陽の長い夏の午後、太陽はゆっくりと傾き夜の暗闇はまだ少しだけ遠かった。
境内に入りきれなかった屋台が歩道に軒を連ね、人々が集まり、小さな街の本来の静けさがまるで嘘みたいにかき消される。もはやその意義さえ曖昧に
なりつつあるお祭りが東京の片隅でも始まったのだ。人ごみを嫌い駅の入り口の隅に赤星はいた。その目の前をたくさんの人が行き交っていく。
親子、カップル、友達同士、仲間。大抵がそういう言葉で成り立つのだろうそれらを無感動に眺めていた。
赤星にとって十五回目の夏だった。太陽はまだ完全にその姿を隠そうとはしない。何度も見てきた光景をまた繰り返し傍観するだけで
いいはずだった。だけどもう、やり過ごすことは出来ない。肌の上を通っていく生温い空気はどこかよそよそしく、
とっくに慣れきっていたはずの季節が別人のような顔をする。どうしようもなく胸が痛かった。その痛みが何をもたらし何を奪ったのか。
何でもないはずの日常が覆されていく。
夏なんてただ規則正しく巡って来る季節の一つのはずだった。あの男に出会う前までの人生自体が偽物だったのかもしれない。
いつもそうだ、新庄はいつも赤星の世界を変えていった。
駅前に八時。
昨日のお昼休みに屋上にて、いちご牛乳をすすりながら日陰に避難している新庄に声を振り絞ってそう申し出た。
こんなに可愛らしい仕草でいちご牛乳を飲む人間を見たことがない。新庄がいちご牛乳を飲んでいる場面を目撃するたびに赤星はそう
やって陶酔する。何度でも何度でも、飽きもせず繰り返し。もともと他人を見る機会など皆無に等しかった。これまで頭の中に
いちご牛乳のことが刻まれたことだって一度たりともなかった。新庄と結びつけられさえすれば何だってよかった。新庄の苦手なブラック
コーヒーも、新庄の大好きなお祭りのあんず飴も、どれ一つ取りこぼさないように丁寧に記憶していく。まるで歴史研究者が人類にとって重要な事実を発見した時と同じようにして。
それがどんなに些細なことだとしても新庄慶に関すること以外に重要なことなど赤星には何もなかった。何も必要じゃなかった。
東京の片隅で生きている少年が見つけたちっぽけな真理。この惑星に誕生して以来人類が追究し続けて来た真理を赤星は弱冠十五歳にして手に入れたのだ。
新庄がある日突然ブラックコーヒーを愛したなら、ブラックコーヒーに全く新たな価値を
簡単に見出して生きていく。それが幾ら偉大なる先人たちにとってくだらないことだったとしても、この移ろい行く世界の中にありながら赤星の価値観が変わることはなかった。
結局は新庄慶を基準としているだけに過ぎず、だからこそ揺らぐことなど有り得なかった。
夏の空気の中で人を待つことがこれほどまでに苦痛なことだったなんて。人を待たせるばかりの赤星が誰かを待つなど奇跡である。
新庄との待ち合わせはこれが初めてじゃなかった。経験上、新庄がきっかり約束の時間にやって来るという可能性の低さをしみじみ
知っているのにもかかわらず、赤星が約束の場所へ降り立つのは決まって十五分も前だった。待つことを分かっていながら、必ず。
さっきから時計をちらちら見やっているが一向に針は進んでいないように見える。しかし太陽はゆっくりと確実に回帰していった。
一分の長さは時に脅威だった。それでも、永遠にでも待ってしまいそうな自分に気づく。永遠の定義さえ知らないというのに。
例によって視界の中にはたくさんの通行人が行き交った。赤星はそれらの関係性を訳もなく考えながら自分たちの関係には一体どんな名前がつくのだろうか
と考えを巡らせてみる。いつかそれに似た形になりたいとは願っていても、家族ではなかった。友達や仲間と表現するのにも違和感を
拭えなかった。恋人同士、恐らく一番不似合いな言葉だ。しかしそもそも赤星は
自分が新庄に恋をしているのかどうかさえ分かっていなかった。正確に言えば、感情というものに振り回されることなく生きてきた自分の中に突然生まれた
強烈な思いが恋という一言で片づけられるとはどうしても思えなかった。あの金髪に触れたかった、あの強くてきれいな目に自分だけ映して
欲しかった、あらゆる感情の波を持ったあの男を自分だけのものにしてしまいたかった。たとえいつか拒絶されたと
しても諦めることなんてきっと出来ない。諦められるぐらいなら最初からこんな感情なんてなかったも同然だ。未来永劫思い続けること
は分かりきっている。だから赤星はいつかという単語が示す未来を恐れた。これが生まれて初めて持った恐怖心だった。もし世間が言う恋をしていたらもっと楽だったのかもしれない。
思いが叶わなければありきたりに傷ついて、また新しい誰かを見つければいいだけなのだから。誰かなんて言葉を望むつもりなんて
一ミリもない、それほど赤星にとって無意味なものはなかった。拒絶されたら生きていく自信なんてない。あの男を愛してしまったこと、
それが運の尽きだった。
野球だけしていれば幸せだったこれまでの人生が
がらりと変わった。誰かをこんなにも欲する日が来るなんて夢にも思っていなかった。実際、そんな日は新庄慶に出会いさえしなければ
来なかったのに。野球だけで生きていられたあの日々を返して欲しいとさえ思った。それでも、今さらあの出会いが嘘だった
なんてことになれば、もう野球さえ愛することなど出来ないことも分かっている。だから赤星は新庄に愛される日が来ることを待つしか
なかった。もし脅しでどうこう出来る相手ならとっくの昔に手段を選ばず強行していただろう。けれど相手はあの新庄慶だった。
どんな強敵チームを相手にしてもただ一人諦めず、勝つことだけを信じて来たあの新庄に恐いものなどもはやあるわけもなく。
だから待つ以外に方法がなかった。こうして真夏の暑さに耐えるのと同じように。いつかという言葉を恐れながら、それを待ち続ける
のだ。
愛する人を待っている寂しさをただひたすら耐え忍んでいる赤星に救いようのないほど生ぬるい空気が追い討ちをかけていく。
所詮人間はいつの時代になろうともこの暑さに苦しまなければならない生きものだ。とは言っても、赤星が夏の暑さに本当の意味で苦しんだ
のは今年が初めてだった。けれどこの苦しみを甘んじて受け入れあと数分もすれば、視線の先にある無意味な光景は歴史に名を残した名画を
も超越する価値を誇るのだ。もともと名画の価値なんて知らないけど。新庄と夏祭りへ。妄想を繰り広げると夏の暑さの威力など大したこともなかった。新庄がすっぽかしさえしなければ。
どんな人ごみがそこにあったとしても新庄を見つけることは何よりも容易かった。無意味だった光景に最高の価値を付加した男は全く
赤星に気づくことなく平然と歩いている。きっかり十分遅れのご登場だった。ちょうど隣を歩いていた若い女の子の二人連れが新庄を
見上げ目を輝かせてはこそこそと耳打ちをしあっていた。赤星が不愉快そうに顔を歪めたのはその二人連れのせいではなく、
新庄のすぐ後にいたとあるカップルのせいでしかなかった。そのカップルがただ単に人ごみという集団を構成する人員だったなら赤星の目に
とまることなどなかったのだが。
「本当に大人しく待ってる・・・」
赤星を見つけた塔子は言った。喧騒の街で、後輩が立っているほんの数メートル四方だけが全く違う空間を形成しているようだった。
それはきっと、誰にも侵すことの出来ない空間だった、たった一人の男を除いて。
「あん?何か言ったか?」
塔子の小さな小さな呟きを聞き取れなかった安仁屋が義務的に聞いた。塔子はまるで何も言っていないとばかりに
「ううん」と、凛々しく微笑みながら言い放った。赤星はもう新庄の姿に気づいていた。溢れかえる人々に目も暮れず、新庄だけを真っ直ぐ
見つめている。恥ずかしげもなく堂々と、今にも何かを叫び出しそうなほど一途な強さで。塔子はそんな赤星から思わず目を逸らした。
純粋な愛の目撃者になどなりたくなかったからだ。自分を恥じてしまうような気がした。
そんな塔子の目に新庄の着ている真っ白いTシャツが飛び込んだ。
暑苦しい人ごみの中でその白さは空気を浄化しているようにさえ見える。不特定多数が作り上げている集団の中心に存在する特別なその
白さをまとった男が目指す先にいるのは他の誰でもなく赤星であるのだということが、歩を進めるたびに確信めいていく。そもそも、
電車の中で新庄と出会い、行き先を無理やり聞きだした瞬間すでに分かりきっていたことだった。
「遅刻した挙句何のつもりっスかあんた」
「・・・うるせーこれには訳があんだよ」
「あはあ、言い訳」
新庄は苦虫を噛み潰した。まったく安仁屋と塔子と出くわしてしまうなんて運が悪いもいいところだ。がしがしと頭をかいてこの状況を
取り繕うために頭をフル回転させて言葉を探してみたりする。赤星と二人きりでお祭りに行くなんてことが誰かにバレてしまうなんてのは
あんまりだったし、確かに遅刻した挙句おまけを引き連れて来てしまったものだから非常にばつが悪かった。両方の観点から新庄は
上手い文句を考えていたのだが、その矢先塔子が無駄に上品そうな笑みを見せて言った。
「さあ新庄くん、行きましょう」
「ああ?」
「金魚すくいと射的、やってくれるって言ったじゃない」
新庄は盛大に眉を寄せたが、そう言えば電車の中で塔子があれやこれやと話しているのに適当に相槌を打っていたことを思い出した。
「まずはね、射的から!」
塔子は新庄の腕をつかんで強引に歩き始めた。赤星は何が起こっているのかすぐには理解出来ずに目をぱちくりさせる。それから
長髪の男の存在を運良く思い出した。
「・・・一体何なんスか」
「てめーそりゃこっちの台詞だ。何やってんだよこんなとこで」
「何って、デート。あんたたちさえ現れなきゃね」
「なっ、何がでででデートだ・・・!似合わねーこと言ってんじゃねえぞっ!」
おったまげた安仁屋は叫ぶように言ったが、肝心の赤星の耳にはてんで届いていないらしく「折角の夏祭りだったのに」と小さく呟いて
いた。
「・・・夏祭りが何だってんだ。一生に一度じゃあるまいし」
何だか悪者になった気がした安仁屋は自分の行為をどうにか正当化しようとしたのだが、不意に目線だけを寄こした赤星に
言われてしまった。
「一生に一度だと思いますけどね」
赤星はそれだけ言うと金髪の男を追った。これだけ人間が溢れていても新庄は良く目立ち、見失うなんてことは絶対的になかった。
死んだって見失うもんか。
「寒みーんだよてめえ・・・」
安仁屋は顔を引きつらせていた。赤星はずっと前を、数メートル先を歩く金髪を見据えている。今年の夏にはもう二度と出会えない。
射的を探し出すまでにたくさんの出店の前を通った。それはわなげだったり、くじ引きだったり、チョコバナナだったり、毎年恒例の
屋台の数々だった。所狭しと並ぶそれらを横切りながら、塔子はとても不思議な感覚に浸った。小さな頃から同じような光景を何度も
見てきたはずなのに、胸が高鳴るほど新鮮だった。ふと隣を歩いている男を見上げてみる。視線に気づいたのか新庄が振り返り、少し
首をかしげて瞬きをしていた。
「やられた!」
赤星と新庄が忽然と消えた。まるでひらりと忍者のように姿をくらましたのだ。
「バッカ、おまえが目ぇ離すからだろーがっ!」
「あたしのせいにしないでよ!この人ごみなんだから仕方ないでしょう!?っていうか恵ちゃんだって人のこと言えないじゃないのよっ!!」
塔子の腕にはくまのぬいぐるみが抱かれていた。それは射的の景品だった。計画通り新庄を射的の出店まで引っぱり、ひと目惚れ
したこのぬいぐるみが欲しいと言った。高校生にもなってくまのぬいぐるみが欲しいなんていうのも馬鹿げているかもしれないと思った
けれど、新庄は分かったと言ってくれた。そして本当に獲ってくれた。ねばり勝ちみたいなものだったけど。塔子は全財産をかけても
いいと思った。実際、もう財布には帰りの電車賃ぐらいしか残っていない。それでも腕の中にはくまのぬいぐるみ。
新庄が自分のために獲ってくれた。
「あいつら一体どこ行きやがった!」
安仁屋があくせくとして言った。人々の群れは赤星と新庄を上手く隠した。辺りはもう夜だった。塔子はあの真っ白いTシャツを着た
男をどうにか探し出そうとした。しかしどれだけ目を凝らしたってどこにも見当たらなかった、まるで全てが夢であったかのように。
「ちくしょう・・・影も形もありゃしねえ」
「無理なのよ」
「ああ?」
「邪魔しようなんて無理なのよ、初めから分かってたわよ」
あわよくばずっと新庄と一緒にお祭りを回りたかった。だけど初めから分かっていたのだ。あの赤星が静かに待っていた。
新庄が目指す先にいたのは赤星だった。赤星が掲げる空間を汚せるのは新庄慶しかいなかった。夏の夜、
新庄とたったつかの間を過ごした証拠だけが塔子の腕に残った。
手を繋がれたことに不満がないと言えば嘘になるが、新庄はその不満を言葉に出来ずにいた。
ただでさえ暑いのに触れ合った場所は気が狂いそうなほどの熱を持っている。夏はどこか現実味がなかった。
どれだけこの暑さに苦しめられたとしても、音もなく過ぎ去っていくことを知っているから。そんな季節の真っ只中で赤星の手から
与えられる熱だけが腹立たしいほど確かなものだった。
「どこまで行く気だよ」
「何欲しい?」
「ああ?」
「・・・あんず飴好きなんでしょ」
新庄は唇を尖らせて目を逸らした。赤星は鏡みたいだった。好きなもの嫌いなもの、新庄の全てを映し出そうとする。
新庄が好きなものに同じだけの思いを注ぎ、嫌いなものに同じだけの思いを注ぐ。誰かを憎いと言えば、簡単にその
誰かを殺してしまうんじゃないかとさえ思えるほど。
「どうせわた飴とかチョコバナナとかも好きなんしょ?」
「うるせーな、悪りーかよ」
「分かりやすい」
「文句あっか」
「・・・別に文句なんて言ってねえし」
そんな子どもっぽいものが好きだなんて可愛いなと思っただけなのに。赤星はあんず飴もわた飴もチョコバナナもこれっぽっちも
好きじゃなかった。新庄はまた新しい価値を赤星の中に生みつける。野球しかなかったはずだった。空白だらけの赤星の中に
新庄が全く新しいものを次から次へと注ぎ込んでいく。白いキャンバスに絵を描くように、神さまが宇宙を創ったように。神さまなんて
信じてもいないのに、誰かにとっての神さまが赤星にとっての新庄だった。もうここまで来れば大丈夫だろう。東京の人口密度は身を隠す
のには打ってつけかもしれない。先輩たちの気配は微塵もなかった。だけど赤星はつかんだ手を離さなかった。
「あれ食えば?」
赤星は気を取り直して運良く目に入った屋台を指差した。わた飴の屋台だった。
「離せよ、手」
「・・・何で?」
「何でもだよ」
「照れてんの?」
「んなんじゃねえよっ!」
「やっぱ照れてる」
「ったく、バカじゃねーのかてめえは・・・」
理由も曖昧なまま触れ合っていた手はほとんど力ずくで離れ離れになった。赤星は今さっきまで新庄の熱を所有していた左手を握り
締めたけれど、そこにはもう悲しいぐらいに何もなかった。手のひらからもう一つの体温を奪った男はそそくさとわた飴屋の前まで
歩いて行った。それから赤星はありとあらゆるものを新庄に買い与えた。赤星の財政は必要以上に豊かだったが、新庄のために使わない
限り金銭価値なんてろくすっぽ意味がなかった。
「・・・俺はもう食えねーぞ」
次はあれにしようと言った赤星に新庄は不審気な眼差しを向けた。
「まだチョコバナナいってねーでしょ」
「無理言うなよな、フランクフルト三本は効いた。あと最後の焼きそばもかなりきてる。これ以上食ったら確実に吐く」
一体どれぐらい食べたか分かったもんじゃなかった。端から端まで食い倒す勢いであれもこれもと、これ以上はあきらかに無謀だと
言えるほど買い与えられた。やけに不満げな赤星を置いて、新庄は境内に向かい合って並ぶ屋台の裏手に回った。もたれ掛かった石の壁が
ひんやりする。すぐそこにはあふれ返るほどの人ごみがあると言うのに意外なほど静かだった。
「あれ好きなんじゃねーの?」
「好きだけどもう腹いっぱいだし」
「せっかくなんだから食えばいいじゃねーか」
「だからいらねーって」
「せっかく来たのに?」
「しつけーなてめえはよ」
新庄は盛大なため息をついた。赤星の優しさに時々やり切れなくなる。普段からは想像出来ないぐらいにいつもいつも赤星は優しかった。
赤星から与えられないものはなかった。空腹は嫌と言うほど満たされたし、繋いだ手はあんなにも熱かった。
二人はしばらく何も言わわずにただぼんやり人々の流れを目で追った。彼らは時々競い合うように無言を貫くことがあった。それは
言いたいことがあまりにも多すぎたせいなのかもしれない。やっぱり恋人同士にはほど遠いのかもしれない、そう
悲観していたのは赤星だった。気がつけばもう、あれだけしぶとかった太陽の面影はなく、あと少しすれば夏祭りも終りを迎えるの
だろう。無言は数分間続いたけれど、先に折れるのはいつも赤星の方で。こういう時は赤星の方がずっと大人だった。意地の塊だった
沈黙を、そっと破る。
「花火も上がんねーんだ」
自分でも呆れるぐらいに小さな声しか出せなかった。こんな呟きがなかったことになるなんて何よりも簡単なことだと思う。けれど
新庄が振り向いたことによって言葉には一定の力が与えられた。新庄がいなければ何もかもを失っていたのかもしれない。そして新庄が
いなければ失うものさえ何もなかった。不思議そうに見つめられた赤星は、その新庄の目に殺されそうな気もしたし、生かされるような
気もした。
「見たかったのかよ、花火」
「あんたと見たかった」
「花火?」
「花火。あんた、ああいうの好きなんでしょ」
本当にこれが赤星なんだろうか?新庄がそう思うほど、その声色の優しさは本物だった。野球にしか興味がないはずの男が夏祭りに
花火大会。この野球人間のどこがどうなればそんな発想になるのかは分からない。けど本当は分かっているのかもしれない。
それでも気づかないふりをしているのかもしれない。
「嫌い」
「・・・嫌いなの?」
「嘘」
「どっちっスか」
「嫌いじゃねーよ」
「好き?」
「・・・好き」
「やっぱり」
自分が何かを愛する気持ちを相手がまるごと飲み込んでいく。嫌いという感情だって、あながち無駄じゃないのかもしれない。赤星は
全てを受け止めるだろうから。十数年をかけて築き上げてきたものが、赤星とゆっくりと溶け合っていく。今日という普通の一日によって。
新庄は不意に赤星の唇に触れるだけのキスをした。不本意ながら自分が何をすれば赤星が喜ぶのかを知っていたから。赤星が目を丸くしたものだから、新庄は頬を赤くして言った。
「ふん、ただの礼だ。別に意味なんてねーからな」
それがどれだけ残酷な行為なのかなぜ分からないんだろう。新庄のキスは鮮やかな痛みと狂喜を赤星の中に生んだ。意味なんてないキス。
痛みと喜びでこんなに胸が満たされているのに。それを分かって欲しかった。だけど無理やり分からせようとも思わなかった。新庄を
自分に都合の良いように塗り替えたいわけじゃない。ただ隣にいる男が愛しかった。たとえこの男の無邪気さがどれだけ残酷なものだった
としても、結局はそれさえも愛してしまったのだから。
「意味なんてねえの?」
「バーカ、お礼だっつたろが」
ありがとうのキスをするなんてずるいと思うのに、消せるわけもないから。この喜びと痛みでさえ。
この夏を、この一日を、繋いだ手の熱を、ほんの一瞬だったキスを。永遠の定義を少し知った気がした。
十五回目の夏を新庄と過ごした。今までの夏は、きっと偽物だった。