「やべえ、腹減って死にそう」
 5時間目の休み時間、お決まりの言葉。お昼休み、体内にどれだけ食べ物を詰め込んでも空腹は必ず育ち盛りの少年たちに容赦なく襲い掛かった。その誕生から幾百万年経った今もなお、人類は空腹感と共に生きるしかなかったのである。少し離れた場所で友人と談笑している塔子を除く野球部員たちはただひたすら飢餓感に耐えた。そんな緊迫した空気の中、突然「あ、」と声を上げたのは岡田だった。
「おにぎり一個余ってんだった」
 それを聞いた瞬間部員たちの目は点になり、次の瞬間その目はまるでサバンナの弱肉強食社会で生きている獣のそれと化した。そんな猛獣たちを尻目に岡田はかばんの中のコンビニ袋から確かにおにぎりを出して追い討ちとなる一言を放った。
「お、しかもエビマヨ」
 この空腹時にはお米というだけで魅力的だったのだが、その中身がエビマヨとなると味覚的にもクオリティの高さに申し分なかった。他の部員たちが生唾を飲んでエビマヨ味のおにぎりに目を釘付けにされている最中、岡田はおもむろにそれを開封し、口へと運んだ。それから一口、また一口と食べ進め、丁度半分ほどになったところで何とそのおにぎりをさらりとまるで初めからそう決まっていたかのように差し出したのだった。
「ほら、半分こ」
 今をもってすればどんな高級料理なんかよりも価値のあるエビマヨのおにぎりがこうも簡単に譲渡されたのは他の誰でもなく新庄だった。彼は突如として目の前に現れたおにぎりに激しく胸をときめかせた。しかし新庄と同じように最悪の飢餓状態にあるにもかかわらず、岡田の行為の不公平さに不満を訴える部員は誰一人としていなかった。こういう光景に彼らはもうずい分と慣れ親しんでしまったのだった。 その不公平さを理不尽と銘打ち非難する無意味さを彼らは日常の中で嫌というほど学んだのだ。羨望の眼差しに気づかないぐらい手の中の物体に見惚れる新庄は親友の行為に心から感動し、その深い優しさと食べ物のありがたみと一緒におにぎりを噛み締めた。おにぎり一つがこんなにまでおいしいことを彼は正真正銘たった今初めて思い知った。
「ねえ塔子」
 ひっそりと声を出したのは、塔子の友人の一人だった。友人は秘密事項でも扱うみたいに身をかがめながら言う。
「あたし今見てたんだけど、いつもあんたとこの部員たちってこの時間お腹すかして死にそうになってるじゃない?」
 塔子は友人の慎重さを怪訝に思いながらも何故か同じように体を小さくさせた。
「うん、そうだけど、どうしたのよ?」
「それが今よ、岡田くんがおにぎり一つ持ってたわけ、それがエビマヨらしいんだけどね、で、それを半分食べて、残りの半分をどうしたと思う?」
「さあ、どうしたの?」
「新庄くんにあげたのよ」
「うん、それで?」
「それが、誰も文句の一つも言わなかったの」
 塔子は目をぱちくりとさせる。その無言に促された友人はこう続けた。
「だってあんた、野球部なんてみんなジャイアンみたいなもんでしょ?いくら更生したっつったて、野球部は野球部よ、そう本質から変わる人間なんているわけないわ、そんな人間がいたらただの中身のないバカよ。だから要するに、その俺のものは俺のもの、おまえのものも俺のもの、とか平気で言いそうな野球部が何だって黙って岡田くんの行動を見逃したのかってことなのよ」
 その乱暴な理屈に半分呆れ、しかし半分は納得せざるを得なかった塔子は複雑な表情を呈した。ある意味ではこの友人の観察力はすばらしかった。そう単純に本質から変わってしまえば、確かに元々中身なんてすっからかんの人間だと言えるのかもしれない。
「うふふ、そうね、ジャイアンとはよく言ったものね」
「でしょう?じゃあどうしてだって言うわけ?」
「それはねえ、簡単に言っちゃえば、おにぎりをもらったのが新庄くんだったからだわ」
「どういう意味なの?」
 塔子がにこやかに説明を始めようとしたところで、また別の友人が突然割って入った。
「分かった、そういうことね」
「何よ、何が分かったの?」
 疑問を提議した彼女が不思議そうに首を傾げる。
「岡田くんの新庄くん贔屓でしょ、塔子」
「うふ、正解」
「ええ、何それ、新庄くん贔屓?」
 初めて聞いた言葉の羅列に友人は興味を持ったらしい。そんな彼女に塔子ではなく首を突っ込んで来た友人が得意そうに話し始めた。
「岡田くんの新庄くん贔屓よ、知らないのねこの子ったら呆れた子。岡田くんといえば何かにつけて新庄くんを優先するじゃない。そりゃもうすごいんだから。あたしが知ってるのはCDの貸し借りとかかしらね。岡田くんてば、他の誰かにCDを貸すときなんかは大切に扱えだとかって神経質になるくせに、新庄くんに貸したCDのケースが割れて返って来たときには何の請求も苦情もしなかったぐらいなのよ。にしてもああいう生命の危機に繋がる場面でさえ新庄くんを最優先に考えるのね、ああ、末恐ろしいこと!もし大地震とか、テロとか、そういうのが起きたとき、あたしと岡田くんと新庄くんが同じ場所で生き延びなきゃなんないなんて状況になったら、岡田くんは女のあたしなんか放って新庄くんの生存を一番に考えるわけでしょ?それってつまり、真っ先にあたしが死んじゃうってことじゃないの!」
 塔子は友人の想像力に驚きつつも確かに岡田の優先順位としてはそうなることはまず間違いないだろうと思った。自分を犠牲にしてまでか弱い女性を守り抜く、そんな映画のヒーローのようにはいかないことは請け合いだった。元来彼は男尊女卑主義者なのか、はたまた男女平等主義者なのかさえ分からないような接し方をしてくるぐらいだ。
「それにしても最近、輪をかけてひどくなったんじゃない?」
 類稀なる想像力を発揮してみせた友人がそう呟いた表情の深刻さと同じ次元に立てなかった塔子は「そう?」とだけ返した。塔子もすっかり岡田のやり方に慣れていた。そうあってこその日常だと。


 新庄を夕食に誘ったのは確かだったが、安仁屋と塔子までついてくるのは予想外だった。と言っても岡田の性格上誰がついて来ようと気にもしなかったのだけれど。彼はそこに誰がいようといつも通り行動した。新庄の苦手な酢豚のピーマンを代わりに食べてやり、新庄の好物のラーメンのチャーシューを惜しみなく分けてやった。そして彼は食事をとることよりも、新庄がそれをおいしそうに食べる姿を見ることにこそ重点を置いた。
 塔子が友人の話を思い出したのはお会計のときだった。狭苦しいラーメン屋の一番スペースの限られたレジ前で新庄の食事代が、何の躊躇いもなくごく当然のことであるかのように岡田の財布から支出されたのだ。しかも今日初めてという素振りとは到底解釈出来ず、来る日も来る日もこうやって来たのだという歴史的基盤があるみたいな当然さがそこにはっきりと見て取れた。正直言ってまさか岡田がここまで新庄の面倒を見ているとは思っていなかった。分かりきってはいるが、物は試しに言ってみた。
「岡田くん、あたしもおごり?」
 岡田は一瞬後、にっこりと微笑んで「ん?何で?」と言い放った。塔子も同じぐらい穏やかに微笑み「ほんの冗談よ」とくれてやった。二人の遣り取りをぼんやり見ていた安仁屋の「おい、俺は?」という言葉には「問題外」という簡潔な返事か優しそうな声に乗って贈られた。新庄は壁に貼ってあるデザートメニューを眺めながら―――「吐きそう」と零すほど食べたにもかかわらず―――すっかり自分の世界に浸っているらしく、てんで今あった会話など耳に入っちゃいないようだった。魔性とか小悪魔とか、それらは無力な人間たちがどうにかこのわけの分からない金髪の男を把握しようという情熱から作り上げられた用語なのかもしれない。と、塔子は妙に納得したりした。


 朝、あらゆる全てに光が与えられる。木々の葉が、川の水面が、人々の目が、まっさらな輝きに満ちている。そんな駅から学校までの道のりの中に塔子はドレッド頭を見つけ出した。
「おはよう、岡田くん」
 岡田はおっとりと振り向き「おはよう」と言った。安仁屋も続いて何かを口にしたが、欠伸のついでにしか過ぎなかったそれは大した意味を成さなかった。
「新庄くんは?」
 恒例の挨拶を終えるが早いか、塔子は真っ先にそう聞いた。
「ああ、ちょっと」
 岡田の返答に、塔子は自分が部外者以外の何ものでもないんだという気持ちになった。だけど実際岡田と新庄の間にどんなことが起こりどんな時間が流れているのかなんて分かるはずもないってことに突然気がついてしまった。少し悔しかった。それからわざわざ思わせぶりに隠す必要なんてあるのだろうかとドレッド頭の男をうさんくさくも思った。
「へえ、あらそう、ずい分と秘密主義だこと」
「や、別に秘密ってわけじゃねーんだけど」
「あらあら、あらそう、今のが秘密じゃないってわけ?あーらそう。ま、別にあたしだって聞きたくもないけどね」
 塔子の嫌味ったらしさに岡田は観念し分かりやすく説明してやった。朝っぱらから面倒はごめんである。
「何でも妹のことで午前中は用事があるそうな」
「まあ、妹の?」
 果たして一瞬前の不機嫌さはどこへ行ったのだろうか、塔子がいきなり声を弾ませる。
「新庄くんってお兄ちゃんなのねえ」
 お兄ちゃん、という役割を遂行している新庄を想像してみた。妹と手を繋ぐ新庄、妹の頭を撫でる新庄、妹を抱きしめる新庄。どれもこれも塔子の知っている新庄とはまるで別人だ。学校には学校の、外には外の新庄慶がいるということの不思議さ。
「お兄ちゃんな新庄くんって何だか信じられない。やっぱり掴み所がないんだわ」
 塔子が楽しそうに言った。
「掴み所?何の話だ?」
 安仁屋が怪訝そうに眉を寄せた。
「そこがあいつの良いところだろ」
 岡田が達観したような目をして言った。塔子は相手に分からない程度に驚いた。岡田の誇らしい声色は、まるで自慢でもするみたいな。
「岡田くんったら保護者みたいなこと言うのね。しかもずい分と過保護だわ」
「そう?」
 全く褒めたつもりなどなかったのが、相手にとっては褒め言葉だったということを塔子は岡田の表情を見るなり悟った。
「そんなに好き?」
 ただ何となく聞いてみたのだけれど、それには十分すぎるほどの答えが返って来てしまった。
「あれを好きにならねーやつなんかこの世にいんの?」
 塔子はある意味感心しきった、こんなとてつもなく馬鹿らしいことをよくもまあこうはっきり言ってしまえるものだと。思い込みは人類が得た一つの能力かもしれない。
「あれ?何か俺おかしなこと言った?」
 そう不思議そうに言った岡田の口調が妙に白々しく聞こえた。まるで自分だけが新庄慶の魅力を知っているのだと暗に示してくるような白々しさ。まんまとしてやられた気分だ。しかし気丈な塔子は女性らしい上品な笑みをたたえて答える。
「ううん、あたしも同じようなこと思ってるわ」
「そっか」
 塔子の内心になどこれっぽっちも関心のなさそうな平然とした態度で岡田が応える。安仁屋には一体彼らが何の話をしているのか、主語が何であるのか、一向に分からなかった。
「けどおまえもまあよくやるよな」
「ん?」
「新庄のメシ代。いつもおまえが払ってんのかよ」
「いつもっつう訳でもねーけど、まあたまにはな。あいつ貧乏学生だし」
「いくら貧乏だからってあんな大食いの面倒見てたらおめーの方が破産すんぜ」
「ははは、大丈夫、うち金持ちだからあいつ一人ぐらい余裕で食わして行ける」
 岡田はからからと笑いながら言った。その屈託のなさに安仁屋は少々恐ろしくなった。生粋の庶民である安仁屋には金持ちの感覚というものが時々不気味にさえ感じられた。
「まあ・・・あんまな、貢ぐのもほどほどにしとけよ」
 安仁屋は岡田に同情した。偶然金持ちの名家に生まれてしまったばっかりに、普通の金銭感覚を知らずに育ってしまった友人。きっとその将来には破滅が待ち受けているに違いない。散々貢いだ挙句、消費者金融に金を借り、借金まみれになってしまうのだ。何て哀れな友人なんだろう!
「貢ぐねえ」
 岡田は安仁屋が何か重大な勘違いをしていると気づいたが、否定するのも面倒だったの放置することにした。確かに事実上貢いでいると言われればそうなのかもしれないし。
「持ってるもん全部あげたくなるんだよなあ」
 そんな呟きに、安仁屋は本格的に友人を心配しなければならなくなった。まさか岡田が貢ぐ男だったとは驚きである。世間的にそれがどれだけ馬鹿げた行為であるのかを早いところ知らせてやりたいが、何をどう言ってあげればいいのやら分からなかった。だけど、何か言ってやらなければ。という無意味な使命感が空回る。
「び、貧乏人を憐れむなんて、さすが金持ちじゃねーか。そうだよな、別に貢ぐとか、んなんじゃねえわな、うんうん」
 岡田は安仁屋の顔をぼんやりと見た。憐れむ。彼はその単語と新庄とをどうしても結びつけることが出来なかった。それならまだ、つい今しがた安仁屋が自分に向けた哀れみの方がよっぽど憐れみらしいだろう。岡田はただ、自分の周りに溢れている何の価値もない金品が、新庄に与えることによって生まれ変わることを知っていただけだった。新庄によって全く新たなる価値がそこに生み出されるということ。エビマヨのおにぎりだってラーメンだって、自分が食べるよりも新庄が食べた方が何百倍もおいしいものになるに違いなかった。音楽も映画も文章も、自分の側に置いておくくらいなら、新庄に与えた方がずっとずっと本来の価値を見出されるに違いなかった。それどころか本当だったら、一から十まで全ての面倒を見たいぐらいだった。そうすることで生み出される自分の存在価値は想像を遥かに超えてくれることだろう。本当に憐れなのは貧乏人の新庄じゃなくて金持ちの自分だ。全てを持ちすぎて、だからこそ何一つとして持っていない。でも、たとえ貧乏人として生まれていたとしても、新庄の顔を見たらやっぱり何から何までやってやりたくなっただろうし、死ぬほど甘やかしてやったことだろう。ただ自分がそうしたいから。それが喜びにつながり、自分一人では到底出会えないほどの幸せを生むのだから。
「ま、あんま甘やかしすぎんなよ」
 それは無理な話だなあ。と内心で思いながら岡田は苦笑した。
「あたしも遅刻しようかしら・・・」
 突然塔子がぼやくように言った。安仁屋は友人に驚いた矢先に幼馴染にまで驚かなければならなかった。もしかすると自分の周りには変人しかいないのかも。という不安に陥った。
「はっ?遅刻どころかもう着くっつうの」
 そりゃまあ、もう学校は視界に入っている距離にあった。塔子は幼馴染の怪訝そうな視線に反応する労力さえ奮い起こせないほど一気につまらなくなってしまった。学校は毎日楽しい場所だが、新庄慶のいない学校なんてただつまらないだけだった。朝の眩しいはずの景色さえも先ほどの輝きを失っている気がした。


 少し前までなら部活の後でも空の明るさは完全だった。いつの間にか日が傾くのも早くなり、すっかり夜の姿に変貌した街を歩く新庄の金髪を眺めながら、もしかすると自分はこの男を恋人にしたいのかもしれない、と岡田は考えたてみた。考えてみて、そこに何の不自然さもないことに少しびっくりした。自分がこんなに、何の迷いもなく誰かのことを好きになれる人間だとは思ってもいなかった。この新庄慶というたった一人の男のちっぽけな力が自分のことをまんまと変え果てたのかもしれない。
「寿司なんて久しぶり」
 一人の人間の生き方を変えてみせるぐらいの奇跡を起こした男は何とも呑気なこと呟いた。自分はあり得ない奇跡を目の当たりにしたというのに、相手には寿司ぐらいしか与えてやれないのだと思うと男として何ともいたたまれない気持ちになった。それでもやっぱり新庄は「まぐろは最高だな」とかなんとか呑気に感想を呟いていた。
「毎日食わせてやろうか?おまえがそう望むんだったら」
 たったそれだけのことで奇跡に匹敵するぐらいの何かを起こせるとはまさか思わないけど、自分に出来ることがあまりにも少なすぎるからこそどんな小さなことでも何かをしてやりたかった。何もしてやれないことを分かっているからこそ探した。一日の場面の中に、さり気ない瞬間の中に。
「バッカ、寿司なんてもんはたまに食うからうまいんだろが」
 そう言われて岡田はようやく自分の提案のずさんさに気がついた。毎日まいちに同じものを食べてたら、きっといつかおいしいとさえ感じなくなるのだろう。新庄と会話をしているといつもこんな風にはっとする。それはバカみたいにつまらないことでもあったし、涙が出そうなほど切ない思いを呼び起こすことでもあった。新庄といると何でもない小さな会話を途方もなく大切に扱いたくなる。
「・・・確かにそうだな。おまえには敵わねーわ」
「あ?何言ってんだ?」
 何も分かっていない無邪気な顔。それを見るたびその可愛さにたまらなくなったし、分かってくれないことに寂しさも感じた。
「・・・おまえ、変な奴にほいほいついて行くんじゃねーぞ」
「変な奴?」
「俺じゃない奴」
 あまりにも無邪気で、あまりにも純粋で、あまりにも愛しくて。岡田はいつも不安になる。
「世の中にはおまえが想像出来ねーぐらいの悪人がいるんだからな」
「そりゃ一体どんな奴だよ」
「どんな奴ってだなおまえ・・・口では言えねーようなことを平気でやるような奴だよ」
 話を始めた岡田が口ごもる始末で新庄にいまいち伝わっていない様子だ。悪い奴、たとえば自分から新庄を奪っていくような。
「とにかくただでさえ物騒な世の中なんだ」
「そんな奴が俺の前に現れやがったらぶっ殺してやるよ」
 岡田の不安を他所に新庄はいかにも不敵っぽく笑う。その表情があんまり魅力的で、やっぱり岡田は不安になった。この男が一人じゃ何も出来ないような人間だったらどれだけ楽だっただろうと思う。周囲に壁を作ってやり、そこに閉じ込めて、ただそれだけで全てが上手く行ったはずだ。だけど新庄の場合そんなことをしたところでその壁を彼自らぶち壊すだけだ。誰にも、彼をどこかへ閉じ込めておくことなんて出来やしないのだ。いつだって、どんな時だって、この世界の中で生きていく強さを持っているから。大きな、真っ白い羽でも隠しているのかもしれない。いつかこんなちっぽけな世界を捨てて誰の手も届かない桃源郷へ飛び立って行くんじゃないだろうか。そういう不安。
「じゃあ次は何食いたい?何が欲しい?」
 高島屋前の信号が赤になった。二人は足を止めた。昼夜を問わず、一体どこから来てどこへやって行くのか想像もつかない大量の車が左右に行き交った。
「つうか当分やめとく。最近岡田におごってもらってばっかりだから」
 新庄の優しさはいつも岡田を少しだけ傷つけた。せっかくの数少ないしてやれることを拒否されたらもうどうすることも出来ないのだ。
「よし、すき焼きでも食いに行くか」
「人の話聞いちゃいねーな。やめとくっつったろ」
「聞いてるよ、ちゃんと。けど俺はおまえと行きてーんだよな。俺がおまえと行きたいっつってんだからつき合ってくれても良いんじゃねえの?」
「む・・・」
 新庄が考え込んでいる最中に信号が青になった。金髪はまた歩き始めた。岡田の足もまた歩くという使命を与えられた。横断歩道を渡り、レンタルショップの前を通り、駅に着いてホームに入った。その間に話はうやむやになった。
 このまま結婚でも出来たらいいのに、と突然お告げでも下ったかのように思い立った。結婚して、四六時中一緒にいて、そうすればこの思いのほんのごく一部ぐらい伝わるかもしれない。どれだけ説明しようとしても言葉ではどうしたって表現しきれない、行き場のないほどの思いが。伝えることは難しい。他人との関わりにろくに真剣になろうとしなかった岡田は新庄と接することで本物の繋がりを形成することの難しさに辿り着いた。救いを求めるように窓の外を眺めてみたけど、星さえ満足に見つけられなかった。それでも無意味に目を凝らしてみたりする。
「しょうがねー、作るか」
 いつもの電車がいつもの駅に着く少し前に突然気紛れみたいに新庄が言った。岡田は初め何の話だか分からなかった。これだけの時間が経って、もうとっくに忘れられてるんだろうと思っていた。何だって気紛れなんだ。結局そういうところに惚れてしまったのだ。新庄といるとき何かを諦めるのも期待するのも岡田の方だった。そして新庄は期待を遥かに上回る、逆に相手を驚かせるようなことをさらりとやってのけた。
「・・・マジで?」
 嬉しさのあまり半分茫然としている岡田を見て何だってこれぐらいのことでそこまで喜ぶのだろうかと新庄は不思議になった。思えば岡田のやること全部が不思議だった。甘くて溶けそうなぐらいの優しさとか。いつだって隣にいてくれる頼もしさとか。彼がその答えに行き着くまでにはまだ長い時間が掛かりそうだった。
「食いたいんだろ、すき焼き」
「食いたい。けど新庄の作ったやつの方がもっと食いたい」
「じゃあとっておきの作ってやる」
 実は新庄って魔法使いなのかもしれない。岡田は時々そんなくだらない疑問をつい持ちたくなった。さっきまでのもどかしさを、じれったい切なさを、こんなにも呆気なく新しい思いでもって浄化していく。いつだって誰にでも平等に幸せを与える。新庄慶が新庄慶として生きてきたことによって身についた不思議な力。その力を独り占めしようとすることの無謀さ、到底独り占めなんて出来ない諦め。だけど、と岡田は思う。
 ひっそりと胸の奥にある、自分だけのものにしたいという愚かなまでの強い願いが叶う日を夢見るぐらい許されるだろうか。