「腹減ったな」
「何食う?」
 いつもと何ら変わらない会話。
 俺たちの真上には青い空がある。真っ白い太陽がある。雲が流れて行くそのずっと上を飛行機が飛んでる。休みの日になるとそれを 追いかけるように自転車を走らせる。
 日本最大の都市と称されるこの街に張り巡らされた道路の大半を俺は通ったことがない。 俺にとって価値のある道はほんの限られた数しかなかった。だけど俺にとって無意味な道が誰かにとっては大切な道だったりするのかも しれない。そう考えるとすげー不思議になってくる。例えば俺たちみてーに二人乗りして違う道からどこかを目指してるやつらがきっと いたりする。渋滞に巻き込まれてのろのろ進む車に乗ってるやつだって、向こうから走ってくる自転車のやつだって。ただ眺めてるだけだと 意思なんてなそうだけど、きっと何かを目指してる。そういことに気づく瞬間があるってことは普段はそんなこと考えようとも してないからだ。 同じ場所にいながら一ミリだって交わることはない。そういう場所で俺は赤星のこぐ自転車の後ろに乗ってる。こいつが入学してくる 前までだったらどこかですれ違ってたとしてもきっと気づきもしなかった。それなのに今じゃこうやって一緒にいる。こんな 不思議なことがあってたまるかと思う。だけど赤星は当然のように自転車の前に乗って、俺は当然のようにその後に乗ってる。 新しい何かに当然さが加えられるぐらい俺とこいつがは一緒にいたってことか。最初はよくバランス崩してふらふらになりながら運転してた。 だけど今じゃそんな不安定さはどこにもない。景色は赤星の速さで流れて行く。つってもその速さを選んだのは俺だった けど。そんな景色からふと目を離して前向くと視界には青い空と真っ直ぐな道と赤星の後頭部があった。いつものあの変な髪形。不器用なくせに一時間近くかけて完成させる髪形。 上手く行かねーときは俺に助けを求めてくる。最近じゃ俺に任せきりになってる。そのせいで俺はあの髪型を作る名人だ。
「何で昼飯作ってくんなかったんスか」
「面倒くせーからに決まってんだろ」
 休みの日になると朝っぱらから押しかけて来てこいつは俺の安眠を妨害する。平日は平日で部活が終わると上がり込んで来るし、 一体こいつの家は何のためにあるんだろうと思う。こいつは立派なあの自分の家よりも俺の小さな部屋に入り浸ってる。今日だって朝メシも 食わずにやって来ては腹減ったと抜かしてやがった。休みのたびにこれだ。眠い目こすりながらやって来た赤星を俺は相手にしない。 いつも手を抜いてるぶん掃除とか洗濯とかやることなんて山ほどある。相手にされねーと分かっていながら赤星はぜってー決まった 時間に登場する。ゆっくりやること終わらせると、こいつは髪型が上手く行かないと俺に訴える。バカじゃねえのかと言いながらも 適当にこいつの髪を触ってやる。すると鏡も見ねーで赤星は満足する。そんなんだったら結局何だっていいじゃねーかと俺は思う。 けどやっぱり赤星はそれで満足してる。俺が着る服選んでると赤星が横から口出してくる。 あのTシャツがいいとかあのポロシャツは嫌だとか。岡田からもらったそのポロシャツを俺が選ぼうとすると やたら嫌がったりする。それだけならまだしも露出は控え目にしろとかなんとか意味分かんねーことを言ってくることもある。 バカはほっといて俺はお気に入りの服を着る。赤星は俺を上から下まで見渡していつも決まって可愛いとか狂ってるとしか思えねー一言を 零す。結局俺が何を着たって同じこと。 それから自転車に乗って、いつもの速さで進んで、俺たちが見つけた俺たちにしか意味のない目指すべき場所へ。それがいつもの休日。 もう口にしなくても完璧にその一連の流れを分かってる。何度も繰り返して来たことを今日も繰り返す。
 音楽が空に吸い込まれた。赤星の口笛が演奏するささやかな音楽。俺の好きな曲だ。まだ完全に夏を手放そうとしない空を見上げながら 俺は耳を傾ける。 初めは俺が一人で口ずさんでた。赤星はそんな歌知らねーと言った。こんな名曲知らねーなんて信じられねーって 言ってやったら赤星は恨めしそうに顔をしかめた。それなのに勝手に割り込んで来て、今じゃほぼ完璧にそれを口笛で吹いてる。 こいつは俺のやること全部に首を突っ込んで来た。 俺が歌わなくても勝手に届いてくる口笛。俺の一部が赤星の一部になった瞬間。全く知らなかった者同志が解けあってく不思議。 俺は赤星の中に自分自身を見つける。
「にゃーー!!」
 けたたましいほどの叫び声に振り返ると道路を挟んだ反対側に湯舟と関川を見つけた。俺たちを指差したまま大口を開けてる。 知らねー人間だらけだった場所に突然見慣れた顔が現れた。赤星はそんなあいつらを瞬間だけ確認すると何事もなかったかのように また進行方向に目を戻した。ずっと伸びて行く道だけを見据えてる。
「てめーら二人で何してんだー!」
「止まれーー!!」
 湯舟も関川も奇妙なもんでも発見したみてーに目を丸くしてる。俺と赤星が自転車に二人乗りしてるだけでそういう反応が起こるのは 当たり前のことだ。何しろ一番奇妙に感じてたのは他の誰でもなくこの俺なんだから。けどたった一人そんなこと気にも留めてなかった 赤星がその奇妙さを俺の生活の中に捻じ込んで行った。ゆっくりゆっくり、赤星にはちっとも似つかわしくない丁寧さで。 今の俺にとってはこうしていることこそがいつもの休日だった。赤星が走らせる自転車もその後から見る景色も 空の青さも走り慣れた国道も変な髪形も口笛も会話も全部慣れ親しんだものだ。俺と赤星、二人だけで作り上げる世界。いつものこと。 普通のこと。何でもない一日。先週だって同じようにして作った世界。ありふれた時間に他の誰にも分からないものを持ち込んで。 だから他の誰かには触れない。きっと見えもしない。意味だってない。俺たちだからこそ成立してる。 湯舟と関川は不審そうな顔して追いかけて来る。何だか笑えてきた。湯舟と関川はあんまりおもしろい顔してるし、赤星は唐突な追っ手を 振り切ろうと加速して行くし。空がどこまでも気が遠くなるぐらい青くて動き出した風が最高に心地良かった。
「逃げ切れ」
「たりめーでしょ」
 国道をぐんぐん走る。中途半端な季節の風をためらいなく切り裂いて行く。ずい分景色が流れて行った。それでも空は俺たち の真上にある。空にはまだほんのわずかにだけ夏の気配がしてる。もうすぐ夏が終わる。蝉の声は山にでも行かねー限り聞こえない。 夜は半袖じゃ寒くなったし、日が暮れるのも早くなってる。季節はどんどん変わってく。それでも俺たちはあの暑くて暑くて 死にそうだった夏の日と同じことをしてる。悔しさに歯を食いしばってほとんどやけくそみてーにこの街を走り回った。あれ以来すっかり 染み付いてしまった習慣みてーなもの。きっと冬が着たら長袖を着てこうやって自転車に乗って走ってく。俺は今日だって空を 見上げながら、あの青い中に溶け込めそうな気分になる。空を飛ぶってどんな感じなんだろう。そんなことを飛行機を目で追いながら 考えてみる。何回考えてみたって答えが出たためしなんてない。本当は答えなんて見つける気だってないのにそれでもぼんやり考える。 俺がそんなこと考えてる間も赤星はせっせと自転車をこぐ。お互いどれ一つ変えようとしない。あの春がいくら遠くなっても、 夏が俺たちを置いて流れて行っても、俺たちは何も手放さなくたっていい。 変わらなくていいことを知ってる。変わらないことの大切さを知ってる。変わらないものを知ってる。それはそっと静かに、目には 見えない形でいつも俺のすぐ側にある。
「逃げ切りました」
 赤星が半分だけ振り向いて言う。やけに得意気だ。それがおかしくてまた笑う。
 言わなくても分かってる。赤星がスピードを落とす。俺が自転車から飛び降りる。赤星は何の疑いもなく自転車を止める。国道沿い の裏手にある小さな洋食屋。決まってここで昼飯を食う。そう決めたわけじゃねーけど、やっぱり今日も俺たちはそうしてしまうのだ。 先に店に入って窓側の席に座る。その後を追うように店のドアをくぐった生意気そうな男はあらゆる方向に見向きもしないで俺の目の前に 辿り着く。こんな風に後から入ってくる赤星を見てるといつも変な気分になった。俺と赤星は同じテーブルに座ってる。それはやっぱり俺にとって当たり前のことになってるし、 それなのに何よりも不思議なことのように思うからだ。既視感と未視感が同時に起こる。変な気分。
「あんた何食いますか」
 赤星が聞く。
「何だっていいだろ」
 俺が答える。
 いつもと何ら変わらない会話。
 いつもと同じ質問、同じ答え。いくら繰り返したって今日もまた変わらなかった。返って来る答えなんてとっくに 分かりきってるはずなのに、赤星は今日も手放さなかった。俺もまるでたった今生まれたかのように全く同じ答えを返す。 俺の返事を聞いた赤星は毎回まいかい変わらず本気で不機嫌になる。分かってても同じでも、初めて この会話が生まれたときと全く変わらない新鮮な態度で不愉快さを示して来る。いつもと同じことなのに、同じことでしかねーのに、 俺たちはいつだって真新しい気持ちでここにいる。 渋々メニューを見る赤星の顔だっていつも通りつまんなさそうだ。数秒後にはきっと無駄に偉そうな顔で、何の迷いもねえ口調で、 今生まれたばかりの気持ちで、いつもと同じことを言うに決まってる。それを聞いた俺だって、きっと生まれたての腹立たしさを覚える に決まってる。
「あんたと同じの」
 やっぱり。そう思った俺はため息を吐いた。だけど文句つけても無駄だって分かってるから言いたいことは二つ目のため息に変わった。 何言ったって無駄だ。頑固っつうのか健気っつうのか。人との関わりをとことん忌み嫌うくせにこういうとこでわけ分かんねー情熱を 注ごうとする。それを見つけちまったらもう何も言えなくなる。
 あんたと共有出来るものがあまりにも少なすぎる。
 いつだったか赤星が言った。一体それが何を意味するのか俺にはよく分からなかった。さっぱり理解してねー俺の顔を見た赤星は 悲しそうな顔をした。別々であること。通じ合えないこと。それがどんな思いで成立してんのか分からないこと。そんなことは数え切れ ねーぐらい溢れてる。だって別々の頭で生きてんだから。それでも赤星は俺と同じものを食おうとする。 同じ音楽を知ろうとする。同じ空を見ようとする。わざわざ二人分の重みをのせた自転車を走らせる。日常で起こるあらゆることを利用して俺と繋がって いようとする。無理やり、まるでそういう一日を捏造しなきゃなんねーとでも思ってるみたいに。結果、赤星は本当にそういう一日を 生み出した。いつの間にか全部俺の日常になってた。 俺の目の前にいる赤星はまるで普段の赤星とは違ってる。頭おかしいってのはいつもことだけど。俺の前にいるこいつは狂ったことを平気で口にしたり抱きしめてきたり 手を繋いできたり、まるで普段の赤星とはかけ離れてる。いくら突き放したって諦めようとしない。こいつは実に努力家だ。その努力を もっと違うところに使ったら多少はマシになりそうだけど、こいつはどうやら末恐ろしいことにそれ全部を俺に向ける気らしい。 赤星の全ては一つのものだけに費やされる。それが正しいことなのか正しくないことなのかは分かんねーけどそんな風に 誰かを思えるのはすごいことなんじゃねーかって時々考える。ここに来るたび俺はこういう思考を経てようやく昼飯にありつく。 小さくて四角い世界で二つのコップが静かに向き合ってた。
「てめーには主義主張っつうのがねえのかよ」
「それぐらいありますよ」
「ならてめえの食うもんぐらいてめえで決めろ」
「あはあ、ちゃんと自分で決めましたけど」
 赤星は平気な顔して言った。やっぱり何を言っても無駄なんだ。
「・・・俺はエビドリア」
「じゃあ俺も」
 これのどこをどう取ったら自分で決めたって言えるんだ。俺がそうやって呆れてても赤星は平気な顔してる。俺と赤星とじゃ 何もかもが違ってた。考えることもこの瞬間感じてることも、あまりにも違いがありすぎる。違わねーことなんて同じテーブルに 座ってることぐらいだ。年だって髪の色だって違う。俺たちの関係は奇妙だ。共通点を探したところで野球ぐらいのもんだった。 野球が間になかったらこんな奇妙な関係さえ生まれなかった。こいつとやるキャッチボールは純粋に面白かった。今じゃもう完璧に取れる けどカーブを零したときは死ぬほどむかついた。キャッチボールが俺たちを一番素直な感情で向き合わせる。 けど野球がなくなったら簡単に壊れる関係。 それを守ってんのは俺じゃなくて赤星なんだと思う。苦しいぐらい守ろうとしてる。だから、何よりも壊れやすいはずなのにいつまで 経っても壊れそうにない。いくら俺が壊そうと手を尽くしたってずっと。 今だってそうだ、俺たちを繋いでんのは窮屈なテーブルだけなのに何も壊れない。ここにはいつもの俺たちがいる。
 注文するために店員を呼ぼうとしたけど顔を上げるとすぐ目が合った。まるで今の今までずっとこっちを見てたってほどすぐに。 さっき水を運んで来たウエイトレスがまた俺たちのテーブルの傍に立つ。
「エビドリアとエビフライカレー」
 赤星の瞬き。俺はあさってを見て知らん顔した。そんな俺たちの水面下の遣り合いなんて知らない店員は「かしこまりました」って 今にも消えて行きそうな声で言う。まるで特別な意図でもあるみてーにいつも俺たちの接客してるウエイトレス。
「・・・あんたエビドリアって言わなかった?」
「気が変わった」
 察するに赤星に惚れてるんだと思う。それが特別な意図。何回目かにここへ来たとき、顔赤くして赤星を見てることに気がついた。何だか妙に恐かった。それからまたずいぶん経ってから 赤星に惚れてんだって閃いて全部辻褄が合った。それにしてもどういう原理なんだか、赤星はもてるらしい。だからきっと こういうことも珍しいことじゃねーのかもしれない。ただそれが俺の日常の外で起こってるだけで。赤星だって全く気づいていない。 何も気づかないで俺のことばっか見てる。自分で決めたエビドリアに腹立てて。こいつはあらゆる場面で何がそんなに面白いのか 頑ななまでに俺を見ていようとする。 だからこんな近くで起こってることに何一つ気づかない。何だかいたたまれなくなって来た俺は透明なグラスに入れられた水を一気に 飲んだ。そしたらようやくその存在に気づいたみてーにして赤星も一口口に含んだ。けどその目の中心には相変わらず俺がいた。
「何考えてんの?」
 他のことには気づかねーのにこういうところだけは敏感だった。赤星はいつも俺を探してる。俺の顔色をうかがってる。俺のことを 考えてる。鈍感そうでちゃんと見抜いてる。何でそんなに?こっちがそう聞きたくなるぐらい。時々こいつは俺にだけ与えられた存在 なんじゃねーかって思えてくる。一分でも一秒でも長く俺の隣にいようとする。自分の中にある感情一つ一つを丁寧に積み重ねてそれ全部俺に ぶつけてくる。だから周りのことをこんなにまで蔑ろに出来るんだ。友達とか仲間とか家族とか。誰もが望むものを必要としない。 俺だってそうだ、大切にしたいものはどんどん増えていく。けどこいつにはそれがない。こいつの中はただ一つのもんで満たされてる。 俺はこんなにも誰かに求められたことがなかった。半分ぐらい迷惑だし、赤星みてーなやつが二人もいたらぞっとするけど。 メニューも選べねーくせに俺にはあれ作れだのこれ作れだのって注文つけてくる。俺は聞いたり聞かなかったりする。そのときこいつはどれぐらい 悲しむんだろう。ただ一人のことだけを求めてるこいつは一体あとどれぐらいの痛みに耐えなきゃなんねーんだろう。 きっと俺に分かるときは来ない。普通に生きてたら分かるわけがない。誰も見たことのない孤高の世界で赤星は生きてる。誰も届かない、 俺だって届かない、赤星だけが知り得るような場所。愛情が何であるのかをこいつは誰よりもよく知ってる。
 夏はいつ終わるんだろう。グラスに入った氷をゆっくり物体から液体に変えて行くのは大きな窓ガラスから注がれるまるで真夏である かのような光だった。それを眺めてたら今が9月なんてこと信じられそうになかった。何だってそう なんだ。どんなに夏みてーだと思ったとしても季節は俺の気持ちを置いて巡ってる。変わらないものなんてないと思ってた。結局そういうことを俺は上手く受け入れて 来た。だけど赤星に好きだって言われて、いくら無視しても怒鳴っても、赤星はずっとずっと言い続けた。こいつは受け入れなんてしな かった。今ある現実に打ちのめされながら、それでも平然とそれを叩き壊そうと何度も何度も言葉にして分からせようとして来た。 呆れるぐらい不器用で下手くそな恋愛。諦める手段を持たない。忘れる方法を知らない。だからこそ何も変わらない。 同じ春を過ごして同じ夏を手放そうとしてる今もたった一つ変わらないもの。赤星が生み出し、一ミリも惜しまず嫌気が差すほど 俺に注がれるもの。
「別に何でもねえよ」
 そう言うと何か言いたそうな目で睨みつけてくる。俺はこういうときのこいつの目が嫌いじゃなかった。絶対に目を逸らそうとしないで 声にもならないまま俺を探り当てようとありったけの思いをこめて睨んでくる。普段は半分しか開いてない目で ぼうっとしてんのに、俺と睨みあうときこいつはその目にあらゆる何かを潜めてる。こうやって一体それらはどこから来たんだろうと俺は赤星の 黒目を凝視する。そうすると俺はいつも俺自身に出会う。赤星の黒目が映し出した俺自身。
「言いたいことあんなら言えばいい」
 一瞬呆気に取られた。言いたいことがあるのは俺じゃなくていつも赤星の方だった。こうやって言いたいこと飲み込むことで、こいつは 俺たちのいつ壊れてもおかしくない関係をひたすら守ってきたんだろう。
「バカ、とか?」
「・・・好きって言って欲しい」
「まだかな、エビフライカレー」
 こいつはどうしても俺に好きだと言って欲しいらしい。今まで何十回何百回と要求された。俺はそのたびにはぐらかした。 これから何千回何万回繰り返したってこの会話にだけは慣れる気がしねえ。だから舌打ちをくれてやる。それにしてもこいつはよくもそう 好きとか嫌いとか何だとか、そんなことを何のためらいもなく言い放てるもんだ。まったくバカに違いない。 日本人らしさのかけらもあったもんじゃねえ。こいつならアメリカ人にだって驚かれること請け合いだ。けど今となってはそれが赤星の美徳だって思えるようになった。 俺はこいつのことが大嫌いだけど、それだけが事実なんだと言い通すにはあまりにも時間が経過しすぎてる。本当に嫌いなやつとこんなに同じ時間過ごすわけがない。もう うんざりするぐらい俺はこいつと一緒にいる。それで十分じゃねーか。だけど 赤星はいつも不安がってる。ふとしたときこいつはすげー寂しそうな顔をする。そんときのこいつの顔だってきっと誰も見たことねーんじゃ ねーかと思う。俺が不安にさせてることぐらい分かってる。分かっててもどうにも出来ないことだってある。俺と赤星が他人同士で ある限り覆せないことがぜってーにある。嫌いなわけじゃなくてそういうことなんだ。きっと他人同士だからこそ俺の中に名前のない 感情が生まれる。同じ人間同士だったら何も生まれてこなかった。考えることも感じることも同じだったら最初から生まれる もんなんてあるわけがない。他人同士だからこそ生まれた。俺がこいつに向ける感情には名前なんてついてなかった。だから言葉に出来ない。だけど俺は時々こいつのことを誇らしいとさえ 思う。
 あのウエイトレスが少し俯きながら料理を運んで来た。赤星はそれでもやっぱ俺を見たままだ。エビドリアの器がテーブルに置かれても 見向きもしないでまだ俺を探してる。俺がカレーをスプーンですくい上げて冷ましてる間も店員が水を継ぎ足すために舞い戻って 来てもずっと。俺がこいつにしてやれることは数え切れねーぐらいある。いつだったか黙られるのが一番辛いんだと言われたことが あった。否定でも拒絶でもすればいい、だけど無視されるのだけは嫌だって。どれぐらいの痛みを封じ込めてそんなこと言ったんだろう。 少し考えてみる。赤星の心に潜んでる痛み。それさえ押さえ込む愛情の強さ。俺は色んな場面でそれらを示されてる。 でも、だからってこいつと同じように公衆の面前で手を繋いだり抱きしめたり好きだって言ったりんな死ぬほど恥ずかしいこと出来る わけがない。俺はこいつと違って至って普通の人間なんだから。赤星が異常なまでの愛情を頑なに貫き通すように、 俺だって俺のやり方を曲げない。
「ほら」
 俺はさっきスプーンですくったカレーを差し出した。赤星が本当に食いたかったもの。 スプーンを受け取ろうとしないで口を開けた赤星にしかめっ面で答えてやる。それでも口を開けたまま引き下がろうとしない。こういうとき 先に折れるのは自分でも以外だけど俺の方だった。まあ死ぬわけじゃねーしな。そんな風に適当に 考えてる俺は自分が貫こうとしてたはずの主張なんてきれいさっぱり投げ出すからだ。だけど赤星からはぜってー折れない。こいつの 痛みはそんな簡単になかったことに出来るもんじゃない。赤星が俺に痛みを与えることなんて有り得なかった。そういう違いに俺たちは 支配されてる。 俺が赤星に絶え間なく与えられるものはうざったいほどの優しさ。そんな俺とは正反対に赤星の表情は時々苦しそうに歪んでは痛みの存在を示唆 してる。だから、こういうちょっとでもそれらしいことをすることでその痛みを揉み消そうとする。それぐらいやってくれたっていい じゃねーか。俺が何回も言われてきたことだ。俺に与えられた痛みは俺じゃないと消せないことを分かってる。こいつは何も分かっていないようで ちゃんと分かってる。こいつなりに考えて答えを出して実行してる。それがただ、俺にとってバカバカしいことの連続なだけで。 俺はスプーンを赤星の口に運んだ。たったそれだけのことで相手の痛みを和らげてやれる。俺たちが何度繰り返しても手放そうと しない日常にはそんな奇跡みたいな力があふれてた。
 無事昼飯を食い終えて店を出た俺たちを待っていたのはやっぱり青い空だった。結局あのウエイトレスに見向きもしなかった赤星が ポケットから自転車のカギを取り出した。キーホルダーがぶらぶら揺れた。所々色が落ちて、かすれてるキーホルダー。 俺はこれを見るたびに小さく後悔する。普段は体の最深部に置き忘れてしまうぐらい小さく。結果論でものを言えば、それは俺が赤星に あげたキーホルダーだった。結果だけを見るって言うなら。本当は何かの景品だったそれを捨てようと思ったとき 隣に赤星がいた。いつもみてーに理由もなく俺の隣に。だから何となく深く考えもしねーでやるよって言っちまった。別に何てことない一言のはずだった。 赤星は手のひらの上に乗せられたそれを黙って見つめて、ゆっくり手のひらを握り締めて、それから壊れ物でも扱うみてーにポケットに 仕舞いこんだ。やめときゃよかった。俺はそう思った。それが普段は忘れ去られてる小さな後悔。ただ時々思い出したように現れる。 特別な意味なんてなかった。だけど赤星にとってはそうじゃないんだと思った。もう何ヶ月も 前の話。俺が一番最初に赤星の気持ちに触れた瞬間だった。あれからずっとそのキーホルダーは赤星の愛車のカギを支えてる。 ぼろぼろになりながら、それでもずっと小さな任務を果たし続けてる。
 一体どこに辿り着くんだろう。
 俺は流れる景色を眺めながらそんな疑問と対峙した。意識は目まぐるしく変化してて、あの小さな 後悔でさえもまたあるべき場所に押し戻されていく。いつかまた、出会う日まで。見つけて、忘れて、また見つける。その間にも あらゆる感情が表れて、それでいっぱいになって、また別の感情が取って代わる。どこへ行こう。この思いとだってもう 顔馴染みだ。答え合わせもしないまま赤星は自転車を順調にこぎ続ける。俺たちが見つけた場所へ行く。少しずつ少しずつ近づいてく。 赤星が俺を近づけてく。歩道の脇に真っ赤な花が咲いてる。 空から惜しみなく注がれる太陽の光を真っ向から受けて。どこか知らない南の島に迷い込んだ気分に少し浸る。
 自転車で一時間。車道を強引に横断し、公園を抜けると広がる海、水平線。
 海の匂いがする。さっきまでとは比べもんに ならねーぐらい大きな空がある。普段見ている空がどれだけ小さかったかを思い知る。だけど、本当の空はこれ以上だ。行き先なんて 決めなくていい。俺たちが見つけたお気に入りの場所ならどこだっていい。今日、偶然海へ辿り着いただけのことだ。 海の匂いを風の中から見つけ出した俺は自転車から飛び降りた。 一人分の重みを失ったとき、いつも赤星はほんの一瞬だけ振り返る。ああ、やっぱり今日も変わらない。何も変わらない。俺は赤星を 置いて砂浜を歩く。アスファルトとは全く違う不安定な砂の上。少し進んでいつもの場所に座る。自転車を走らせて行き着く大都市の果て。 どこまでもどこまでも、見渡す限りの海と空。遅れて聞こえてくる足音はぴったり俺の真横で止まる。海よりも空よりも、赤星の目に 真っ先に映ったのは俺だった。
「何で好きって言ってくんねえの?」
 波の音より風の音より車の音より間近に響いた声が見えない文字になって頭ん中に焼きついた。そんな話はとっくに終わってる。 それなのにさっきなんかよりもずっと深刻そうな顔してやがる。赤星の中じゃこれっぽっちも終わってなかった。それどころかもっと 重みを増した。途端に顔が真っ赤になってくのが自分でも分かった。それがむかつくから 文句の一つでも言ってやろと思ったけど赤星の顔見てると言いたいことが散らばってった。なんて顔してんだろう。怒ってんのか 悲しんでんのか分かりゃしない。いっつも何考えてんのか分かんねー顔してるくせに。何で俺の前にいる赤星はいつもいつもこんなに こっちが辛くなるぐらい素直なんだろう。 何で?俺はこいつのこの言葉を数え切れ ねーぐらい聞いてるとふと思った。何で言ってくんねーのとか何で無視すんだとか何で手繋いでくんねーんだとか何で全部嫌がんのとか 何でやらしてくんねーんだとかわけ分かんねーこと。
「てめーは何でばっかだな」
「・・・どの口でそれを・・・何も言ってくんねーんだから分かるわけねーでしょ」
 呆気にとられて一瞬声が出なかった。頭おかしいことしか言えねーと思ってたらこんなまともなことも言えるんじゃねーか。 言ってくんねーと分かるわけがないか、一理ぐらいはあるのかもしれない。あんまり当たり前すぎて考えもつかなかった。きっと考えて 考えて、そういう過程を経た赤星だからこそ見つけてしまった最後の答えなんだろう。そう思ったら何も言わねーわけにもいかなくなった。たぶん他の誰かにとっては 何でもねーことなんだろうけど今何かが目に見えねーぐらいほんの少しだけ覆った。日常は日常を覆して作られて行く。
「俺たちの上に同じ空があるから」
「・・・そんなんじゃ分かんねえ」
 赤星はすげー不満気な顔してるけど俺はそれ以上何も言うまいとした。これが俺の精一杯だった。だけど赤星の思いがこの世に何も 残して行かないわけじゃなかった。俺の中にはもう無視なんて出来ないぐらいの情があった。ただそれが赤星の思いほど無茶苦茶な強さを 率いてないだけだった。情なんて言うと傷つくことが目に見えてるだけだった。伝えようとしても、きっと言葉が俺たちを隔てる。だから 言わない。うるさいのはごめんだし。言葉っつう限られた手段で俺が説明するんじゃなくて、赤星が自分で考えて自分で見つければいい。きっとそれが一番こいつのため になる。また明日って言える日がいつだって待ち構えてんだからいつかそれが明確な形になるまで俺はそっと胸の奥に閉じ込めておく。
 真上を見上げてみた。太陽は少しずつ傾きつつあった。赤星が俺と同じように顔を上げた。俺と赤星の上に 同じ空があった。同じ場所で同じ空を見た。結局エビドリアとエビフライカレーだって半分ずつ食った。
 黙ったまま目の前にあるものだけを眺めてた。始まりも見えない風が肌の上を走ってく。その広さをずっと見てたらふいに恐くなって来た。海も空も風も 、ビルの合間に生きてる俺にはどっちだって眩暈がするほど広かった。目の前にあるものが全てだけど、だからこそ理解出来ないぐらいの 大きさだった。視界以上を覆いつくす空の広さに、それを反射する海の青さに、自分が今いる場所が曖昧になって行く。無意識に手を 伸ばした瞬間にはっと気づいた。自分でも知らねーうちに隣にある手を求めてた。俺から手を繋ぐのは 決まってこういう瞬間だった。都合よく隣にある手。いつも隣にある温もり。俺は水平線のずっと向こうを眺めながら赤星の手に 触れた。そしたらまるで待ってたってばかりに確実な強さでその手が俺の手をくるむ。もう海の広さは怖くない。まるで俺たちのためだけであるかのように、海は青かった。
「俺たちの目の前に同じ海があるから」
 赤星は言った。俺の言葉を自分の思いと重ねようとしてるみてーに。赤星が俺を見てることは分かってた。それでも俺は海を見てた。 もう恐怖心なんてどこにもなかったから。
「・・・しつこいやつだなてめーは」
「あんたが悪いんじゃねーか」
「てめーが悪い」
「俺のこと好きなくせして」
「冗談でも笑えねえ」
「冗談じゃねーから笑えなくて当然」
「あんまりバカなことばっか言ってると東京湾に沈めんぞてめえ」
「・・・あんたが言うと冗談に聞こえねーし」
「冗談じゃねーから聞こえなくて当然」
「血も涙もねーんスか」
「それおまえが言うか?何にも見えてねーくせしやがって」
「どういう意味?」
「おまえは何にも見えてねえ」
 赤星はしばらく首をかしげた。こいつに言ったって通じるわけねーか。半分諦めてたら赤星はじっと俺の顔を見ながらこう言い切った。 それこそが何よりも正しいことだと言わんばかりに。
「あんたのこと見てる」
 相手にならない。何言っても無駄なんだ。俺は何度もそうしてきたように、また諦めた。
「言ってろ」
「ていうかあんたしか見たくねーし」
「残念だ、とっとと死ね」
「それが恋人に言う台詞かあんた」
「何だそれ妄想癖か?」
「天邪鬼にも程がある・・・」
「るせー、それこそてめーだろ」
 思いつく限りの因縁を吹っかけ合う。自分の正しさを貫く。思いつく限りっつったっていつも似たような文句の羅列ばっかりだけど。それでも俺たちは 言い争うことを終わらせようとしなかった。切り捨てようとしなかった。俺たちは何かにつけてぶつかり合った。まるで戦争みたいに それぞれの正義を掲げた。睨み合って罵り合って傷つけ合ってその後歪んだ。それでもなくなることはなかった。許し合ったわけでも ないのにいつの間にかまた笑い合う。世界中で起こってる本物の戦争じゃぜってーあり得ないことだけど俺たちの間では当然のこと。 ふいに何やってんだろうってその無意味さに気づいて、だけどやっぱりこういう遣り取りこそが俺たちのすべてなんだと不思議なぐらい 確信する。無駄なことなんて何もなかった。一つ一つがすべてだった。
「おまえ、そんなに俺が好き?」
 何もかもを受け入れるみたいに目を閉じた赤星はゆっくりとした動作で小さく頷いた。 それは赤星が弱くて強いからで、脆くて頑なだからで、繊細で図太いからで、空っぽでもあるし満たされてもいるからで。 こいつは矛盾ばっか抱えてた。あらゆる矛盾を抱えるほどの弱さと強さ、また矛盾。 そんな風に完璧な状態で成立してるこいつの矛盾を俺は愛しいと思う。
 気がつけばもう空が赤く染まり始めてた。真昼間のあの暑さがまるで嘘みてーだった。
 夏はもう終わったんだろう。凍てつく寒さが 来るだろう。それにさえ終わりはあるだろう。夕暮れがそこまで迫ってる。だけどすぐ夜になる。やがては朝になる。変化する。 それでも俺の隣には赤星がいる。