江夏家は金持ちだった。今年十六になる江夏は古き良き日本風の大きな屋敷で、桁違いの家具と使用人たちに囲まれながら育った。食事は三食ともに最高の腕を誇るシェフが作ったし、その他の身の回りのこともみんな使用人の仕事だった。何不自由なく生きてきた。だからこそ彼の喜怒哀楽は十分に育たなかった。何も欲しがらなくてもあらゆる物が常に目の前にあった。
 ここは愛着のない家。
 誰にだって自分の住む家には多少の思い入れがあるはずだ。例えば子どもの頃の落書きや両親にねだって買ってもらったベッドとか、そういうものから発生する情だったり、あるいは生きていれば自然と作られるであろう何らかの思い出。少なくとも一つぐらいあってもおかしくはない。しかし江夏にはそれがなかった。
「卓様、御夕食の時間でございます」
 夕食は七時。それが江夏家の決まりだった。
「卓様」
 江夏が十四の頃から彼の分の食事は時々無駄になった。食べたり食べなかったりした。食べるか食べないかの判断基準は単なる気分に過ぎなかった。のんびりと部屋から出て来た江夏は食堂とは反対方向へと向かった。今晩はたまたまそういう気分だった。
「卓様、どちらへ?」
 使用人がおろおろとした口調で言った。物を言うのも億劫だったが、江夏は辛うじて口を開いた。
「じじいとばばあには野球の特訓とでも言って喜ばせておけ」
 背後からまた一言二言弱々しい声が聞こえて来たが、江夏は振り返ろうともせず長い廊下を歩いた。薄暗い廊下だった。そもそもこの屋敷全体が陰湿な暗さに支配されていた。


 夜の上空にはまるで秩序の欠片もなかった。月や星々ではなく何の統一性も持たないネオンの数々が自己主張のついでに夜空を彩っている。江夏は夜になるとしばしば夜の街で出向いた。全ては気分次第だった。二日続けて外出することもあれば、一週間、あるいはそれよりも長く立て続けに家にこもることもあった。普通の十代が抱えきれない欲を紛らわすために必死になって夜を味方につけようとしている中、彼にはやりたいことも特にはなかった。まるで一つの独立国家のように大人たちから見放された街。もちろんこの街の夜を満喫しようなどという考えも持っていなかった。ただ彼はたまたま金持ちで、何をするにも不自由ではなかった。毎日まいにち無意味に持て余した時間を過ごした。時を過去という概念へ変換するだけの単純作業。どこを歩いても女は向こうから寄って来た。
 しばらくするとふと目の前の現実にある無意味さに絶望を見出した。こうしていることに価値がないことなど分かりきっていたが、そんなことに絶望さえしない。けれど何の脈絡もなく無意味ということの絶望に気づくのだ。色とりどりのネオンも、江夏を持ってすれば大方無に等しかった。彼は月の色も星の色も知ろうとしなかった。
「邪魔だ」
 何の躊躇いもなく言った。今までずっと傍にあった逞しい腕を突然奪われた女はあまりに突発的すぎて現状を理解出来なかったらしく、少しの間目をぱちくりとさせていた。その後に不満を口にした。女の金切り声が騒音以外の意味を成すことはなかった。
 見覚えのある金髪が視界に入ったのは本格的に帰路につこうとした矢先のことだった。
 人気のないこじんまりとした駐車場だった。江夏は何の脈絡もなく煙草を吸おうと思い立った。ポケットから煙草を取り出し、立ち止まって火を点けた。それから深く吸い込んで、暗がりの中に白い煙を吐き出した。金髪の少年はどう見ても新庄慶だった。数メートル先の駐車場で呼吸を乱しながら大乱闘を繰り広げている。見たところ相手は二人だった。新庄は暇さえあればケンカをしていた。相手なんて誰でも構わないとばかりに手当たり次第。そんな彼の姿はさながら軍神だった。
 この世に向ける何らかの感情を江夏は持っていなかった。好意も嫌悪もその中間にある感情さえも見事に何一つとして。そんな江夏が十五になって生まれて初めて嫌いなものに出会った。それが新庄慶という存在だった。嫌いなんだから、見なかったことにしてさっさと帰ってしまえばいい。頭では分かっていても足が動いてくれなかった。
 どこにいてもよく目立つあの金髪が目障りだった。すぐに見つけ出してしまうから。そして何よりあの目が嫌いだった。誰かと殴りあうときあの目はいつも刃物みたいに鋭くなった。相手を睨むというよりはもっと違う何かを、違う次元を睨みつけているようだった。何かを憎んでいるようで、恨んでいるようで、それなのに求めているようで、願っているようで、あらゆる全ての感情を同時に宿しているようだった。江夏にはまったく理解出来なかったし、理解出来るはずもなかったのだ。彼は希望や願いを、あるいは憎しみや恨みを一度だって持ったことがなかったのだから。そういう入り組んだ人間性があれば江夏卓の人生は今より少しはましだったかもしれない。
 自分への口実でしかなかった煙草は一度吸った以来意味もなく先端から白い煙を上げ続けた。江夏は煙草に火を点けたことはおろか、それを手に持っていることさえ忘れてじっと見続けていた。新庄は二人組みの一人と取っ組み合った。余ったもう一人が勢いをつけて新庄に向かって行った。江夏は考えるよりも先に駐車場の入り口に置かれてあった青い色をしたゴミ箱に目星をつけ、その成り行きで思い出した火の点いた煙草を口にくわえ、ゆっくりとした動作でそのゴミ箱を持ち上げ、それを男目掛けて豪快に放り投げた。咄嗟的に振り向いた庄はその様子を一瞥し、目の前に立ちはだかる男に拳一つでとどめを刺した。それからゴミ箱が飛んできた方向に気を取られている男を振り向かせて殴った。二人の男はしばらく立ち上がりそうになかった。
「何してんだこんなとこ・・・」
「余計なことしてんじゃねえよ」
 新庄は江夏の言葉を遮って言った。
「・・・命の恩人に対してそれか?」
「チッ、てめーが来るって分かってたら違う場所選んでた」
「よく言いやがる、俺が助けなかったら死んでただろ確実に」
「助けられた覚えはねえな」
 これ以上話すことなどないとばかりに新庄が駐車場を出て行った。江夏は身動きも出来ないままそれを見ていた。あらゆるものから逃げようとしない強さを秘めた後姿。いつも何かを壊そうとしている、どれだけ焦がれても届かない背中。誰かの後姿をこんなにも複雑な気分で見つめたことなんてなかった。江夏は初めて自分の視界の現実味を痛感した。どうしようもなく煙草を投げ捨てたが、新庄は遠ざかって行くだけだった。見なかったことにして通り過ぎれば良かっただけのことだというのに、何故それが出来なかったのだろう。別に助けたかったわけじゃない。助けようとしたわけでもない。だったら、一体何だと言うのだろう。新庄の前では自分の行動さえ理解出来なくなるらしい。
「どこ行く気だ」
「知るか」
「またケンカか?」
「てめーに関係あんのかよ」
「あるだろ、折角助けてやったやつにみすみす死なれちゃ迷惑だ」
「着いて来んじゃねえ!」
 新庄に殴られたのは確実にこれが初めてだった。同じ学校に通い同じ部活に所属していながら彼らにそれ以上の接点は何もなかった。だからケンカをすることなどあり得なかった。これほどまでに会話が続いたことさえ今日が初めてのことだった。江夏は新庄を避け続けていた。どこかで分かっていたのだ、一度関わるともう二度と元には戻れなくなることを。興味があったからこそ関わろうとしなかった。そういう大いに単純な心理にひたすら騙され続けようとしていただけだった。金髪が誰よりもよく似合っていたし、鋭い目が美しかった。本当は最初から分かってた。嫌いなんだと思い込めば、この世はただくだらないだけで済んだのだ。けれどもう遅かった。殴られた頬が思いのほか痛かった。ふと月が視界に入った。そらから新庄へと視線を戻した。夜の闇を照らす月。自分が闇なら、新庄が月なのだろう。そんなことを考えて、自分でも意味が分からなかった。
「てめえ・・・」
 江夏は新庄を見据えながらも言葉を濁した。こんなにもまじまじとこの男を見たことがいまだかつてあっただろうか?いつも視界に入らないよう心掛けていたけれど、今彼は新庄を中心に世界を見ていた。
 一方すっかり殴り返してくるだろうと踏んでいた新庄は一向にその気配を見せない江夏を不気味に感じ始めていた。その間も江夏の目は盛大に顔をしかめる新庄を映し続けていた。そんなおかしな時間が流れる内に、新庄は果たして江夏はこんな顔をしていただろうかとふいに思った。新庄の意識は今初めて江夏を江夏として認識したのだった。毎日顔を合わせていたはずなのに、まるでたった今出会った見知らぬ男のようだった。とうとうそう思っているのにも飽きて来た新庄がこの状況をあっさり捨て去ろうと背を向けかけたとき、ようやく江夏の手が動いた。しかし殴りかかったわけでも何でもなく、ただ新庄の手首をつかんだだけだった。新庄にはこの男が何をしたいのかまったくもってして分からなかった。
「何なんだよてめえ!」
「・・・今から家に来い」
「ああっ?」
「家に来いっつってんだ」
「やるってんなら今ここで相手してやんよ」
「誰もんなこと言ってねーんだよ」
「じゃあ何だってんだ、頭でもイカたかよ」
「・・・そうなのかも知んねーな」
 江夏はぼそりと呟いた。その口調はあらゆることを諦めてしまったかのような寂れたものだった。そんな江夏の態度に一体何がどうなっているんだろう!と、度肝を抜かれたのは新庄だった。ケンカを売って来た相手を自分の家に招待しようだなんて、それだけでびっくり仰天だが、その上普段の江夏からは想像もつかない物の言い方にこの江夏は偽物なんじゃないだろうかとさえ思っていた。色々と考えた挙句新庄が導き出した答えは、さては腹に一物あるに違いないということだった。
「何企んでんだか知らねーけど回りくどいことはごめんだぜ」
「だからそんなんじゃねえっつってるだろ、人の話聞いてたかコラ」
「てめーの話なんか信じると思ってんのかよクソ野郎」
「・・・四の五のほざくな。黙ってついて来い」
「あ、コラ、離せ!誰がてめーなんかについて行くか!」
 いくら人気がないとは言え、新庄のわめき声は通行人の注目を簡単に集めた。けれど新庄も江夏も一切気にしなかった。そんなことよりも江夏にとって大変だったのは、隙あらば噛みついて来そうな新庄を引きずって歩くことだった。
「ちったあ大人しくしたらどうだ!」
「離せっつってんだよ!殺されてーのか・・・!」
 新庄の首根っこを右腕に抱え込みながら、まるで猛獣だなと江夏は思った。


 ようやく解放された新庄は一瞬言葉を失った。目の前に聳え立つのは車が二台は横に並んだまま出入り出来そうなほど大きくて絵に描いたように立派な門構えだった。圧倒された新庄は怒りも忘れてつい零した。
「ど、どこだ?ここ」
「俺の家だ」
「・・・はっ、冗談言ってんじゃねえよ、騙されてたまるか」
 こんなことで騙してどうなるんだろう?江夏は新庄の馬鹿らしい想像力に眉をしかめてから顎をくいと動かした。新庄は胡散臭そうに目をやった。そこには表札があり、確かに江夏と書かれていた。
「入れ」
 呆気に取られていると江夏がそう言い門の戸を引いた。新庄は恐る恐る敷地内に足を踏み入れ、またまた目を丸くする羽目になった。玄関らしきものが何だってあんなにも遥か向こうに見えるんだろう。この広すぎるスペースに自分の住んでいる部屋が一体いくつ納まるだろうかとうっかり考えてしまった。
「何ぼけっとしてやがる、早くしろ」
 まるで異世界に迷い込んだかのような気分だった新庄は江夏の言葉に素直に従った。
「・・・借りて来た猫か」
 江夏はぼやいたが、新庄には聞こえていないようだった。物珍しげにきょろきょろと辺りを見渡すことに夢中になっている。新庄が自分の家にいる。十六年間住んで来たこの大きくて陰湿な暗さを秘めている屋敷に。そんな光景を見ていると江夏もまた住み慣れたこの屋敷が別世界に思えていた。
 玄関を、そしてあの長くて暗い廊下を一人ではなく新庄と二人で歩く。さっき家を出る前に通った廊下と何一つ変わっているはずがないというのに、ただそれだけのことでまるで全てが違うように見えた。
「そんなに珍しいか?」
「・・・てめーがこんな豪邸に住んでるなんて思いもしなかった」
「正真正銘ここが俺の生まれ育った家だ」
 もっとも家という呼び名は似つかわしくなかった。江夏にとってこの屋敷は豪華絢爛な檻のようなものだ。順調に部屋までの道のりを辿っていると使用人と出くわした。江夏が使用人の名前を覚えたことは一度たりともなかった。使用人は「卓様、お帰りなさいませ」と、完璧な動作で頭を下げ、次に新庄に向かって「いらっしゃいませ」と、同じく完璧な動作で頭を下げた。まるで機械仕掛けのようだった。新庄は二、三度まばたきをした。
「おいおまえ、部屋まで救急箱を持って来い。今すぐだ」
「かしこまりました」
 使用人の後姿を見送った新庄は江夏に思わず聞いた。
「・・・何だ、今の」
「あ?何って何が?」
「今の誰だ?」
「ああ、使用人」
「・・・し、使用人」
 新庄は生まれて初めて使用人という職業の人と出会った。本当にいたんだ、そんな人。なんてことを思っているとようやく江夏の足があるドアの前で止まった。江夏が開けたドアの向こうは二十畳ほどもありそうな洋室だった。もちろん、新庄の部屋よりも遥かに広い。どこもかしこも、何もかもが桁違いだった。
「すげえ・・・」
「適当に座ってろ」
 そう言われた途端、新庄はようやく現実を直視した。大層ご立派なソファがあったけれどちっとも座りたくなんてなかったし、それどころか今すぐにでも帰りたい一心だった。何の因果があって江夏なんかの部屋にいるんだろう?というのは至極真っ当な疑問だったろう。大した意味もなくがしがしと金髪をかきむしってみたが何かが起こるわけもなく。こうなればもうやけくそだ、とばかりに新庄は例のご立派なソファに景気よく体を落とした。それは想像以上に座り心地の良い代物だった。そして普段そうするように方膝を立てて座るなりやけくそついでに口を開いた。
「で?何で俺はこんなとこにいんだよ」
 屈託のない視線を注がれた江夏は口ごもる。新庄の目はいっだって相手を真っ向から見据えた。絶対に逃げようとすることがなかった。かと言って見据えた相手の気持ちを推し量ってくれるほど親切な男ではなかった。江夏は新庄の目に飲み込まれそうになる過程の中で、一体この目は何色をしているんだろう、という大いなる疑問に直面した。透き通った、何かの宝石のような。日本人の目の色なんて似たりよったりなのは確実だったが、それを知りたかったんじゃない。目の前にあるその色の名前を知りたくなっただけだった。新庄がここにいる理由、そんなものは無理やりつれて来たのだからないに等しかった。もう二度と元には戻れないから、とかなんとか口に出しかけたけれど。
「・・・言っただろーが、折角助けてやったのに死なれちゃ迷惑だってな。怪我の手当てぐらいしてやる」
 手当て!新庄は思わず叫びそうだった。野球部の中で一、二の性格の悪さを誇る江夏が他人の怪我を気に掛けるとは、明日は雨になるんじゃないだろうか?そして明後日には槍が降って、明々後日には地球が消滅しかねない。
「お、おまえマジで頭でも打ったんじゃねーだろうな?」
「ああ?何言ってんだ」
「いや、それとも俺が夢でも見てんのか・・・」
 新庄が現実を疑い始めたところ、ドアがノックされた。先ほどの使用人が言いつけ通り救急箱を届けに来たようだった。四角い木箱をテーブルの上に置いた江夏がやたらと偉そうに座っている新庄の隣に腰を下ろした。
「マジですんのかよ」
「するからじっとしてろ」
 開けられた木箱の中にはあらゆる道具や薬が完備されていた。江夏はその中から消毒液を選んで手に取った。
「それはいらねー」
「あ?何で」
「染みんだろ」
「・・・バカか」
 聞く耳を持たなかった江夏は消毒液を染み込ませたコットンを血を拭うようにして傷口に当てた。「って」と零した新庄が顔を背ける。江夏は空いている方の手で胸倉を引き寄せた。「動くな」と言うと少し顎を上げている新庄に見下ろされる形で睨まれ、胸倉を引っぱっている腕をつかまれた。また一悶着起こす気かと案じたが、以外にも新庄が暴れることはなかった。
「もっとゆっくりやりやがれ」
 手当てを施されている側である新庄の偉そうな態度に呆れ返った江夏はあんまりバカバカしくて言葉を返す気にもならなかった。やれやれとばかりにため息を吐き、出来るだけ痛みを感じさせないよう注意した。左目の瞼と唇の内側が切れている。血は完全に止まっているようだった。まずは瞼の乾いた血を拭き取り消毒液をたっぷり含んだ新しいコットンで傷口を消毒する。この世で最も嫌いなのだと思い込もうとしていた新庄の目が何よりも近くにあった。瞬きに伴って上下する睫毛の一本一本さえも鮮明に見える。近くで見ればまたより一層派手な顔立ちだった。
「痛いか?」
「痛い」
「チッ・・・」
「もういい」
 新庄はそう言うと遂に顔を逸らした。江夏は自分のやり方を拒絶されることによって自分自身のすべてを否定された気分になった。新庄はそんな江夏に気づくことなく遠慮もしないで木箱を探った。案の定そこに納まっていた 絆創膏を一つ拝借してぺたりと瞼に貼りつけた。江夏は一連の流れをただ目で追った。痛みを与えない方法なんて知っているわけがなかった。知っていれば何がどれだけ変わっただろう。そう考えても悲しくなるだけだった。思えば何も知らない。本当に知らなければならないことは何一つ。
「まだ終わってねえよ」
 江夏の口調の強さに新庄は眉をしかめとうとう彼を怪しんだ。江夏がこんな風に誰かに尽くそうとするなんて、新庄の常識からはどうしたって考えられるわけがなかった。そもそも最初からおかしかったのだ。江夏が誰かを助けることも、突然家に来いだなんて言うことも、怪我の手当ても、そんなもの絶対おかしいに決まってる。新庄が不審がっている間にも江夏は着々と準備を進めていた。小さな容器を取り出して蓋を開けている。
「口、切れてんだろが」
「何だよそれ」
「塗り薬」
「薬塗るほどのもんかよ」
 新庄の素直さは今持てる全ての情熱を手当てをするということに注ごうとしていた江夏に生きることの難しさを教えた。こんなちっぽけな傷、薬なんて塗る方がどうかしてる。そんなことは江夏にだって分かっていた。何しろ傷の手当てなんてものは単なる口実に過ぎなかったのだから。けどだからってそこまではっきり言わなくたっていいに決まってる。手当てする以外に新庄を引き止めておく術なんてあるはずもなかった。だから、何が何でも実行しなければならない。それこそが自分という人間の存在に与えられた意義であるかのように。なんてちっぽけな存在意義だろう。
「いいからこっち向け」
「どうせ帰ったら風呂入って歯磨くし」
 そっちがそう来るなら、江夏にだって考えはあった。
「だったら今すぐ風呂入って歯磨いて来い」
「ああ?何言い出してんだてめえ・・・」
「つべこべ言ってねーで行け」
「な、何で俺がこんなとこで風呂入んなきゃなんねーんだ」
「風呂は俺専用のが隣にあるし着替えも歯ブラシも全部用意してやる。分かったらとっとと行きやがれ」
 江夏のおかしなまでの熱心さに本格的に恐れをなした新庄は半ば逃げるようにして部屋を出た。とりあえずすぐ隣にあったドアを開けてみるとそこは本当に浴室だった。そしてすぐに着替えらしき物を抱えた江夏が現れ、何やら引き出しを漁り出した。
「着替えと歯ブラシとバスタオル」
「わ、分かった」
 江夏が出て行った後、新庄は茫然とドアを見つめながら考えた。もしかして江夏卓は二重人格だったのかもしれない。十分考えられる話だ。あまりにもおかしすぎて現実を受け入れることが出来なかったのである。
 その頃江夏は自分の部屋をうろついていた。新庄が今すぐ隣で風呂に入っている。そう仕向けたのは他でもない自分だったのだが、冷静に考えると非常に危ないシチュエーションだった。そしてそう考えて、一体何が危ないんだ!と根本的な問題点を自ら指摘しなければならなかった。やっぱり関わるべきではなかったのだ。思考がどんどん怪しい方へと向かっていく。座っては立ち、歩いては止まり、テレビを点けては消すを繰り返した。
 そして新庄が部屋へと戻ってきたとき江夏は仰天せざるを得なかった。
「て、てめえ・・・服渡したろうが・・・!」
「あ?ああ、暑ちいから」
 こともあろうか上半身裸という有様だった。風呂上りであるだけで学校では見ることの出来ない知らない領域を見せつけられているのというのに、新庄の半裸は江夏の思考に軽々と追い討ちをかけた。何だって男のくせにこんなにも色っぽい体つきをしているんだろう、と江夏は完璧な無表情を貫きつつもすっかり感嘆しきっていた。頭の中身が透けて見えたなら間違いなく狂人のレッテルを張られていただろう。それほどまで新庄の体が賞賛に値するものだったのか、それともただ単に江夏が狂っていただけなのか。細いわけでもなく、太いわけでもなく、男特有の無骨さが描く直線と必要な分だけついた筋肉が描く曲線がなめらかな肌を形作っていた。同じ男であるというのに、ほとんど直線だけで成立している自分の体とはまるで違っている。最早江夏の脳内は収拾がつかないほど色めき立っていた。けれどそんな混乱状態を表情に出すことは決してなかった。と言うよりも表情に出すなんて芸当を江夏に出来るはずもなかった。何しろ十五年もの間他人に対して一切好意を持たずして生きてきたのだから。
「うわ」
 新庄がいきなり小さく唸った。江夏は冷静さを作った。
「ああ?」
「最悪だ、終電なくなった」
「・・・俺の知ったことか」
「ざけんじゃねえよ、責任取れ」
「責任?」
「タクシー代」
「ハッ、笑わせんな」
「元はと言やてめーが勝手に連れて来たんだろーが!」
「さっきからぎゃあぎゃあうるせーんだよ」
「・・・てめーケンカ売ってんのか?」
 新庄の目が一気に狂気を孕んだ。何かあればケンカで片をつけようとする。学校でも、外でも、江夏家に来てまでも。新庄の喧嘩っ早さは江夏からしても十分に異常だった。頭でもおかしいんじゃないかとさえ思うこともある。それにしてもこの状況だとケンカという言葉が世にも健全に思えてくる。江夏だって殴り合って済むならとっくにそうしているが、今は到底そんな気分ではなかった。事はもっと重大で、切迫しているのだ。それとは対照的に新庄はいつでも相手になってやるとばかりに一歩いっぽ距離を詰めてくる。相手が考えていることになど全く気づいていないのだろう。江夏はごくりと生唾を飲んだ。きめ細やかな肌からいかにも清潔そうな匂いがしていた。本格的に自分自身を見失いそうになった江夏は閃いた。風呂に入ろうではないか。何て名案なのだろう!別に、半裸の美少年から逃げるというわけじゃない。断じてそんなことではないのだ。風呂に入るというのは日本人のれっきとした習慣なのだ。ただそれだけのことである。江夏は落ち着かない様子でタンスの前まで移動した。自分でもまったく挙動不審だということぐらい分かっていたが仕方ない。よく見もしないでタンスの中身をわしづかみにして何とか部屋を出ようと試みた。がしかし、新庄がぎらりと目を光らせた。
「コラ、どこ行くんだよ」
「ふ、風呂だ風呂」
「・・・のん気なことほざいてっとマジで殺すぞ!」
「俺が風呂入ろーが何しよーが俺の勝手だろうが・・・っ」
「てめーが風呂入ろーが死のうが生きようがどうだっていんだよっ!金を寄こせっつってんだ俺は!!」
 新庄が気でも狂ったかのように叫ぶ、美しい肉体をさらけだしたまま。江夏はもうどうにかなりそうだった。
「だからぎゃあぎゃあうっせえよてめえ!大人しくして待ってろ!!」
 何かにつけて喚き散らす新庄とは違い、江夏は静かに怒るタイプの人間だったが今回に限ってはそうわけにもいかなかった。こっちの身も知らずさっきから喚いてばかりいる新庄にいい加減うんざりだ。言ってる尻から新庄がまた騒ぎ立てているが、江夏は足早に部屋を後にした。
 浴室へ入るまでもやもやした感情で一杯だった。とにかく自分を落ち着かせなければならなかった。人生、こんなにまで取り乱したことなんて全く皆無だったのだ。けれど浴室へ入るとまた新たな問題に直面してしまった。江夏は素っ裸のまま浴槽の前で立ち尽くした。このお湯の中についさっきまで新庄が入っていたという事実がまた彼を悩ませたのだった。新庄の艶かしい半裸が頭の中に浮かんで来る。首筋や鎖骨、薄すぎない柔らかそうな胸、生々しく浮かび上がった腹筋、引き締まった腰のライン。一つ一つ克明に再現されていく。江夏はシャワーを頭から浴びた。
 十六年間で最も長い風呂だった。終始悶々とした気持ちと戦っていた。結局浴槽には入らずじまいだった。
 何とか風呂を済ませた江夏は自室の前でドアノブに手を掛けながら立ち尽くしていた。このドアの向こうへ足を踏み入れたら人生が狂ってしまうことなど目に見えているのであった。人間とは諦めの悪い生き物である。散々新庄の半裸で興奮してとっくに狂い始めているというのに最後の悪足掻きをしたりする。しかし新庄がいるというのに、どうしたら入らずにいられただろう!この世でたった一つの価値のある存在が、世界をもってしても敵うことなど到底出来ない存在がドアの向こうで待っている。そうだ、新庄は世界そのものだ。新庄こそが自分にとっての世界なのだ。江夏は息を荒げてすっかり感じ入った。もはや彼は取り返しがつかないほど狂っていた。
 この部屋に入ることを許されていたのは数人の使用人だけだった。使用人は主のいない時間帯を完璧に見計らい、必要最低限の掃除する。この部屋の人の出入りはたったそれだけだった。鍵などついていないにもかかわらず父親も母親も近づこうとさえしなかった江夏だけの城。だからこそ鍵なんてものは必要じゃなかったのだ。そんな場所で新庄が眠り込んでいる。いつも完璧で不自然なほど整えられているベッドの上で布団を抱きしめながら。江夏は数秒の間固まった。目の前にある光景がとても不思議なものに思えた。この部屋にはつい昨日まで新庄という存在の影も形もなかったのだ。この部屋と新庄、それらはちゃんちゃら不釣合いで、これほどまでに違和感のある光景などどこにもないだろうとさえ思った。けれどもそれが今目の前に現実として成立し、この光景こそが本来の姿なのだと感じてしまうほど新庄は呆気なく部屋の中に溶け込んでいる。たとえば駐車場の前で新庄の背中を見てしまったとき、たとえば新庄とこの屋敷を歩いたとき、そのときの感覚が再び蘇った。これこそが世界だったのだ。江夏の世界を新庄は呆気なく一変させた。江夏は誘われるように、しかし恐る恐るベッドへと近づいた。穏やかな寝息が聞こえて来る。ゆっくりと、彼には似つかわしくないとても繊細な動作でベッドの上に腰を下ろす。そこには幼い寝顔があった。
「・・・勝手に人のベッド使ってんじゃねえよ」
 江夏の温もり以外を知らないベッドだった。どうしてこんなことになっているんだろう?江夏は何だかよく分からなくなっていた。新庄の寝顔を見ていると何もかもがどうでもよくなった。ふと新庄の上半身が裸だということに気がついた。辺りを見渡すと新庄の足元の方にさっき渡したTシャツがしわくちゃになって放り出されていた。それを手繰り寄せ、襟ぐりを新庄の頭に宛がった。起こさないよう出来るだけそっと。襟を通し、左袖を通し、体の下敷きになっていた右腕も時間を掛けて袖に通した。江夏はそうしながら思っていた。誰かをこんなにも慈しむ瞬間が訪れるなんて。
「んん・・・」
 薄く開いた唇から小さく声が漏れた。江夏は咄嗟に両手を離して息を殺した。新庄はぼりぼりと首をかいて、またすぐに静かになった。まったくいい気なもんだ。江夏はTシャツの裾をゆっくりと整え、ベッドの上に座ったまましばらく新庄の寝顔を眺めた。普段よりも幼く感じるのは鋭い眼光がまぶたによって隠されているからだろうか。つくづく不思議な男だ、その時々で受ける印象がこうも違う。軍神だった男は今ではどこから見ても何でもないごく普通の少年だった。同じように呼吸をし、こんなにも近くで生きている。なんて奇跡的なんだろう。江夏は命の音に耳を傾けた。静まり返っている部屋の中で新庄の呼吸の音とリズムが一つの世界を作り上げていた。これが平和というものなのかもしれない。人類が壊し、そして望んで来た平和。瞼の小さな傷がまだ少し生々しさを残しているが、こんな微々たる損傷でどうにかなる男じゃないことぐらい知っている。最初から誰にだって傷つけることなど出来やしないのだ。だからこそ江夏はこの状況を受け入れてしまっている。この平和を壊せる者がいるとしたらこの世にたった一人、新庄慶本人だけだろう。実際、いつだって新庄は勝手に一人で怒ったり悲しんだりしている。時々本当にバカなんじゃないかと思う。自分がどれほどの平和を生み出すのかも知らないで。
 あんまり安心したからか、江夏はつられて船をこぎ始めた。新庄の金髪が水分を含んでいる根本的な理由なんて忘れて。江夏は少し考えてから唇に触れるだけのキスをした。眠っている隙にキスをするだなんて犯罪じみていたけれど、そういう悪人もいるってことを考えていない相手にこそ責任があるのだと江夏は自分を正当化した。どうせ、気づかれもしないのだ。ある日の夜、黙ってキスをしたことを新庄は永遠に知らないままでいるんだろう。もっと酷いことをしてやろうかとも思ったがそれよりも遥かに強く単純な欲求に駆り立てられた。江夏は左腕を金髪の下に時間を掛けてゆっくりと押し込み、右腕を逞しい体に巻きつかせた。そうすることで新庄の全てを腕の中に閉じ込めようとしたのだ。体も温もりも匂いも音も何もかも全てを。それらを自分のものにしてしまおうなんて、これ以上の悪人はいないんじゃないだろうかと江夏は自分の欲深さにぞっとした。
 どれぐらいの時間が経ったのかは分からないが突然新庄の頭がごそごとそ動いた。もう金輪際ないってぐらいに驚いた江夏の体は一瞬にして凍結したかのように固まった。さて、どうしたものか、と考えることもままならず頭を真っ白にしていると、数秒後に新庄が眠りから覚めきっていない不鮮明な声で言った。
「・・・すげー静か」
 睡魔は確実に新庄を襲っているようだった。江夏は耳を澄まし、それだけじゃ心もとなくて目まで凝らし、全神経を傾けて曖昧に発音された言葉を必死になって聞き取った。
「・・・何が?」
「この部屋・・・物音一つ聞こえて来ねー」
「壁が厚い。外の音も届かねーよ」
 果たして新庄は自分の身に何が起こっているのか分かっていないのか?そういう発想がなかったわけじゃないが、下手に動くと余計に怪しまれる気がした江夏はあくまで何でもない風を貫くことにした。ベッドの上で男を抱きしめてるなんて何でもないわけがなかったけど。心臓が今までにないほど壮絶に脈を打っている。動いたら、もう話を続けてくれない気がした。どんな危険を冒しても新庄の言葉を遮る理由など存在しなかった。今にもまた眠りに落ちてしまいそうな、昨日までなら想像も出来なかった普段よりもずっと幼い声。
「俺の部屋じゃあり得ねー」
「てめーの部屋?」
 江夏はそう言って金髪に視線を落とした。新庄の部屋、なんて現実味のない響きなんだろう。学校にいる新庄慶しか知らない。あの建物の中にいる新庄こそが新庄慶なんだと思っていた。
「隣の物音とか車の音とか色々、猫もケンカしてる」
「猫・・・そうか」
「世の中の人間も猫も全部消えちまったみてーだった」
「・・・んなわけねーだろが」
「おまえ、よく耐えれるな」
 新庄の口調は確実に何かを恐れていた。静かな部屋、音のない世界、人間も猫も消えてしまった地球、江夏が生きる場所。別に耐えてきたつもりはなかった。怖くもなかったし、不満もなかった。それがこの部屋のあり方だと何の疑いもなく思っていた。だけど、この部屋から作り出されるそういう日常も終り、明日になれば全く新しい日常が始まることになるのだ。
「これから耐えなきゃなんねえんだよ」
 声を出すまでにあまりにも長い時間を掛けすぎたのか、新庄はまた眠りに落ちていた。江夏は腕の中でのん気に眠っている新庄がたまらなく憎くなった。そして同じくらい、あるいはそれ以上に、愛しくてたまらなかった。明日からこの部屋に生まれるものを想像しては言いようのない気持ちになった。これを絶望と呼ぶのかもしれない。
 だけど今だけはこの平和に溺れていたかった。新庄が隣にいるということはそういうことだった。音のない世界はふたつの呼吸のリズムに満たされていた。


 睡眠と覚醒のちょうど中間の曖昧な意識のその中で新庄が隣にいるんだという事実を探り出した江夏は目覚めた時特有の最強だと言わんばかりの睡魔などお構いなしに勢い良く上半身を起こしてみせた。事実なんかじゃなくて、全部夢だったんじゃないだろうかと危惧したからだった。この広い部屋のどこを見渡しても新庄はいなかった。江夏はその場で数秒間混乱した。夢だったのか、現実だったのか、まだ目覚めきっていない頭では判断出来なかった。今が朝なのか夜なのかそのどちらでもないのかさえ分からない。江夏は咄嗟に窓を見やった。カーテンの隙間から太陽の光が筋になって降りている。それでもまだ何の確信も得られなかった。そんな時部屋がノックされた。その音は聞こえたけれど、聞こうとは思わなかった。「卓様、朝食のお時間でございます」使用人が言った。「卓様」と、何度か繰り返した。
「卓様?いかがなされました?」
 本格的に目が覚めて来た。朝であることが分かった。朝食の時間だ。誰にも曲げられない規律がある江夏家において使用人が朝食の時間を偽るはずもない。江夏の混乱はみるみるうちに明確な不安へと変貌を遂げた。必死の思いで周囲を詮索すると昨夜新庄に着せてやったTシャツが床に脱ぎ捨てられているのを見つけた。ソファの上にはズボンもあった。救急箱もあの時のままの状態を完璧に保って置かれている。新庄がここにいたのだという形跡がある。けれども肝心の新庄はもうこの部屋にはいなかった。江夏はまるで捨てられたような気分になった。平和なんてもうどこにもない。
「卓様、卓様。開けさせていただいて宜しゅうございますでしょうか?」
「開けるな、何でもない」
 江夏はようやく口を開いた。誰にも入って来て欲しくないと強く思った。今日まで、誰がこの部屋に入ろうと入るまいと何の問題もありゃしなかった。元来この広い部屋に特別な思い入れなんてなかったんだから。そんな江夏が自ら他人の侵入を拒んだ。汚したくなかった、誰の存在も許したくなかった。生まれて初めて手にした思い出を、愛着を、守りたかった。あの穏やかな時間をほんの微かにでも残していたかった。江夏の部屋は初めて寂しさを生んだ。一人の部屋の怖いぐらいの静けさを今になってようやく実感した。確かに新庄がここにいたのに。Tシャツもズボンも救急箱も、それを証明している。ちゃんととした証拠があるのにもかかわらずやはり全てが夢だったんじゃないかと思い、理解出来ないぐらいの不安に襲われた。この部屋が知ってしまった寂しさが消えることはもう二度とないような 気がした。


 朝から快晴だった。江夏はあまりの眩しさに目を細めながら歩いた。部室に入るとやはり今日も不良たちがそれぞれ不良という言葉にそぐう振る舞いをしていた。つまりそれは次に決行する集団暴行の計画の話し合いだった。十分な換気も行われない部屋はたばこの煙で視界が悪かった。れっきとした授業中だった。
「江夏!こないだの奴らの話覚えてっか?」
 唐突な質問を会話へと昇華する気も起こらなかった江夏はソファに腰を下ろしてたばこに火を点けた。答えを聞かされることはないだろうと悟った質問者は妙に恥ずかしくなって小さく舌打ち、意識を元の場所へ戻して行った。
「あいつらマジでナメてやがんぜ」
「このままじゃ気が済まねえ」
 桧山と若菜の言葉にほとんどが頷いた。安仁屋は黙ってたばこを吸っていた。岡田は雑誌をぺらぺらとめくった。さしずめ、安仁屋は新庄が自分の隣にいないことに腹を立てていて、岡田は単に話を聞いていないだけだろうと江夏は何となく考えたりした。第三者に なりすますことで少しでも冷静さを保とうとした。人間とはそういう生き物だった。
「聞いてんのかよ、新庄」
 どうしたって結局、誰もが新庄を頼るしかなかった。本当の友情がこの部室に存在していなかったとしても、この愚かしい小さな集団を成り立たせていたのは新庄慶という少年の存在そのものだった。彼の発する言葉こそが少年たちを導き、守った。新庄はそれほどまでに人々の心を引きつける魅力を持っていた。それが負に働くものだろうと、正に働くものだろうと。その肝心の新庄はというとピンボールに夢中になっているところだった。けれど話を聞いていないわけじゃなかった。
「ぶっ殺せばいいだけだろうが」
 数名を覗き、まるで神の啓示に耳を傾けるかのごとく聞き入った。自分がどれだけの影響力を持っているのかを知ってか知らずか、 たばこをくわえている新庄は小さな球体が様々な障害物にぶつかりながらも確実にターゲットに当たり高得点を獲得していく様子を目で追っていた。その横顔が悲しみに満ちていることなど、本人を含め誰一人として気づいていないのだろう。江夏は呆れたように深く息を吐いた。
 時々こんな風に、新庄が悲しそうな表情を見せることを江夏はもうずっと前から知っていた。一体どういった理由からそういう表情が生まれてくるのか、満足な喜怒哀楽を持たない江夏にはどうしても分からなかった。それに悲しくなるんだったらこんな場所捨ててしまえばいいだけのことだった。だけど新庄はそうしようとしない。最初の頃はそれだけこの場所に執着しているのかと思ったが、本当はそうじゃないということに気がつくまでに大した時間は掛からなかった。悲しげな表情をしているかと思えば、次の瞬間には信じられないぐらい冷めた眼つきをしていることなんてざらだった。
 新庄は全てを知っていたのかもしれない。自分が今いる世界がどれほど小さいのかを、そしてそこで生きていくしかないという理不尽さも。新庄慶が生きていくにはあまりにもこの世界が小さすぎたのだ。こうして一体どれぐらいの人間が世界に傷つけられて来たんだろう。もっとも、一秒一秒をただ必死に生きている新庄が自分が全てを知っているということに気づいているとは到底思えなかったけれど。
 まるで別々の次元を生きていた。見ている景色が全くもってして違うのだ。今だって同じ場所で同じ景色を見ているはずだけれど。江夏がこの部室に見出した価値といえば、新庄慶という存在でしかなかった。それ以外のものを求める気になど到底なれない。けれど新庄はあらゆるものを求めすぎている。何もかもがちぐはぐだった。一体新庄の目にはどんな風に映っているのだろう?考えたところで分かるはずもなかったが。誰も気づかないような些細なこと、あらゆる苦悩やあらゆる喜び。色々と考えてはみるものの、やはり何一つだって分からなかった。ただ一つ確かなことがあるなら、それは江夏には触れることの出来ない領域だということだけだった。そうやって決して交わることの出来ない次元で生きている。ふと晴れ渡った空を思い出した。太陽の色は新庄の髪の色に似ている。
「中途半端なんだよてめーら、揃いも揃ってよ。だからナメられんだろーが」
 新庄は吐き捨てるように言った。それはいつもの新庄でしかなかった。だから誰も不審に思うものなどいなかった、江夏を除いて。
 確かに同じ夜を過ごしたはずだった。だけど、穏やかな寝息も幼い寝顔も初めからなかったのだとばかりに、新庄はいつもと何ら変わりなかった。言葉を交わすことはおろか目が合うことさえないのだから江夏は自分の記憶を何度も疑ってはどうにか信じようとした。そして、そうする度に孤独という言葉の意味を知らなければならなかった。あの、世界を捨てても構わないと思ったほどの平和は何だったのだろう。


「何なんだよてめえは・・・!」
 声となった新庄の怒りは夕焼けの美しい空のずっと向こうにまで届きそうなほどだった。彼らの生活の傍には常に多摩川があった。 それと同じくして都会の騒音がその水音を奪っていたのもまた事実だった。
「いちいち喚くんじゃねーよ」
 江夏は平然と言った。彼は放課後本当にケンカしに向かった新庄たちの後をつけた。部員たちが暴行行為に没頭している間中、たばこをふかしながら早く終わらないものかと思っていた。そして今この状況にいたるのだった。つまり昨日みたいな偶然を自らの手で作り上げた。それにしても、何だってそうぎゃあぎゃあ喚いてばかりいるんだろうか、この男は。けれどやっと目が合い、言葉を交わした。
「うざってーんだよ」
 またやかましい声で難癖をつけてくるのかと思ったら、意外にも新庄はひどく冷たい口調でそう言い、すんなりと江夏に背中を向けた。全くもってしてわけの分からない男だ。勝手に怒ったり、はたまたその怒りを捨て去ったり。でもそれこそが新庄慶という男なのかもしれない。遥かに、こっちの理解を超えている。
「好きだ」
 江夏は言った。
「ああ?」
 新庄は眉をしかめて振り返った。
「好きだって言ってんだよ」
 当然のごとく繰り返した。夕暮れの空よりも近い位置に張り巡らされた電線から鳥が飛び立った。どこかへ帰っていくのかもしれない。
 一度受け入れてしまえば当然のことでしかなかった。目の前にいる金髪の男がどうしようもなく好きだった。どうして今までこんな当たり前のことに気づかずにいられたのだろうと、むしろそれが不思議でならなかった。これが恋というものなのかは分からないが、それでもこの腕の中に永遠に閉じ込めておきたいと思うほどに好きだということは痛いぐらいに確かだった。
「てめー変態だったのか」
 新庄は鼻で笑った。そしてまた何事もなかったかのように歩き出した。空の赤さも燃えるような雲も、新庄の為にあるようだった。 新庄慶そのものになれればよかったのかもしれない。一人では生きていけない、けれど愛されることを恐れる。そのちっぽけでバカらしい痛みを感じたことのない、理解すら出来ない自分の体が邪魔だと思った。
「本気か?」
 新庄は突然思いついたように言うと同時にもう一度振り返った。江夏は「悪いか?」と答えた。
「だったら、何かすげーことしてくれよ」
「・・・どういう意味だ?」
「そうだな、何かをぶっ壊したり、たとえばそういうことを」
 江夏がどんな思いでそこに立っているのかなんて知るわけがなかった。そもそも江夏という男は最初から何を考えているか分からないような男だった。簡単な話が、新庄はいい加減なことを言ったのだった。別に誰かの為に生きているわけじゃなかった。彼はただ思春期という頼りなくて鋭い時代を泳ぎきろうとしているだけだった。誰もがそうであるように。
「てめーイカレてんだろ、頭」
「おまえに言われたかねえ」
 まるで江夏の全てを知っているかのような口ぶりだった。それは江夏を少し救った。新庄が自分を知ってくれている。
「一体何のために」
「俺のためだろ?」
「・・・バカかてめえ」
「苛々するんだ」
 途端に粗暴さを手放した横顔がぽつりとそう呟いた。そこには軍神らしさの欠片もなかった。赤い夕陽に染められているあまりにも心細いその姿によって江夏こそが途方に暮れなければならなかった。彼は全能なる神か、それともしがない少年でしかないのか。結局そんなことはどっちだっていいことだ。
「何だ、苛々って」
 新庄はしばらく江夏の顔を見つめた。そして全く意外だとばかりにこう返した。
「しねえ?」
 江夏が数秒考えてから「しねえ、バカバカしい」と答えると新庄はつまらなさそうに息を吐いた。ほんの些細なため息だったが、相手を焦らせるには十分だった。江夏は慌てて口を開いた。
「何に対して?」
 興味があるわけじゃなかった。むしろバカらしかった。それでも江夏がそう聞いたのは、単に新庄の意識を手放すつもりがなかったからだ。可能な限り対峙していたい、たったそれだけの理由だった。
「別に、色んなことに。昨日とか今のてめーとかな」
 江夏は一、二度瞬きした。どうしてだろう、どうしてそうも何でもない風に言ってしまえるのだろう。あまりの理不尽さに江夏は男を疑いたかった。昨日の夜のことなんてとっくにかき消されたのだと思っていた。新庄の態度があまりにもいつもと同じすぎて。
「覚えてんのかよ」
「ああ?何を?」
 全てを見透かしているような目だった。あるいは何一つ知っちゃいないような。全てを燃やし尽くすような赤い夕陽が新庄の気性の 激しさと突然何の脈絡もなく重なって見えた。
「チッ・・・何でもねえ」
 見た目ばかり豪華なあの屋敷に初めて宿された愛着。忘れることは出来ず、かと言って軽々しく口に出すことも出来ないほど大切な。これからあの部屋に帰るたび幸せを知り、同時に孤独を知らなければならない。新庄が使った浴室、身にまとって眠った服、他者の温もりを与えられたベッド。十五にして初めて見つけた愛する人、そして愛する人と自分との今にも消えていきそうな繋がり。けれどそれらを新庄が同じように大切に扱ってくれているようには到底思えなかった。
「全くわけの分かんねー野郎だぜ」
 そりゃてめーだろ。そう思ったが口に出す気にさえ起こらなかった。ケンカをしたり平和を生み出したり、怒り狂ったり心細くなったり。彼の気分は目まぐるしく変化してことごとく江夏を置き去りにする。空は赤さを失いつつあった。そろそろ月が闇を支配する。その月明かりが薄れる頃、太陽が昇る。
「てめー太陽は何色だと思う?」
「ああ?何だって?」
「太陽は何色かって聞いてんだよ」
「意味分かんねえ」
「分かんなくていいから答えろ」
「何なんだ一体・・・そんなの知らねーよ、もうついて来んな」
 気づいたらまた視界の中心に大きな背中があった。何かを愛するとはこういうことなのかもしれないと思った。相手が何を見ていても、何を感じていても、自分だけが同じ位置に取り残される。新庄慶に出会いさえしなければ何も知らずに済んだのだ。少なくとも地球を彩る色に全く新しい意味を見出すようなくだらない真似はしなかった。太陽とか夕焼けとか月とか、なんてくだらないんだろう。
 


 自分でも笑えるぐらいに単純な動機だった。
 野球は江夏にとって今まで築き上げてきた人生の全てだった。それでもどこまでも晴れ渡る空の下でバッドを野球の道具としてではなく凶器として使用した。野球だけは好きだったけれど、それでもその 野球をめちゃくちゃにしたのだ。野球なんて情熱さえあればどこでだって出来るということは江夏だからこそ分かっていることだった。
「おまえ公式戦で暴力事件起こしたんだって?」
 河埜がそう聞いたのはいつものようにひどい有様になっている練習中のことだった。ここは確か野球部だったはずだけれど、一年は誰も練習なんてしない。そんな目黒川高校に突然現れた男。奇妙な時期に転入して来た男は河埜にとってやはり奇妙な男だった。そんな男は質問を聞くなりぴくりと眉を動かした。河埜は初めて江夏卓の内面を見た気がした。ゴルフに夢中で誰も気づかなかったし、それはほんの一瞬のことだったけど。
「それが?」
 途端に薄気味悪い笑みを浮かべた江夏が言った。河埜はしばらくそれを鑑賞したが、彼の見解が変わることはなかった。やっぱり奇妙な男だ。何を考えているのか分からない。
「・・・まあここにまともなやつが一人でもいるとは思っちゃいねーけどな、公式で事件なんて面倒くせーことするやつがいるとも思っちゃいなかったからよ」
 江夏は今一つ掴み所のない男だ。野球の腕はぴかいちだった。しかし真面目からは程遠い性格をしていた。かと言って自ら問題を起こすほど不良という生き方に楽しみを見出しているようなやつだとも思えなかった。江夏は妙な間を置いてこう零した。その表情から笑みは完全に消えていた。
「・・・面倒くせえか」
 面倒くさいの一言で終わらすことが出来ればどれだけよかっただろう。江夏はその言葉に不思議な憧れさえ抱いた。散々無茶なことをしてきたつもりだったが、正真正銘今までで最も馬鹿らしい暴挙だということは確実だった。たった一人のためにやった。もし人間だけが進化の過程で理性を身につけて行ったのなら、愛する人のためにならどんなことさえ躊躇わない罪深さはその代償だったのかもしれない。新庄が望むのなら人類を敵に回すことなんてどうってことはなかった。
「出場停止なんだろ。つうかてめーにゃもう関係ねーか」
「これでも後悔してる」
 河埜は自分の耳を疑った。まさか後悔なんて言葉が奇妙なだけの男の口から語られるなんて!もしかすると江夏という男はこの野球部の中で唯一のまともな人間なのかもしれない。本人にそういう意識がなかったとしても江夏の口調が河埜に示唆したものは人生の破滅を迎えたかのような絶望感にも似ていた。しかしまさか江夏の言う後悔と自分の考える後悔とが永遠に重なり合うことがないものだということになんて気づきもしなかった。
 江夏は暴力事件の後も毎日まいにち新庄のことを思って過ごした。耐えられるわけもなくて時々学校を覗きに行った。自分を置いて少しずつだけど確かに大人になっていく新庄の姿を遠くからずっと見続けた。学校に行けば嫌でも新庄に会えたあの日々が遠い昔のように懐かしく何かを叫びたいほどに焦がれた。最も悔やむべきは新庄が野球を始めるなんてことを予想さえしていなかったことだ。あの学校にいれば一緒に野球が出来たのだ。江夏にとって環境から得られる影響など問題じゃなかったし、この場所に不満も期待もありはしない。ただ新庄と野球をしてみたかった。それはきっと今までに感じたことのない高揚感と興奮を生み出すことぐらい想像すれば胸が痛いほど分かったから。後悔以外の何ものでもなかった。江夏は夜になると新庄が恐れた静かな部屋のベッドで眠った。あの日の出来事が思い出になることはなかった。それは思い出よりずっと近かったが、現実よりは遠く、手を伸ばしても決して届くことはなかった。一人で生きていれば絶対に知り得なかった、二人で眠ったことによって生まれた孤独だけがすぐ傍にあった。呼吸のリズムはもう一つしかない。
「それでもあいつのためだった」
 あいつ?と河埜は鸚鵡返しに聞いたが、江夏が答えることはなかった。河埜があいつと呼ばれた男に会うのは、そしてその男の類稀なる才能に衝撃を受けるのはもう少し先のことになる。
 江夏は新庄のちっぽけな居場所を守るために学校を去ったのだ。いくら呆れるほど不器用で遠回りな方法であってもそれが愛する人のために出来るせめてものことだった。
 また、出会うために。