天井と壁に囲まれた誇りっぽい教室。野球部員たちの会話によってかき消されていく教師の声とチョークの匂い。 窓の透明度は決して完璧だとは言えなかったがそれでも午後の陽射しは惜しみなく教室に注がれた。 全くの晴天、それはどこまでもどこまでも青かった。
「あ?」
 安仁屋は突然席を立った新庄を見上げながら目をぱちくりさせた。 他の野球部員たちの会話も断たれそれぞれの視線がただ一点に集中した。新庄はよく誰も思いつかないようなことを簡単にやってのけた。
「てめーどこ行くんだよ」
 代表者であるかのように言ったのはやっぱり安仁屋だった。新庄は振り返るか振り返らないか程度の角度でちらりと後を見やった。 安仁屋は確かに目が合ったと思ったが、すぐ前に向き直った新庄はさっさと教室を後にした。教室内にいる大半の名もなき生徒たちは 各々思った。単なる不良の奇行かと一瞥する者、 午後の陽気にすっかりやられあんなにあっさり授業を投げ出せる性格を少し羨む者、何が起きたのか理解さえして いない者。安仁屋は不貞腐れたような顔つきでとっくに新庄がくぐった出入り口を睨みつけた。もし自分がエスパーか何かだったら 念力でも送って新庄を戻らせることが出来たかもしれない。だけどそんな能力なんて持っているわけがなかった。たとえ本当にエスパーだったとしても戻って来る保障 なんてどこにもなかったけど。岡田はことの一部始終を静かに見ていた。
 野球部という一つの共同体を誰よりも大切に しているのは新庄のようだったが、時々彼はあっさりとそれを切り捨てた。まるで肩についた糸くずでも払いのけるかのように。 その度に部員たちは自分の一部を失ったかのように心細くなった。口に出すと余計途方に暮れるから誰もが口を閉ざしたけれど。 結局この共同体を正常に機能させているのは他の誰でもなく新庄慶だった。


 一歩ずつ足を動かす。それが連続して歩くという運動になる。前を見ると必然的に街並みが目に映り、左を見ると道路、右を見ると 雄大な水の流れ、上を見ると空が映った。全身で風を受ける。髪がなびく。空気の音が聞こえる。教室では絶対に味わえない心地良さが ここにある。だから、勝手について来た男の存在なんて気になりはしなかった。
 同じ歩幅を探り当て新庄の隣に並ぶことに成功したのは江夏だった。自分のクラスの前の廊下を新庄が悠然と通って行くのを目にした彼は その後を追って来たのだった。新庄は振り向きもしなかった。けれど機嫌が良いことぐらい分かっていた。 これが雨の日なら今頃暴言の連呼に違いなかった。近寄るなだの、殺すだの、バカの一つ覚えみたいに。暖かさは大地をすっぽりと包んだ。まるで 何かを祝福しているかのような午後だった。江夏にはどうしたって新庄の機嫌を操ること など出来やしなかったが、この晴天にはいとも容易いことらしかった。全く単純でバカバカしい男だ。そう呆れながら新庄の横顔を見て いるとふいに目が合った。江夏は瞬間的に息を詰まらせた。そうとも知らない新庄は今になっていきなり言った。
「何してんだてめえ」
 江夏は内心、自分の耳を疑うぐらいにぎょっとした。新庄が選ぶタイミングは一生をかけたって理解出来ないだろうと思う。 理解なんてしてたまるか。
「別に」
「ふん」
 新庄は鼻を鳴らしたが、それでも変わらない歩幅に自分の存在が許されたのだと江夏は都合よく結論付けることにした。 自分から歩幅を合わせて歩くなんて江夏には生まれて初めての経験だった。 並んで歩くには合わせざるを得なかった。新庄から合わせようとしてくるなんてことはまずあり得なかった。そのわがままさに 何度も呆れたし苛立ったが、結局、それこそ江夏が見出した新庄慶の美点だった。ただ思うままに生きている。 泣いたり喚いたり怒り狂ったり。時々不意打ちみたいに微笑んでは江夏をどうしようもなく溺れさせた。
 しばらく歩いていると新庄がいきなり足を止めた。江夏もそれに倣う他なかった。新庄が川岸へと続く小さな階段に座ると、もちろん 江夏もその横に腰を下ろした。それが愛する者と愛される者の形だった。肩と肩が触れ合うほどの距離だったが意外にも新庄は何も 言って来なかった。時々こうして全てを許される瞬間があった。 江夏にとって灰色だろうと何だろうと空は空でしかなかったがこういう時ばかりはあきれるほどの青さを愛したくなった。 惜しみなく与えられる光と見事に調和している新庄の髪の色。この青空の下でこそ彼の髪は本来の美しさを具現化するのだ。
「何でてめーまでいるんだよ」
 新庄はしごく不思議そうに言ったが、江夏は呆れ返った。呆れるぐらいじゃ全然足りなくて大袈裟なため息を吐いてやった。 理由を知らないはずがなかった。知っているくせに白々しく聞いてくるのだ。 本当に知らなかったとしたら相当頭が悪いに違いない。
「犯すぞてめえ」
 江夏の返答に新庄は眉を寄せて不審がった。そもそも答えにすらなっていない。江夏は時々頭のおかしなことを平気で言って来た。 時々じゃないか、と新庄は思いなおす。二人きりになった時はいつだっておかしい。
 江夏は考え込んでいる新庄のうなじに手を添えて二人の間に存在していた少しの距離を強引に排除した。それから何も分かって いないだろう唇にキスをした。いくら彼らが別々の人間であることを明確にして いる二つの体の輪郭が溶け合い曖昧になっていても新庄が考えていることの半分さえ江夏には 分からない。どれだけ近くにいても永遠に。だからこそ目に見えない距離を恐れた江夏はそれを揉み消そうと躍起になった。 口元が自由になるなり新庄は言った。
「バカか」
 一体どちらが先だっただろう。こうして二人きりになるとお互いがほとんど別人に変わった。江夏は普段の人格が嘘みたいに新庄を 求めたし、新庄はそんな江夏を仕方なく許してやった。それは誰も知らない二人だけの秘密であるかのようだった。学校で彼らが こんな風にして時間を共にすることは滅多になかった。時々、新庄の気が向いた時だけだった。江夏が学校の中で新庄に つきまとおうとしないのは全くもってして自分の意志じゃない。いつの間にか二人の間にあった暗黙のルールに従ったまでだ。 ルールって言ったって、ほとんど新庄が無理やりまかり通らせたものだったけれど。本当だったらどこにも行けないようひと時だって 手を離さずにいてもはなはだ足りないぐらいだった。時折吹きつける風は少年たちに 冬という季節の厳しさを思い出させたが、それでも午後の太陽は丁寧に二人の下へと光を与え続けた。
「おまえ一体何探してんだよ」
 ただでさえ空は気が遠くなりそうなほど広かった。 それでも新庄の目はいつもずっとずっと遥か遠くの更にその先を見つめようとしている。この途方もなく広い空のずっと向こうを。 その目が何を求めているのかを考えた時江夏はひどく寂しくなった。
「ああ?」
 言ってる意味が良く分からなかった新庄はきょとんと首を傾げた。やっぱりわけの分からないやつだと思った。新庄の中の江夏卓という 人物像はひどく漠然としていた。たとえば部室にいる時の江夏と今自分の目の前にいる江夏とでは何もかもが違っていた。 こうしている時の江夏は気持ち悪いほど素直で優しくて不気味なぐらいだった。どちらにしてもさっぱり分からないやつだ ということだけは確かだった。
「一人で行くな」
「わけ分かんねえ」
「てめーが何を捨てたって俺の知ったことじゃねえけど俺を置いていくのだけは許さねえ」
 きれいな、それでいて抑揚のない声だった。こうして見ると江夏は女みたいな顔をしている。そうさせているのは長い下睫毛 なのかもしれない。いつ見ても悲しいぐらいに冷たくて寂しい目。その目でじっと真っ直ぐ、見えないものでも見ようとしているかのような 強さで見つめてくる。江夏がさらけ出すそういう弱さに最初はただ驚いた。こんな奴でも何かを探り当てようと努力したりするんだ。 空と水と大地と、執拗に自分を求めてくる江夏。全くバカバカしいけど、 それでもやっぱり空はこんなにも青いのだ。
「さっきみてーなのは金輪際許可しねえ」
 さっきみてーなの?と鸚鵡返しに答えると江夏は心底不愉快だと言わんばかりに顔をしかめてから言った。
「俺に黙って行くな。行きたくなったら呼べ」
 何だって命令口調なんだろう?新庄は思わず小さく肩を震わせて笑った。
「呼んだって聞こえねーぐらい遠くにいたら?」
「叫べ。得意だろ、いっつもぎゃあぎゃあ言ってんだからよ」
 江夏はぶっきら棒に言った。雲が形を変えながら流れて行く。車が生み出す騒音が近づいては遠ざかる。普段は気にもしないけど実は 地球は物凄い速さで回ってる。だけど自分たちだけがその速さとはまるで無関係の存在みたいだ。 呼べば答えてくれる人がいる。 叫んだらどんなに遠くにいてもその声を探してくれる人がいる。誰の声も決して聞こうとしないくせに。 あの、信じられないぐらい性格の悪い江夏が、自分のわがままをこうして一つずつ丁寧に言葉にする。いっそ不器用なぐらい伝えようとしてくる。 嘘みたいに優しい江夏。だから、全てを許してやってもいいと思えるのかもしれない。
「呼ばねーし叫ばねー」
「・・・何だとてめーコラ」
 むっつりとした江夏が睨みつけると、新庄は大きな空を仰ぎながら言ったのだ。
「どうせ勝手について来るんだろ」
 江夏は二、三度瞬きをしてから新庄の肩に頭を乗せた。それから水面がきらきらと反射する光の眩しさに目を細めた。確かにそうだった。 たとえ必要とされていないとしてもついて行くつもりだった。たとえ地の果てだろうと何だろうとそれが新庄の隣で見る景色であるのなら。
 ここにはチョークの匂いも弱々しい教師の声もそれをかき消すだけの話し声もない。江夏は新庄を求め、新庄は何かを求めるかのように 教室から逃げ出した。学校という建物は新庄にとって悲しいぐらいに狭い世界だった。そういう自分が異質な存在だってことも分かってる。 めちゃくちゃに走って、狂ったみたいに、何万キロも先に 届かせるみたいに何かを喚いてみたい。きっとあらゆることに冷め切っている江夏にこんな不確かな気持ちが分かるわけないだろうけど。 実際自分でもなんだかよく分からないんだし。 それでも、江夏は呼んでもいないのについて来た。置いて行かれることをまるで小さな子どもみたいに恐れながら。
「ずっと一緒にいてやる」
 江夏は言った。相手がそんなことを望んでいるとは到底思えなかったけど。むしろそう望んでいるのは他の誰でもなく江夏自身だった のだから。 必要とされたいと思う以前に、江夏こそが新庄を必要としていた。新庄はいつだって何かを探してる。苦しんでもがいて、それでも憧れと 絶望を抱えたその腕で明日を手繰り寄せようとしてる。 だから江夏は置いて行かれることを極度に怖がった。彼は明日なんて望んでいなかった。望んだものは今、この瞬間だけ。
 いつもの自分たちに戻るまでの間二人はひっそりと肩を寄せ合った。 江夏は時々見えない距離を恐れてはキスをして、新庄はそんな江夏を仕方なく許してやった。