夏は目を凝らさないと分からないような、けれど確実な速さで過ぎて行く。太陽は未だに強烈なまでの暑さを日本に注いでいたし、ひまわりはその顔を誇らしげに
掲げていた。けれど蝉の美声にかつての激しさは無く、日の長さは確かな変化を遂げていた。そうやって夏は朽ちて行く。どんな偉人にも
それを止める力は無かった。動かない瞬間を生み出せる者は誰一人として存在しなかった。一つの季節への喪失感が生まれ始める頃、海へ行こうと言ったのは
岡田で、それを聞いて誰にも分からないくらい静かに驚いたのは新庄だった。
「海?」
「そう海」
たま川のほとりに二人は並んで座っていた。周囲にはそれぞれの休日を過ごす人々がいて、その全ての人の真上には青い空と強烈な太陽があった。夏の美しい空。
傍らにグローブとボールを置いて、どこまでも続く青い空を飽きもせず
眺めていた。真っ当な暑さを誇示すべくさんさんと降り注ぐ太陽光。日陰にいても十分すぎるほどの汗が流れた。空は不可触だ。この青色に触れれる権利を持つものはいない。だから人は空を見ようとする。その目はしばしば
恋するような強さえ伴う。
「いつだよ」
「そーだな、今から」
「・・・突然すぎるだろ」
「いーじゃねーか海。涼しいぞ」
「どこも変わんねーよ」
「バカおまえ、海はでかいんだ」
「ここも十分でけーだろ」
「比べもんになんねーよ」
どうしても海へ行きたい。隣同士に座る岡田と新庄との間にはとても分かり辛いくらいの距離が置かれていた。人一人が入れるか入れないかという程度のそれを二人はもうずっと
守り続けていた。それを埋める方法は簡単だったけれど難しかった。岡田は夏の空から目を離し、太陽に照らされている新庄を見つめた。年齢よりも大人びている横顔が綺麗だった。
新庄の目は時折ひどく悲しみを映す。その目を見るたびに胸が痛くなった。ずっと傍にいてやりたいと、岡田は何の力も持たないながらも思った。だから一つの季節が
終わることが少し寂しかった。
「行くぞ」
結局今日も分かり辛い距離を保ったまま岡田は突然立ち上がり、そんな彼を見上げた新庄は太陽の眩しさに目を細めた。一体どこへ?聞か
なくても行き先は知っている。海へ行くんだ。こうして二人は着の身着のまま駅へと向かう。
グローブとボールを自転車のカゴに入れ、スタンドを上げ、どちらが何を
言うこともなく新庄が前に乗る。それは岡田の自転車で折りたたみ式だったけれど、購入して以来折りたたんだ記憶が無かったりした。新庄が一般的だと考えている自転車よりもタイヤが小さい。
「いい加減買えよでけーやつ。進まねー」
「おめー買えよ」
「んな金あるか」
「にしても暑ちーな。新庄くたばんなよ」
行きは新庄で帰りは岡田、そんな決まりがいつの間にか生まれていた。ある日二人で自転車に乗るとき、岡田も新庄も俺が前だと
言い張った。岡田は新庄の方がすぐに折れるだろうと思っていたし、新庄は岡田の方がすぐに折れるだろと思っていた。お互いがお互いをちゃんと知っている気でいた。
けれどどちらも引かなかった。つまらない意地を張った彼らはいつの間にか少し喧嘩口調になっていた。本当につまらない意地だった。まさかこんなくだらないことで意見を合わせられない
とは思ってもいなかった。知っている気がしていただけで本当は知らなかったんだ、その事実を手にしたときこそが相手のことを知るときだった。
むっとしている新庄が子どもっぽく見えた岡田は
ふとおかしくなって、じゃあお前が行きで俺が帰り、そんな提案をし、新庄が頷いたその瞬間二人の距離は確かに縮まった。ほんの少しだけ。岡田はこうして
新庄のことを知っていくんだと思った。まだ知らないことはたくさんあった。と言うよりも知らないことの方がどう考えても多くて、岡田は超能力があればいいのに
なんてことを何度か考えてみた。新庄は表現するということが人よりも少なかったし、その仕方もとても上手だとは言えなかった。だから岡田は新庄のことなんて
本当はほとんど知らなかった。
それは金髪や右耳のピアスホール。初めて新庄を見たときにはもう金髪だったしピアスも付いていた。それらの歴史は一体いつ始まったのだろう?黒髪の新庄って
どんなだろう?どんな理由でどんな場所で黒色だったはずの髪は金色に染められたのだろう?疑問はふっと生まれる。誰かの過去に関心を持ったのは初めてのことだった。
「コンビニよってこーぜ」
まるでそれを役目だとでも思っているかのように岡田はことある毎に提案というものを差し出した。この休日を一緒に過ごそうと言い出したのも、
グローブを持って来いと言ったのも、十時に迎えに行くからと言ったのももちろん岡田だった。その提案全てに新庄は頷いた。あんまり素直だから
意思なんて無いんじゃないかと岡田は危惧し、一緒に死のうと言ったら本当に死ぬんじゃないだろうかとさえ考えた。最終的には我ながらなんて馬鹿げた考えだろうと
おかしくなったけれど、新庄はこんな思考をさせるほど具体性に欠けていた。
後ろから新庄の肩を掴んでいるとき、何だかいけないことをしている気分になる。お互いの顔が見えないのが救いのようだ。若菜に肩を組まれたって
、湯舟の頭をかき回したって、桧山のヒゲを引っ張ったってこんな風には思わない。新庄に触れるということは全く違う意味を持っていた。
「お、花火だ」
コンビニは素晴らしいくらいの快適な温度で、ほんの束の間だとしても二人を夏の暑さから守る。その快適な温度を作り出す過程によって青い惑星は
破滅の道へと追いやられていたけれど、十五歳の少年たちにそれを食い止めることが出来る可能性なんてほぼ無かった。理不尽な大人たちは口々に地球の未来を担う
少年少女、そう言ってはたくさんのものを子どもたちに押し付けたがった。
「なあ新庄。昼メシ買ってって海で食おーぜ。あと花火もやるぞ」
岡田が提案し、新庄が頷く。それをまた忠実に繰り返した。岡田は暑さを恐れてお茶は1.5リットルなと付け加えた。コンビニ弁当と大きなお茶と少しのお菓子と安っぽい花火。
それらがいつもと変わらなかったはずの休日を彩り、思いつきで言った海への期待が一気に膨らみ輝き出した。ビニール製の袋がかさかさと鳴る。
見慣れた駅から海へ行く。新庄と海へ。それは紛れもなく特別なことだ。彼は一体どんな目で海を見るだろう?かくして毎日のように利用している駅から二人の乗る
電車が出発した。車内にまで照りつける太陽がまるで海まで導いてくれてるみたいだった。扉に寄り掛かって外の世界を眺める新庄の睫毛が断続的に上下する。岡田はしばらくその様子を観察した。キスをしたくなる瞬間は日常の色んな場面に
あふれている。さて、今ここで唇に唇で触れたら、一体どんな顔を見せてくれるのだろうか?ぼうっと見つめたままいると、突然新庄の不審そうな目が向けられた。
「・・・何笑ってんだよ」
「あ?俺笑ってた?」
「笑ってた。不気味に」
「いやー、美人だよな新庄。ムカツクくれーに」
「ふざけんな」
「ふざけてねーよ」
あっという間に新庄は眉をしかめた。まるで頭のおかしい人でも見るように。そんな目しなくても、なんてことを岡田は思ったけれど、どう見たって男の中の
男である新庄を美人と呼ぶのは実際おかしいんだから仕方がない。
「キスでもするか」
他の乗客に聞こえないよう静かな声を捧げると耳まで真っ赤にした新庄に蹴られた。こちらも他の乗客の注目を引かない程度に。岡田は足癖が悪りーなあと
なんとものん気に言った。キスに対しては頷いてくれなかったけれどそれはちゃんと意思があったからで。新庄が今ここにいるのは他の誰でもなく本人の意思なんだ。
何も言わずに目を閉じられてしまったら、岡田はそれこそ泣きたくなったかも知れない。
窓の向こうの側はゆっくりと流れ、見慣れた景色が通り過ぎ見慣れない景色がやって来る。刻一刻と時間は現在から未来へと動いていた。岡田はその様相に
季節が朽ち果てていく局面を垣間見た気がした。電車は忠実に時間の流れに乗り住み慣れた街から遠ざかって行く。朝が来て夜が来る、夏が始まって夏が終わる、そんな
時間の流れに乗って。誰にも止められない時間の流れ。海にあるのは夏との決別だけかも知れない。目的地じゃないはずの駅に着いたとき、何の脈略もなく岡田は言った。
「やっぱ止めよう」
絶好のタイミングでドアが開いた。海へ行こう、なんてことを言い出したのが嘘のような潔さで岡田は電車から降りた。びっくりしたのは新庄だ。精一杯顔をしかめて
「扉が閉まりますご注意ください」、そのアナウンスに背中を押されるように足を踏み出し、駆け込んで来た乗客とすれ違いざまにぶつかってしまったがとにかく
ドレッドを追った。
「何してんだよ」
「・・・海なんて行くもんじゃねーよ」
「行くっつったのおまえじゃねーか」
「海なんて行かなくても俺たちには愛すべきあの川があんだろ」
「だから言ったの岡田だって」
「まーそーだけど。行きたかった?海」
「別に」
新庄の意思、それはどこにあるんだろう。キャッチボール。花火。海。今日という日に彼は一体どれほどの期待を抱いただろう。岡田は確かめるように新庄を
凝視したけれどこれっぽっちも分からなかった。
「世の中におまえほどの謎はねーな」
「・・・ああ?」
「帰ろーぜ」
今まで適当な交際を続けて来た岡田は、相手が何を考えていたってどうだって良かったし、知りたいなんて少しも思わなかった。面倒臭いことはずっと避けていた。
それなのにこんなにも知りたくていつも新庄を探してる。コンビニ袋がかさかさと鳴っていた。
二人の前に広がるのは海だったはずなのに。やっぱり岡田と新庄はたま川のほとりに座っていた。分かり辛い距離を保ちながら。手を伸ばせば簡単に触れ合える
距離、果たしてそれは近いと形容すべきか否か。埃っぽい場所で二人はコンビニ弁当を平らげた。文明は日進月歩。どこにでもあるコンビニは少年たちの胃袋と味覚を
悠々と満足させてくれた。太陽はゆっくりと目に見えない速さで傾いていって、きっとあと何時間もすれば二人に素晴らしいまでの赤い色を与える。組んだ手のひらを枕に
岡田は寝転がった。
「繋がってんだぜ」
「何が」
「この水だって海によ」
「そりゃそーだけど」
「すげーじゃん俺たち毎日海にいる」
「これのどこが海だよ」
「どっからどー見ても海だっつーの」
海と川との明確な境目なんて誰にも決められない。海になんて行けなくてもここが岡田と新庄の居場所。グローブとボールを持って次の休日もそのまた
次の休日もここへ訪れる。そうすることが彼らの全てでもあるかのように。車、人、水、その他のあらゆるものたちが奏でる音を岡田の耳から取り上げたのは新庄の声だった。
「行きたくなかった」
新庄は水面をぼんやり眺めていた。数秒間何も語らないでいたが、岡田は静かに待った。大人びた横顔を見つめながら彼が次の言葉を生み出してくれるのを信じて
待った。信じるための要素なんて何一つ必要なかった。
「海」
たった一言言うとまた唇の動きを止める。その姿は彼がどれくらい表現を苦手としているかということを岡田が改めて確認出来るほどの材料にさえなった。
「なんつーか・・・遊園地から帰るときの気持ち」
遊園地。岡田は頭の中で繰り返した。遊園地にいる新庄というのもなかなか想像しにくいものだ。思わず笑ってしまう。
「・・・笑ってんじゃねーよコラ」
「いやまさか、新庄の口から遊園地っつー単語が出るとはな」
「せーよバカ」
「・・・でも分かるよ。俺もそんな気分だった」
行くまでは楽しみで、そこへ着いてからは楽しくて、けれど最後に残るのは救いようの無い寂しさだ。遊園地の出口へ向かうとき、振り返るとたまらなく寂しくなる。こんな思いするなら
来なければ良かったんだって泣きたくなる。海へ行ってしまえば後は夏が終わるのを見届けることしか出来ない。終わりを止める手段なんて持っていなかった。
「夏が死ぬ」
悲しいくらいの声色で新庄が言った。彼の言葉にはいつも無駄なものがなかった。だからこそ分かりにくくてだからこそ汚れていない。
それらに託された意味を解き明かすのが岡田の役割で、もう何度も何度も解読に挑み、たくさんの失敗と成功を手にして来た。けれど不器用な言葉は時折、世の中のどんなそれよりも
透明だった。岡田はこんなときこそ何も言えなくなる。新庄の真っ直ぐさに返せる言葉なんてきっと存在しない。だから
守り続けていた分かり辛い距離をありったけの力で消したくなる。偉大な太陽に見守られながら、二人の唇が重なった。
「・・・何してんだよ」
「キス」
悪びれる様子もなく岡田は言い切った。唇に唇がほんの少し触れただけの小さなキス。水面に向けて新庄の目が伏せられた。けれど本当に水の流れを追っているのかなんて
新庄が教えない限り誰にも分からない。必死の思いで想像し、憶測するしかない。万能なんて存在しないから人は空に恋をする。
今その目に映しているものが何なのかを、そして不規則に見せる悲しい目の理由も、新庄はきっと誰にも告げないだろう。その秘密を生涯守り通せるほど新庄は強くて
弱いから。
誰にも打ち明けず生きていく覚悟と誰にも打ち明けられないまま生きていく諦めと。岡田はそれらを分かっていても離れることが出来ない。触れたくても触れられない空みたいに、新庄の中にも永遠に
触れることが出来ない場所がある。永遠に触れない場所。だから岡田は強く強く願いながら新庄の隣に居続ける。
新庄が生涯をかけて守り通していっても、それを暴くのが自分の役目だと知っているから。そういう強さで新庄を思いながら岡田は再び分かり辛い距離を二人の間に作り出した。
「俺将来すげー稼ぐと思うぜ」
「ああ?」
「頭だけは良いから」
「自分で言うかよ」
「いやマジで」
「勝手に稼げ」
「海に別荘買ってやるよ。そんときゃぜってー引き返さねーぞ」
「でけーチャリ買え」
「花火来年の夏までもつかな?」
「んなのそんときになんねーと分かんねーよ」
「そっか。じゃあまた来年だ」
朽ちていく夏の空の下、次の年のこの季節も、またその次の年もずっとずっと新庄と一緒にこの青色を見ていたい。空になんて触れなくても
それが二人の全てだから。ただここに並んでいるだけでいい。空を見上げている横顔を岡田が優しい強さで見つめていると、夏の終わりを忘れてしまえるくらいの激しさで
蝉の美声が一斉に響き渡った。