちゃ
いない新庄は諦めてその矛先を赤星へと変えた。
「赤星、一体全体どうなってるんだ、何だって沖縄なんだ!」
「この人雨好きじゃねーから」
赤星が淡々とそう答えたことで、川藤は盛大にぎょっとした。
「あ、雨?雨が好きじゃないだと?」
「つうかちょっと静かにしててくれません?」
「雨が嫌いだからって、おまえは突然何の計画もなしに新庄を沖縄へ連れて行くというわけか?」
「へえ、まあ」
「沖縄へ連れて行くよりももっと上手い解決策は思いつかんかったのか!?」
「思いつくも何もないでしょう、そんなもの」
「考えればあるはずだ、そんなに早まる必要がどこにある?」
「・・・メンドくさ」
赤星がひどくつまらなさそうにぼそりと零した。
「雨が嫌いなら雨を好きになってくれるよう努力すればいい、そうじゃないのか?」
「はあ」
「雨を好きになれたらもう二度と雨を恨むことはなくなるじゃないか、おまえだって新庄が嫌だと感じることを減らせる方が
いいと思うだろう?世界は美しい、晴れの日と同じように、雨に日には雨の日の美しさがある。それを知ってもらうことが一番だと
思うだろう?」
川藤は誠心誠意を込めて言った。少年たちがやろうとしていることは単なる現実逃避でしかないのだ。教師であり、大人である
川藤の使命はそれがどれだけ浅はかな行為であるのかを説いてやることだ。そして何よりも新庄が雨を愛し、同じだけの親愛を一日
一日に注げるようにしてあげなければならない。しかし、赤星は尚も面倒臭そうに顔を歪め川藤を一瞥する。そして言った。
「どうでもいいけど、取らないでくれます?」
「あ、ああ?何をだ?」
「チッ、メンドくせえな・・・。別に雨が美しかろうが何だろうが知ったこっちゃねーけどこの人が嫌いっつったら嫌いなんスよ。
好きっつったら好きなんスよ。勝手にこの人の気持ち取ろうとしないでほしい」
それはどう聞いたって、屁理屈以外の何でもなかった。これが若さなのかと思った。こんなでたらめな理屈を少しも臆することなく
堂々と言ってしまえる。むしろ赤星の目はそれこそが真実なのだと、それこそが全てなのだと、それ以外なんて必要ないのだと、強く、
激しく、物語っていた。どうして間違いに気づかないのだろう?どうしてそこまで思い込んでしまえるのだろう?川藤には分からなかった、
赤星が新庄慶という存在をどれほどに愛しているかなど、分からなかった。川藤はこの世界の全てを平等に愛していた。赤星はこの世界の
中で新庄慶という存在だけを愛していた。そして新庄は雨が好きじゃなかった。
「・・・新庄の気持ちを取り上げようとしてるわけじゃない」
「してるでしょ」
「雨を好きになってもらいたいだけだ」
「好きになるときゃ勝手になる」
「ならなかったら?ならなかったらどうする?一生この季節になるたび沖縄へ連れて行くつもりか?そういう覚悟がおまえにはあるのか?」
「あんたにはないんだ」
「当たり前だ!おまえはただ新庄を甘やかしてるだけじゃないか、嫌なことから新庄を逃がしてるだけじゃないか」
赤星は大真面目にこんなことを言い出す監督を心底訝った。
別に逃がしてやろうなんて立派な考えを持っているわけじゃない。ただこれは赤星にとって二人きりの旅行を実行できるチャンスでしかなかった。
沖縄なら、もう雨なんか降ってない。
雨が降るたび新庄が寂しそうな顔をすることぐらい、とっくの昔から知ってる。だからこの五日の間、毎晩赤星はこの部屋へ押しかけた。
寂しげな新庄、そしてそんな新庄と対峙することで、赤星はもっとずっと、寂しい思いをしなければならなかった。雨によって
苦悩するのはむしろ赤星の方だったのだ。甘やかして、逃がすこと
が出来たらどれほど素晴らしかっただろう。そう思うほど新庄の感情は強いものだった。新庄だってバカじゃないんだから、雨を受け入れ
られなくなるまでには色んなことがあっただろうし、それだけの理由があったのだろう。それを奪うことが本当に最善なのだろうか?
新庄が精一杯で築き上げてきたものを奪い、全てを愛するように仕向け、そうやって空っぽな人間に作り変えることこそが正しこと
なのだと、そんなことを本気で、信じているんだろうか?
「あんたそれでも国語教師?」
「・・・どうして?」
「絵に描いたみてーに普遍的。ロボットみたいでつまんね」
「ロボット?」
「特別に何か、殺したいぐれー邪魔なもんってないっしょ」
「そんな物騒なこと思うわけないだろうっ!」
「だから特別に好きなもんもない。全部、同じ」
「・・・どういう意味だ?」
「雨でも晴れでもこの人以外みんな死ねばいい」
赤星は沖縄特集に夢中になっている新庄をうっとりと見つめながら言ってのけた。末恐ろしかった。どうして新庄以外が死ねばいいのか
、そこに何があるのか、どう頭を捻ろうとも何も見えて来なかった。少年の愚かな思想を正さなくては
ならない。それなのに、何も言えなかった。殺したいだなんていう強烈な考えなんて川藤にあるわけなく、だからこそ、赤星の
言ったことに間違いがないのだと気づいたからだ。確かに特別なものはなかった。全部が同じだった。全てが美しく、愛すべきものでしかなかった。
川藤が茫然と立ち尽くしているうちに、幼い少年たちは旅立つ準備を終えていた。
「先生、大丈夫かよ?」
「あ、ああ?」
「もうすぐ六時間目始まるぜ?」
「・・・そうか・・・新庄は本当に行ってしまうんだな」
「心配すんなよ、期末テストも大会もぜってーちゃんとする。俺は何があってもおまえを裏切らねーって決めてるから」
まるで生まれ変わったような力強い眼差しと、声色。危なげのない、きっとこちらが期待する以上に何かをやってくれるだろうと
、更なる期待を抱いてしまうほどの姿。川藤には取り戻すことの出来なかったいつもの新庄慶がいた。
玄関を出ると灰色の街。
「・・・新庄、俺はつまらない男か?」
「ああ?・・・何だよ、急に、どうしたんだよ」
「つまらない男か?」
「そ、そんなわけねーだろ!おまえはすげーか、かっこいいよ・・・」
頬を赤くした新庄がごにょごにょと、照れくさそうに、だけど少しの笑顔をたたえながら言った。暗い世界の中で
その赤い頬が、金髪が、笑顔が、揺るがない鮮やかさだった。
「どうしたんだよ・・・誰かが言ったのか?んなこと言う奴がいたら俺が許さねー、ぜってーぶっ殺してやる」
新庄はそう言ったが、赤星は眉一つ動かさずに平然としていた。
「じゃあ行ってくるぜ」
「そうか・・・」
「お土産いっぱい買ってくるから」
「んな金ねーし。貧乏旅行っスよ」
「う、うるせーな、何とかなんだろ」
「なんないね」
「なるんだよ・・・!」
ああだこうだと言い合いながら二人は六月から脱出するために遠い地へと向かう。少年たちの、バカバカしい逃避行。
間違いだらけの旅。川藤にそんなものの正しさを理解出来るわけがなかった。ただ呆れるばかりだった。それでも赤星が新庄を元に戻したことは事実だった。
雲が光を遮ることを知ってしまった。特別という、何の理論も通用しない、愚かで汚れのない根本的な、どうすることも出来ない
思想を持ってしまった。新庄と見つめあったあの数分間は人生の中で最も心をいたずらに揺さぶられた数分間だっただろう。
「・・・早く帰っておいで」
走り寄り新庄を赤星から引き離したい衝動を何とか抑えていたものはつまらない立派な大人の理性だったのか、
それとも新たに芽生えたそれこそつまらないプライドだったのか。一体、何なのだろう。
とうとう川藤の目の前から新庄の姿が消えた。
視界は見渡す限り、灰色だった。