人々の頭上に静かな闇の気配が降りて来た頃、岡田は盛大に眉を寄せた。
「・・・な、何だって?」
「だから、キスしようって」
新庄は友人の不審げな表情を見ながらあくびを一つ噛み殺した。あくびをした時に涙が出るのは目がびっくりしているからだって
聞いたことを何となく思い出す。それから、涙というものの不思議さに気がついた。涙はどうやって生まれるんだろう?
「キス?」
「キス」
毎日は同じだ。昨日と今日が似たような時間の連続だったのと同じで、今日と明日も例外じゃない。家と学校を往復するだけの一日が
ただ続く。岡田はそんな日常を愛していたし、それはあらゆる場面で自分が持てるものの全てを担っていた。変わらないことへの安心感と親愛に
も似た思いがある。それがあるから笑っていられる。だけどどこかでは全く違う新しい一日を待っていたりする。誰にも気づかれない
ぐらい小さな、そしてありきたりな期待。多くの人が同じような安心感と期待の間を行き来する。その期待を新庄は呆気なくかなえた。
何でもない顔をして、自分が起こした奇跡的な変化に気づきもしないで。まるでこれもまた、変わらない毎日の一部であるかのように。今日も空では星が輝いている。
「嫌なのかよ?」
「や、嫌とかじゃなくてだな」
「じゃあ何なんだ」
新庄は怪訝そうに聞いたが、本当に怪訝だったのは何を隠そういきなりキスをしようだなんて提案を持ちかけられた岡田に決まっていた。
新庄が突飛な発想の持ち主だということぐらいは知っている。どこかの漫画みたいに本気で千本ノックを達成しようとした男だ。けれど
新庄だけじゃない、誰もが唐突におかしな言動をする。岡田自身もそうだった。
ある日突然髪型をドレッドにしてやろうと思い立ったほどなんだから。だから今さら新庄のおかしな提案に驚くつもりはなかった。
ただ、キスというのが想定外だっただけの話だった。
「何で突然キスなの新庄」
「ちょっとな」
「何?罰ゲーム?」
「違う」
「じゃあ何だよ、言えよ」
「先にキス」
「言わねーとやんねーぞ」
「やったら言ってやるよ」
しばし二人は沈黙を守ったが、先に折れたのは岡田の方だった。我慢比べで新庄に勝とうなんて無茶な考えは持っていなかった。
「分かった、とにかくキスをすりゃいいわけだな」
岡田は言った。困惑する理由なんてなかった。新庄は大事な大事な友人だ。家族と過ごすよりも新庄と過ごす時間の方が圧倒的に
多いぐらいに。日常の大半を新庄と過ごす。朝の駅で出会う。夜の駅で別れる。そうやって隣にはずっと新庄がいる。時々友人の域を超え
てしまいそうな感覚さえ生まれる。愛情の存在に気づく。それはきっと、
親が子どもに抱くものに似ている。似ているだけで違うのかもしれない。けれどそれもまた一つの愛情なのだと達観することさえ出来た。
それに女相手じゃあるまいしキスをするぐらいどうってこともなかった。慌てて拒否する方がおかしい気がした。
闇の中に溶けていきそうな二つの黒い学ランはその動きを
ほぼ同時に止めた。それから二人はお互いの顔を、キスをすること前提で見つめあった。新庄がキスをするということの相手に岡田を
選んだのには幾つかの理由があった。その一つが岡田ならキスぐらいしてもいいと思えたからだった。
岡田は優しい。岡田は温かい。
そんな岡田の隣にいることが大好きだった。新庄は岡田の優しさや温かさが自分の前でずっと特別になることを良く知っていたし、誰かに
とっての岡田の冷たさも皮肉も嫌味も何もかもを承知していた。もうそれぐらいの日々を重ねていた。とても愛しかった。
岡田はなかなか行動しなかった。こんなにも間近に新庄の顔をじっくりと観察する機会はいままでなかっただろう。つくづく派手な顔を
しているなと感心していた。金色の髪と黒い髪。凛々しい眉毛と羨ましいほどに男らしい目。ちょうど良い大きさの鼻とぷっくりとふくらんだ
唇。この男らしい目はときどき子どもっぽくなってわがままを訴える。この唇が生み出す声の形の優しさに全てを任せてしまいたくなる
ことだってある。新庄とキスをするなんてひどく不思議な気分だったけれど、どうしても嫌だとは思えなかった。
「早くキス、岡田」
動かないままの友人を訝ったのか新庄は微妙に首を傾げて言った。夜にキスをねだる、金髪の少年。少年の目は自分を信じきっている。
だからこそそんなに無邪気なままの眼差しをして男相手にキスをねだる。岡田は思わず微笑んでしまいそうになった。
新庄の前にいる時の優しさには自分でも不思議になるぐらい限りがなかった。まるで魔法にでもかけられた気分になる。どうにか口元を
引き締めてから、一つ二つ注文をつける。
「ちょっとかがんで。それから目ぐらい閉じろって」
「んな本格的にする気かよ」
「違うの?」
「ほんの一瞬で十分」
「それにしても目は閉じろよ」
「ふうん、分かった」
その目がそっと閉じられるのを見守った岡田はまるで大切な宝物でも扱うかのような優しい動きで新庄の唇に自分のそれを重ねた。本来なら
ば触れることなどあり得ない友人の唇を生身に感じる。やはり想像していた通り嫌な気持ちにはならなかった。男相手にするキスを
嫌だと思えないこと、それはもしかすると異常なことなのかもしれない。それならそれで良かった。人間はいつだって、どこか異常だ。
そのままの状態で数秒が流れた。新庄は待ったけれど岡田の唇は一向に離れて行きそうになかった。だから目を開けてみたら、岡田と
目が合った。岡田が目を開けていたのか、それとも同時に目を開けたのかは分からなかった。特にこれと言った理由はなかったが、新庄は
もう一度目を閉じてただ触れ合っていただけの岡田の下唇を何となく口の中に含んでみた。岡田は角度を変えて舌を差し込んだ。
新庄は瞬間びっくりした。それも束の間、相手の動きを真似てあらゆる全てに応えた。
誰も知らない信頼で成り立つキスを行う。恋という感情を伴わない簡単な行為。そこから生じる心地良い緊張感、安堵感、0cmの距離、
親愛、秘め事である密度。それ以外は必要としない自信。それらは全て、そう思い込めるだけの力で、誇りで。
ほんの一瞬だけのキスだったはずがとうてい一瞬だとは
言えないキスになっていた。しかし長い目で見ればそれもまた、一瞬だと表現し得るのかもしれない。
「一瞬でいいっつったろ」
「・・・おま、どの口が言うんだよ。最初にやったのはどこのどいつだ」
「俺じゃねーのは確かだな」
岡田は口を開きかけたけれど遂には口をつぐんだ。新庄の言うとおり、一般的に言うところの一瞬が経過しても唇を離さなかったのは
自分の方だった。二つの学ランは再びいつもと似たような速さで動き出した。
「それで?」
「あ?」
「何だったわけ?」
「ああ、別に、ちょっと」
「コラ、やったら言うんじゃなかったのかよ」
新庄はしらじらしく空なんかを見上げたりした。暗闇を辛うじて照らし出す摩天楼のぼやけた灯り。街並みに溶け込んだとりとめのない
街灯。
それでも鉄塔は闇に同化するように真上に伸びる。それはいつもの街、自分たちが生きる街。思い出、夢、日常。
「聞きてえ?」
「聞きたい」
「誰にも言わねーって約束しろ」
「分かった約束する」
「実は・・・キスされたんだ」
「はあ?」
「キスされた」
やけに恥ずかしそうに新庄が言う。岡田はきょとんとそれを聞いた。キスをされた、それがどうなればさっきのキスに繋がる
んだろう?
「相手は?どこの女?」
「それが・・・女じゃねーんだ」
「女じゃねえって新庄・・・どういうこと?」
「・・・完全な男ってこと」
岡田はこれでもかとばかりに目を見開いた。高校生にしては比較的経験豊富である岡田だが、まさか男にまでキスをされたことはない。男同士のキス
は新庄と今さっきしたのが正真正銘初めてだった。ある意味ファーストキスなんじゃないかな。岡田はそんなことを思った。
「新庄それ・・・マジ?」
岡田が言うと、冬という季節のせいでもともと少し赤みがかっていた新庄のほほは更にその色を鮮明にさせた。ばちばちと音を鳴らす街灯に
照らされる。あんなキスは堂々とするくせにこんなところで赤くなるなんてのは、まだ何も知らない子どもみたいだなと岡田は思った。
そうこうしている内に二人は無事駅に着いた。自分たちと同じような学生や、サラリーマン、OL。それぞれの出発と到着が存在する、
いつもの駅前。新庄と岡田もここに偶然い合せた大勢の中の一部に過ぎない。この少年たちがつい今しがた熱いキスを交わしたなんて、
誰も知るはずがないだろう。岡田は販売機で切符を買った。
「まだ定期買ってねーのかよ」
「面倒だからまた今度」
「そればっかり」
改札機をおのおの通り抜け、階段を上がり、しばらく地表と別れる。その一連の流れが二人の体に染みついた習慣だった。毎日それを
だた、繰り返す。
「それで?一体誰なんだよその男」
「だ、誰って・・・」
「俺知ってる奴?」
「・・・たぶん・・・知ってる・・・と思う」
「すげー気になんだけど。・・・うちの学校か?」
「そ、そんなことどうだっていいだろ」
新庄はもごもごと言った。岡田は思わず微笑んでしまったけれど、俯いている新庄がそれに気づくことはなかった。
「よかねーと思うぜ。何一つ解決してねーんだから。何で俺とキスだったわけ?や、それよりまずその男ってのが誰なのかが先かな」
下唇を突き出した新庄が岡田を睨みつけた。しかし、この状況では怒っていると言うよりは拗ねていると表現した方が正しいのかも
しれない。
「ほら、早く言ってみ」
「あ、」
「あ?」
「あ・・・」
「・・・あ?あがつく奴?」
新庄は黙ったままこくりと頷いた。あ、ともう一度発音して、岡田は咄嗟に閃いた名前を口した。
「まさか安仁屋とか言うなよ」
「ちっげーよバカ。・・・ああ、けどあいつにもされたことある。すっかり忘れてた」
突然そんなことを告白されて岡田はえらく驚いた。友人同士がキスをしていたなんて、何とも奇妙な話である。そんなことをこうも
さらっと言わないで欲しいものだ。岡田は気を取り直してもう一度考えることに専念した。
「・・・他にあがついて俺が知ってる奴っつったら」
考えながら新庄を見やると、居心地が悪そうに顔を逸らされた。岡田は金髪の後頭部を見ながらなおも考えた。それでもあがつく名前
なんて思い浮かばなかった。
「ぜんっぜん分かんねー、降参」
白旗が揚がったところで二人が乗る電車がホームに滑り込んだ。扉が開いて車内に足を踏み入れる。彼らはどこにいても目立った。岡田
が言うように確かに新庄は派手だったし、岡田のドレッド頭だって思う存分周りの目を引きつけた。だけど自分たちがどれぐらい注目されて
いるのかなんてこと、本人たちは全く気にしちゃいなかった。乗り込んだときとは反対側の扉の前で落ち着き、岡田は早速とばかりに
本題に入った。
「誰なの?」
「・・・言うけど、驚くなよ」
「分かった驚かねーよ」
キスをしようなんてことを言われたぐらいなんだから、今さら何に驚くと言うのだろう。岡田は新庄の口が開くのを静かに待った。
今から聞かされる名前なんて知る由もなかった。
「・・・赤星」
新庄が言った。岡田は限界まで目を丸くした。赤星!そう叫びそうになったが一歩手前でこらえることに成功した。驚くなと言ったのは自分だったけれど、岡田が絶叫し
しなかったことに新庄は驚いた。この状況で赤星という名前ほど絶大な威力を持つものはないことぐらい承知の上である。そうだと
言うのに声を上げなかった友人に関心さえした新庄だった。
「あ、赤星・・・赤星って名前、二人知ってんだけど」
「あ、確か二人いたな・・・」
「・・・どっちだ?」
「・・・どっちもくそもあるか」
むっつりと吐き捨てられ皆まで聞かなくとも分かってしまった。誰があの赤星の方だと思うだろう。それならまだいかにも
大人しそうで平和らしいあっちの赤星の方が救いようがあるってものだっただろうに。しかしあの赤星なのだ。新庄の顔を見れば分かってしまう。
出来るなら分かりたくなかったが、分かってしまったのだ。世の中って分からない。岡田はつくづくそう思った。
あの死んだ魚ような目をしている赤星に恋愛感情なんていうものが備わっていたなんて。しかもその相手が新庄だったなんて!
世界とははそうやって、自分の知らないところでもちゃんと回っているんだ。うかうかしていると世の中のスピードに置いてけぼりを
くらってしまう。
「・・・しかしまあそれにしても、何で俺とキス?」
「分かんなかったから」
「分かんなかった?」
「キスなんかされたって男同士だし。分かんねーだろ、何か。だからどんなもんかと思って」
「男同士ねえ・・・。別に俺じゃなくても安仁屋だったら喜んでやってくれたんじゃねーか?」
「バッカ、俺にだって選ぶ権利っつーもんがあるだろうが」
選ぶ権利、なるほど。新庄が安仁屋を選ばなかった理由は何となく分かった。岡田は数いる人間の中から選出されたわけだ。にやけ
そうになった口元を岡田は慌てて引き締めた。正直な話、選ばれるということは喜びだ。その相手の中に自分の居場所があるのだから、
新庄の中に確かな自分がいるのだから。喜びとは案外身近にあって、それだけでその日一日が満たされる。
内心得意気な岡田を知ってか知らずか、新庄は続けざまに口を開いた。
「実は御子柴と川藤も考えたんだよな」
「・・・あら、そうなの。にしてもその堅実そうな候補の中から俺が選ばれた理由が分かんねーな」
「そりゃだって、御子柴と川藤は真面目だから」
新庄はそれだけの理由で全てがまかり通るとでも思っているかのように言い放った。時に人はたった一言で誰かのことを言いくくってしまう
ことがある。相手が新庄じゃなければ何て傲慢な人間だと文句の一つでも吐いてやりたくなっただろう。岡田はそういう人間が嫌いだった。
けれど目の前にいるのは新庄慶だったのだ。だから、岡田は何の疑問も持たずに納得した。どうして新庄が言う言葉なら
素直に聞くことが出来るんだろう。そこには新庄特有の何かがある気がした。
新庄だから、少しも引っかかることなく頭に入っていく言葉。新庄慶だから。それだけで十分だった。
「つうかよ、安仁屋としたことは忘れてたんだろ?」
「ああ、すっかり」
「じゃあ赤星とやったことだってすぐに忘れるよ」
「・・・何つーかな・・・安仁屋と赤星じゃ全然違ってた」
「違ってたって?」
新庄は窓の外に目をやった。窓は車内を反射していて、それでも目を凝らせば流れる景色を見ることが出来る。
「安仁屋とはふざけてやっただけ。別に湯舟でも若菜でもその気になりゃキスぐれー出来る気がする。けど赤星のキスはそんなんじゃな
かった。全然違う。あいつすげー辛そうだった。キスする前もキスした後も。自分からして
きたくせに泣きそうな顔してやがったんだ。・・・あんな顔されたら忘れられるわけなんてねえ」
一気にそこまで話した後、新庄は思い出しただけでもむかつく、と付け加えた。岡田は思わず小さく笑った。「何だよ」と睨まれて
「いいや」と返す。新庄のこういう幼さは人の心にとてもよく響く。汚れていない部分。ほとんどの人たちが早い内に失ってしまう部分。
物事をただストレートに判断する。きっと赤星の気持ちなんて知ったことじゃないだろうし、だからと言って見てみぬふりをするわけでも
ないだろう。ただむかつく、なんて単純明快なのだろう。新庄のその幼さを誰にも奪って欲しくなかった。あるいはまた、誰にも奪うこと
など出来ないだろうとも思う。たとえば夜の都会の空の上で輝く星のように一途な強さで。
「結局、俺とキスして何か分かったの?」
岡田がそう訊ねると金髪が振り返る。そのまま数秒間岡田を見ていたけれど新庄はゆっくりと口を開いた。
「・・・何も分かんねー。けど岡田じゃなきゃダメだった気がする。けどやっぱ、何も分かんねえ」
「そっか」
岡田は優しく微笑んだ。笑顔はいつだって、自然とうまれてくるもの。岡田の表情に安心したのか、それともつられてしまったのか、
新庄もまた屈託の無い笑みをたたえた。丁度そんな時車内アナウンスは新庄が降りるべき駅の名前を告げた。
「明日の一時間目って体育だったよな」
「またサッカー?」
「そうだろ多分」
同時に肩をすぼめるとドアが開いた。バイバイ、おやすみ。昨日と全く同じ挨拶を交わした。
明日もまた変わらないという希望。今日があるという心強さ。昨日が今日を繋げたという重み。
毎日交わすその言葉はお互いの心を強くするだけの切なさでもって、次の新しい朝まで二人のことをきっと
守ってくれる。本当の闇の帳が日本中を包んでしまっても。目を閉じて訪れた静けさに出会ってしまっても。その言葉と声の確かさが
、きっと。
岡田は一人になった車内を見渡してみた。たくさんの人がいる。新庄がいなくなった後の電車はいつも寂しい。
がたごとと揺れる音だけが聴覚を満たす。キスをしたこととか新庄の告白とか、それら全てが夢だったんじゃないだろうかとさえ
思った。岡田は自分の唇に触れて思い出した。確かに触れ合った、夢なんかじゃなかった。新庄の記憶から消せないキスを植えつけた
赤星に嫉妬してしまう。どんなに時が流れてしまっても記憶が滅びる確証は薄い。だけどあの長いようで短かった一瞬、あれは新庄に
とって友情の証だったキス。それは岡田にとって、この日常を普遍的に支え続けてくれる信頼だった。窓の外に目を凝らすと
二人で築き上げた夜があった。