この声が届いてしまうなら押し殺していたけれど、届かないということは動かない事実だった。だから、たった一度だけ試すみたいに呼んだ。
思いのほか小さな声はすうっと空気の中に溶けて消えた。
ひとつの季節は遠のきつつあったけれど、まるで最後の力を振り絞っているかのように部屋の中を冷やしていた。
この夜を越えてみせると思ったし、越えなければならなかった。辻本はこの三日間で夜の本当の恐怖を知ってしまった。夜はひとたび姿を見せれば孤独という単語に込めら
れた真実を執拗に教えてくる。頭まで布団に包まったのは自分の温もりを身近にするためで、他に意味なんてなかった。
電話が鳴ったのは冷たい静寂に溺れそうになった時だった。
辻本は思わず「うわっ」と声を上げた。それは悲鳴に近かった。一秒にも満たない瞬間、誰もいない部屋に溶かした声が届いてしまったんじゃないかと心配した。電話の相手は金本だった。
金本は名前を呼ばれていたことになど気づいていなかった。やはり声は届かなかった。それは幸福か不幸か。
電話は物理的な距離を瞬時に不確かなものとする。電話機が受信再生している声は明せきで、まるで耳元で囁かれているみたいに直接的だった。低くて少し掠れた声が辻本の
うなじをざわざわとさせた。その囁くような声に呼び出されたのは真夜中が始まる少し前だった。金本は整然とした社会的責任を負っているはずの大人で、辻本はまだ少年だった。
明日だって学校がある。しかもこともあろうか五分で来いと言われてしまったが行ける訳なかった。酔ってるってことは電話越しでも明らかだったし、何よりも金本は
知っていたのだ。辻本が断らないことを絶対的に、知っていたのだ。電話を切った後すぐに自転車を走らせた。夢中だった。自分を待っている人のもとへ。そんな思いに
支配された。
「遅いんじゃボケ」
急ブレーキをかけて止まった辻本を待ち受けていたのは労わりの言葉なんかじゃなかった。金本にとって辻本がここへ来ることは当たり前のことなのだから労わる訳は
存在しなかったのだろう。やっぱり五分では無理だった。長袖のTシャツだけじゃ不安で薄っぺらい上着を羽織ったけれど今となれば邪魔なだけだった。道路に点在する街灯や、小さな街の夜を申し訳程度に彩るネオンがこぞって金本の姿を鮮鋭にさせていた。
「すんません!めっちゃ急いで来たつもりなんですけど」
「あかん。俺もう帰る」
「ええーっ・・・」
帰る気なんてないくせに。金本は肩で息をしている辻本を一瞥してペットボトルを仰いだ。無骨な首筋がはっきりと見えた。大きな喉ぼとけの動きに一瞬見惚れ、辻本はその視界の中に
小さな小さな赤いあざを見つけてしまった。
だが実際は見つけてしまったのではなく、見てしまったのだ。その小さな存在は昨日から知っているのだから。ポロシャツの襟に隠れるように
存在するそれ。ごくごく、と喉下からの音を聞きながら、こういうのはいつになったら消えていくんだろうかと当てもなく思った。それから忘れる努力を始めた。無防備に反っていた首筋も、昨日よりは少し
薄くなったあざも。そうしなければならなかった。覚えていたって簡単に焦がされてしまうだけだ。だから、忘れる。何て簡単な理論だろう。けれど記憶の中から消して
しまえる保障なんてどこに存在するっていうのだ。金本の頬が薄っすらと赤いのは
お酒のせいに違いなかった。そこからも目を逸らし、消えて行く水の動きを追った。辻本は金本との関係にあらゆる積極性を持とうとしなかった。
「欲しい?」
飲み口に下唇をくっつけたままの金本が言った。びっくりしてすぐに返事は出来なかった。金本はどこにでもありそうな縁石に座っていて、
辻本はその姿を見下ろしている。見上げているのは金本だった。
「・・・え?」
「水」
「あ、ああ・・・はい、いただきます・・・」
一体何を考えていたのだろう。辻本は自分の神経を疑った。ペットボトルを受け取ろうと伸ばした腕が重かった。でもゆっくりと確実にそれを目指した。
男らしい大きくてごつごつした手に触れないように細心の注意を払った。何を恐れてそうしたのかは辻本自身も分からなかった。金本には知る由も無い
緊張が辻本の元に訪れる。こういう場面で辻本はいつもひっそりと息を飲んだ。別にどうってことないじゃないか。これぐらい友達でも先輩でも誰とでもすることなんだ。そう言い聞かせながら飲んだ
水は冷たかったし、喉の渇きを癒すには十分だった。それから、平静を装った。
「どっか入ってはったら良かったのに」
「明るいのん頭痛なる」
「そんな飲みはったんですか?」
「知らん。量なんか覚えてへん」
そう言ってから金本は面倒臭そうに顔を歪めた。追及を好ままい金本は必要以上に干渉されるとはっきりと不快感を顔に出した。今もほら、
一層鋭い目をたたえている。金本はわがままで、辻本はそれに一番振り回されている人間の一人だった。
今目の前にいるのは天才と称される男だ。その男はとても天才だとは形容出来ない気だる
そうな表情を保持していた。こんなことを言えば何をされるか分かったものじゃないけれど、ちょっとこっけいだった。辻本は自転車をその場に止めた。
人の気配は無かった。立ち上がる素振りを見せない天才の隣に座るべきかどうかを辻本は真剣に悩んでしまっていた。
「何を突っ立とんねん」
優しくも何ともない口調。それが辻本にとっての許可でもあり、座れという命令でもあった。腰を下ろしたのは良いものの、一人分の明確な区切りがない
から思いのほか距離が近くてぎくりとする。心臓が飛び跳ねたのが分かった。金本は何ら気にもしてないみたいだった。
「おまえ明日学校か?」
「はい」
「大変やのー高校生は」
こんな時間に呼び出した張本人が始めたのは何の特色もない話だった。これはたぶん大人のすることじゃないと思ったけど辛うじて声にはしなかった。
辻本が金本からの誘いを断ったことは一度もなかった。断る理由は見つけようとしても見つけられなかった。自分から誘ったことは一度もないし、
きっとこれからもないんだろうと思う。
「金本さんかて仕事あるんでしょ」
「おー、あと何時間後にな」
「それも十分大変じゃないですか」
「勉強よか何億倍もマシやろ」
「勉強・・・金本さんも教室で授業とか受けてたんですよね」
「どういう意味やねんそれ」
「い、いやー、すごいなー思て。け、けど普通みんな学生は気楽でええって言いますよ」
「ああ・・・まあ大人は子どもを見下すために生きてるようなもんやからな」
辻本にはその意味がよく分からなかったが深く聞こうとはしなかった。子どもという単語がことのほか耳に残った。ありとあらゆる時、辻本は自分たちの間にある越えられない
壁に感づく。劇的なまでの幾多の相違が二人の間を取り巻いていた。
「・・・金本さんも大人ですやん」
「せやな。おまえより十年以上長く生きてる」
十年。その長さを想像しようとして止めた。辻本はまだたった十七歳だった。この人が高校生だったら、もしくは自分が十年早く生まれてたら、そんなことを考えかけ
たけれど想像もつかなかった。同じ長さを生きていたらどんな風に会話をしていたのだろう。
金本は初めて会ったときから天才金本だった。放つ空気からして一線を画していて、圧倒された辻本はまともに喋ることも出来なかった。その時金本は「何びびっとんねん」と
言ったっけ。その場の全てだった空気の重さをたった一言で一笑に付した。辻本はあの時の顔を未だに覚えていて、忘れようとしてもどうしても忘れられなかった。だけどあの時
自分の中に生まれた感情がどんな名前なのかは未だに分からない。
あれ以来ひたすら金本を見続けて来た。天才は間違いなく生まれ持った才能を持っていた。そしてまた目指すものの為に出来る限りを尽くす努力家でもあった。
そんな強さに惹かれ、辻本は呆気なく金本に惚れ込んだ。本当に呆気なかった。才能と努力、それを持ち合わせていた金本を
誰もが口々に天才だと絶賛したし、それと同時に嫌いもした。わがままで短気で口が悪い天才は周囲の反感や妬みを容易くかった。隠れてこそこそと文句を言う者
がたくさんいて、辻本はそんな悪意に満ちた会話と幾度となく遭遇した。腹が立って仕方なかった。何も知らないくせに、知ろうともしないくせに。とうとうある日、
その悪意に口を挟んだ。辻本は物静かな心の持ち主だったが金本のこととなると感情を抑えきれなかった。そこまで言われる筋合いなんてあるもんかと思った。とは言うものの価値観や、ひいては生命観の影響からか、とても遠慮がちに口を挟んだ。それでも相手は十分に腹を立てたようだ
った。かくして起きてしまった一悶着が後日に伝わった時、あんなもんは有名税だと金本は言った。そしてほんの僅かに、だけれど目を見張るほど高圧的に口の端を吊り上げた。それから辻本は金本という男の人間性から目を離すことが出来なかった。
「ほんで?」
金本が突然言った。ぽかんと口を開けて、一体何がほんでなのかを考える。あれこれ模索している辻本より先に金本が眉を寄せて言った。
「おまえ早よせーよ、仕事や言うねん」
「え、いやっ、な、何の話でしょー・・・?」
「アホ、おまえの話やろが」
おでこを小突かれた辻本ははっと悟り、おまえの話と括られたことを語り始めた。色々と頭を整理しながらゆっくり語った。金本は黙って聞いてて、ときどき相槌を打った。
それ以外はただ静かに隣にいてくれた。数人の通行者が目の前を過ぎて行ったけど、二人に気づく者は誰もいなかった。わざわざ自分の為に時間を割いてくれたんだ、
そう思うと目頭が熱くなった。辻本は感激屋だった。金本が先輩にお酒をつき合わされるのはほぼ日課と化している。無理な言い訳をして抜けて来たんだってことは
聞かなくても分かった。それから辻本の相手をし
、あと数時間後には仕事に出なければならない。金本の愛情表現は呆れるぐらいに分かり辛かった。
だからと言うべきか、そこに生まれる人間関係には無駄がなかった。金本を嫌う者は本当の金本を知らない者ばかりで、金本の傍にいる者は本当の金本を知る者ばかりだった。
だから自然と金本の近くには金本を愛している人間だけが残る。心から愛してる人間だけ。そういう意味でなら後輩の中でも特別近くにいることを許されている辻本が今度は
反感をかったりもしたけれど。それでもこの場所を誰かに渡す気にはとうていなれなかった。今、誰よりも近くに感じてるんだ。
「何で相方に恋愛感情やねん。そこが間違ってる」
煙を反対方向に吐きながら金本が言った。季節の曖昧な空気に乗り、流され、消えて行く。
「はあ・・・自分でもそう思います・・・」
「アホやな。おまえ」
「アホです・・・」
「解散してプロポーズでもしたええやん」
そう言って金本は陽気に笑う。何て無責任だろう。辻本は目を見張った。呆れるくらいに無責任で、無邪気な笑顔だった。誰だって笑った顔が一番好きなのかも知れない。
笑い飛ばしてくれることが心強かった。けれど結局は怒った顔でもいつもの冷たそうな顔でも何だっていい。辻本はぼんやりと金本を見ていた。
何ひとつ見逃すまいとしてきたが、泣いた顔はまだ一度だって見たことがなかった。この男が一後輩の前で果たして泣いてくれるだろうか?
ここから涙が流れるなんて幻みたいだ。あまりに非現実的すぎる。だけどもし本当に流れるのだとしたら。透明な涙が流れてしまう時、隣にいるのが自分だったら、落ちていく滴を残さず見届けて
あげるのに。辻本の空想はとても謙虚に広げられた。
「俺どうしたらいいでしょう・・・」
「そんなもん俺が知るか」
「はあ、そーですよね・・・」
「自分で決めろ。おまえの道じゃ」
金本は絶対に甘やかしてはくれなかった。親切な言葉なんて決してかけてくれない。だけど自分が甘やかして欲しくて金本の隣にいるとはとうてい思えなかった。笑われても突き放されても、
金本の傍にいたいという願いは消えなくて、ときどきその思いの強さに辻本は恐くなった。一体金本に何を求めているのか自分でも分からない。もしかすると何も求めて
いないのかも知れない。それでも恐いくらいに強くここにいたいと思う。言葉にさえ出来ないほどに。
「俺の道ですか・・・」
「おまえ笑い辞めるとか言うたら殺すからな。それだけ覚えとけ」
「金本さんに殺されるんやったらいいですよもう」
「・・・どんだけ病んどんねん」
辻本は頼りなく笑い、金本はふんと鼻を鳴らしてあっさり視線を外した。ああ、この顔も好き、と辻本は無意識的に冷たい顔に見惚れた。別にそこ
まで病んでるつもりはないのだけれど、金本に殺されるなら何の文句も出てこない気がする。きっと優しく鋭く殺めてくれるんじゃないだろうか。なんてこと思ってたら
金本が携帯電話を取り出した。何を考えとんねん、と胸の奥で辻本は自分自身へと吐き捨てた。
「忘れとった」
「え?」
「ちょー電話。別にかけたくないけど」
そう言うなり慣れた手つきでボタンを操作した。仕事の電話、友達への電話、女の人への電話、辻本は果たしでどれだろうかと何となく考えてみる。呼び出し音が鳴って
いるのだろう間、少し不満げな顔を曝しては舌打をして「早よ出ろや」と金本はぼやいた。辻本には相手が誰なのか薄々分かった。
「おまえこないだ言うとったやろ辻本の話。あれどこの店やったか教えてくれ」
例えばもしもしとか、例えば夜分に対する謝罪とか、そういう前置きは一切なかった。わざとらしいくらいにぶっきら棒な口調で、それは唐突な会話から始まった。
「あん?どこやねんなそれ・・・もっとまともに説明しろや」
ことさら乱暴な言い方に、辻本は傍観者に過ぎないにもかかわらずひやりとする。金本は自分がどれだけ藤川のりおのことを好きであるのかってことを全く分かってないらしい。
この世で金本の一番近くにいるのが藤川なのは周知の事実だっていうのに。それなのに彼らはお互いを嫌い合っているのだと装って、最近では言葉を交わしているところを見る機会
さえなかった。死んだって口を聞いてやるもんか、お互いがそんな態度を
貫こうとしているみたいだった。この風貌で意地を張る金本は何だか大人気なかった。大人と子どもという境界線は必ずしも普遍的なものではないのだろうか。そんな風に
ふと思ったとしても、辻本に出来ることと言えば金本に一番
愛されるってどんな感じだろうとかと推し量ることだけだった。幾度そういう思考を持ってみても何の手掛かりも掴めなかったけれど。一番になんてなれるわけがないの
だから。
「あー、分かった」
それじゃあとか、ありがとうとか、もちろんそんな挨拶もなく通話は終わりを見せた。会話の中に自分のものらしい名前があったことよりも、デジタルきんぎょが
電話をしていたことの方が辻本にとっては印象的だった。
「めっちゃ久しぶりですよね」
「何が?」
「いや・・・電話、藤川さんでしょ?」
「そ、それが何やねんおまえボケかいらんこと言わんでええねん!」
けたたましく怒鳴られ慌てて「すんません・・・!」と頭を下げた。金本は藤川との関係について干渉されるのを最も嫌っていた。デジタルきんぎょは仲が良いことで
有名だった。だがそれは辻本が彼らに出会う少し前の話だった。親愛なるエピソードを耳にするたびその様子を自分の目で見てみたいと思った。けれども金本の不貞腐れた
表情を目の当たりにしてしまってはまだまだ先になってしまうんだろうと思わずにいられなかった。
「・・・辻本の話ってもしかして俺のことですか?」
「あ?ああ、そお、おまえの親父に似てる人おったらしいで」
金本が何でもない風に言ってのけたものだから、辻本は瞬間的に頭が真っ白になった。
「お、親父って、ええーっ」
「まだ分からんけど。あくまでも似てる人」
「はーいやー・・・マジですか。嘘でしょー・・・」
「それを今から確かめに行くんやんけ」
「い、今から!?」
「ほら、チャリンコこげ」
自転車を顎で指され大いに戸惑ったが断れるはずもなく。複雑な表情で金本を後ろに乗せてママチャリと呼ばれるそれを走らせた。景色がぐんぐん通り過ぎた。木々の
葉が揺れてそれは大合唱になった。小規模なネオンもいつの間にか追い越していたし、そうかと思えばまた別の街の明かりに近づいては遠ざかった。幾らなんでも行き成りすぎである。
こんなに急に父親を捕まえに行くなんて。だけれど重みを増した自転車は辻本の心を
軽くしていて、静かな街は大勢の人間をどこかに隠しているようだった。世界の中で二人っきりにみたいだと思った。ある季節の
最後の冷たさも、夜の星も、小さな街の明かりも、色んなものが二人だけの所有物みたいだった。そこには胸を締めつける鮮明ささえあった。確かにあったのだ。
それなのに、辻本それを声にしようとはしなかった。自分の中にだけ閉じ込めた。
もし本当に父親だったら、そう黙々と考え、それと同じくらい人違いだろうとも考えていた。結論から言えばやっぱりそれは父親じゃなかった。金本に言われるがまま
向かった先は大人向けの店だった。そこで父親らしい人物が働いているという話だった。だが全くの人違いで終わった。期待はしてなかったし、本当に発見した時にかける
言葉もまだ用意出来ていなかった。その店を後にして金本はつまらなさそうに
「おもんない」と呟いた。酔っぱらった大人としては真っ当な意見だろうと辻本は小さく笑った。それからまた二人だけの世界の中を走った。金本が後ろにいるだけで
何も恐いものはないんだって思った。どこからこんな強さがこみ上げて来るのかは分からなかったが、辻本は死んでもこの日を忘れられないと感じた。どれだけ忘れる努力をしたって絶対。
「悪かったな」
「気にせんとってください。金本さん何も悪くないですから」
「何日経ったん?」
「まだ言うても三日ですよ」
「三日か、そおか」
金本はそれ以上何も言わなかった。興味がなかったのか、何も語るまいとしたのか。それで良かった。何も望んではいなかった。ただ一緒にいてくれるだけで奇跡なんだと
辻本は思うようにした。噛み締めるような無言が流れて、金本が突然「止まれ」と言った。相手を労わって優しいブレーキをかける。完全に自転車から降りた金本が
指差した先を見て辻本はあっと声を出しかけた。
「おまえ風呂屋つき合え」
金本は世にも偉そうな口調で、これはまさに命令に等しい。辻本は生まれて初めて金本の誘いを拒絶しなければならなかった。
「ふっ・・・風呂屋は勘弁してください・・・!」
「あ?何でやねん」
いやあ・・・、そう消え入りそうな声をどうにか絞り出して頭を掻いた。理由を聞かれたって簡潔な答えなんて見当たらない。あったとしてもそれは言語として形成
出来ない代物に違いなかった。この世には言葉になり得ないものが多くて悩むばかりだ。辻本は不服そうに見下ろしてくる男に引きつり気味の笑みを
捧げた。金本の鋭利なまでの視線はいつもあらゆるものをさらって行く。だからこそ近づきすぎるべきではなかった。あんな場所で愛すべき天才金本の無防備
さを目の当たりにしてしまった時、名前の無い感情にようやく本当の名称が与えられることは間違いなかった。そうすれば今度こそ何かが終わり、新しい何かが始まって
しまう。そんなの駄目に決まってる。
「と、とにかく風呂屋は・・・」
「何じゃおまえコラ、俺と風呂入るん嫌っちゅーんか」
「いやいやっ、まさかそんな・・・!」
慌てて否定したものの、金本につんと顔を逸らされた。怒らせてしまった。本当に短気でわがままだ。それでも辻本はその全てを受け取りたくてそっぽを向く金本を見つめ続けた。怒りという感情で
さえ金本が生み出したものだと言うなら一ミリも余すことなく欲しかった。視線に気づいたのか金本が振り向いた。むっとした表情を見せつけられた辻本は困ったように
優しく甘く微笑んだ。こんな風にして時々、どちらが年上でどちらが年下なのか
が漠然となる。しかしそれはたった束の間で、二人がそれに気づくこともなかったのだけれど。
「チャリンコ貸せや」
「ええ?」
「おまえタクシーで帰れ」
金本はかばんのなかをごそごそと探って財布を取り出す。幾らそう思っていたとしても、まだ帰りたくないとは口が裂けたって言えない。言ってはいけない。辻本は
その言葉を強い想いと共に喉の奥へ押し込めた。もう一生出てくるなと祈るばかりにずっと奥へと。そんな無力な少年に社会的責任を負った大人が一万円札を一枚さらりと差し出した。
「何でこんなに・・・」
「あ?何でって何やねん。学校行くんやろ」
「こ、こんないりませんてっ」
「これで明日また俺んとこ来い。チャリンコ返すから」
「いや、せやかてこれは・・・」
何をしたって金本は先輩でしかないのだから、この関係が大人と少年の全てだった。こんなもの必要ないからもっと一緒にいて欲しかった。口が裂けたって言わない。
「うるさい、面倒臭いことをうだうだ言うてんな」
「いやー・・・」
「分かったほんなら返せもうやらん。おまえじゃなかったらここまでせーへんぞ」
いかにも頑丈そうな腕が素早く伸びてきて、辻本は咄嗟的にそれから逃げるように手を引いた。
「い、いただいときます!」
金本はうんともすんとも言わずに煙草を取り出した。この一本を吸い終えるまでは一緒にいてくれるのかなと漠然と思った。ライターの火が生み出した
柔らかい光が金本の顔を鮮明に映し出す。うつむいた顔、喫煙者特有の、煙草に火をつける時の少し険しい表情。どうしてそんな風に眉の間にしわが寄るのか、煙草を
吸わない辻本には分からなかった。金本の唇の隙間から一筋の紫煙が吐き出されたのを見届けて辻本は口を開く決心をした。
「金本さん」
「何」
「俺、東京行きます」
一度煙を吸い込んで吐き出す。それから金本がきょとんと「はあ?」と言った。辻本は煙草ってうまいのかなと瞬間的に考えた。
「東京行くんです」
「何でまた」
「親戚がいてるんです」
「ああ・・・そっか。けど親戚くらいこっちにもいてるんちゃうんか?」
「ええまあ、せやけどおかんの実家が東京で」
「この時期に転校とかありえへん」
また吐き出された煙を目で追いかけた。そうする必要なんてどこにもないと知っていながら。東京行きの話はまだ本格的じゃなかったし、今すぐどうこう出来る問題でも
なかった。それでもきっと、自分は東京へ行くだろう。それはもう頭のどこかで確信していた。
「だって金本さん、これから東京の仕事増えはるでしょ」
「それがどないしてんな」
金本は無関係だとばかりに言う。目の前にいる後輩にどれだけ深く愛されているのかなんて知ったことじゃないようだ。もとより愛されてるとか愛されてないとか、
そんなことでこの男が計算や打算をするはずもなかった。不器用すぎるくらいに真っ直ぐぶつかって、えてしてそれは単純明快だった。だから辻本ははらはらしたし、またそんな駆け引きのなさに憧れもした。
これから金本は手の届かない場所へ行ってしまう。そうなればもう隣になんていられない。たとえ電話が物理的な距離を瞬時に不確かなものとしても、離れてしまう未来
を習慣に変えてしまうことなんて出来るわけなかった。だから、それなら、この故郷を捨ててしまうんだ。辻本はそう目論んだ。見慣れた風景も、通い慣れた道も、よく行った場所も、全てを記憶の中にだけ
留めてしまえばいい。金本がいないこの街なんて偽物なのだから。例え大人と少年という関係でしか
なかったとしてもそれを終わらせるわけにはいかなかった。言葉として生み出せない感情を手放すことさえも出来ずにいるのに。
「せやから行くんです。東京」
「何じゃそら」
素っ気なく呟いた金本がゆっくりとした立ち居振る舞いで道路に近づき軽く手を上げた。タクシーのドアがタイミングよく開き金本は顎で後部座席を指した。
その時、辻本は自分の感情が溢れてしまいそうになったのを確かに感じた。けれど静かに息を吸い込むことでどうにかそれをやり過ごした。そうとしか出来なかった。
別れ際は一番心が弱くなる。明日また会えると分かっているのにどうして、こんなに。金本の目を見れないままありがとうございますと丁寧にお礼を言った。そしてタクシーに乗り
込もうとした時、大きくてごつごつした手、不意にそれが頭の上に乗った。見てはいけないと考えた刹那、それより勝る思いが込み上げた。少し見上げれば、
いつもの冷たそうな顔がそこにはあった。
「おまえは東京には行かへんよ。ちゃんと帰って来るから親父」
とても力強い声色だった。甘さも親切さもない、強い強い声色。だからこそ辻本は素直にぶつけた。子どもだということが何かの理由になるなんて真っ平だ。
「・・・そんなん何で分かるんですか・・・そんな嘘つかんでいいです」
大人は嘘つきだ。今までだって大人たちはたくさんの嘘をばらまいて本当なんて誰も残さなかった。彼らに真実を期待することは辻本にとって馬鹿げたことに
他ならなかった。無力な少年だとしても孤独という単語に込められた真実を知っている。大人の嘘も知っていたし、知っていながら信じてるふりをしてきた。
嘘を言った本人たちは満足そうに微笑んでた。大人とはそれだけ無知な生き物だった。辻本は恨むような、あるいは縋るような目で金本を見ていた。その視線を受けても
なお金本は一切顔色を変えず、そして言った。
「嘘かほんまかなんて知るか」
金本はそう宣言し、静かな目線を辻本に向けた。慌てることもなく、取り繕うこともなく。そこにある強さが偽物だと誰に言い切ることが出来るだろう。一気に胸が
つまっていく。金本はちゃんと隣にいてくれたのだから。孤独だった夜は強さを与えられたけどこの大きな手のひらがそれよりも強烈なものを残していくんだ。
「じゃあな。遅なって悪かった」
「そ、そんな・・・俺こそすんませんでした・・・」
「帰って早よ寝ろボケ」
不意に頭をはたかれた。金本が背中を向け、それに促されるようにタクシーに乗り込んだ。ドアは運転手の意図した通りバタンと音を立てて閉まった。まるで全てを
切り離すかのように無機質な音だった。あの手が触れた時、何かが終わったのか、何かが始まったのか。
解答は一体どこにあるのだろう。だんだん小さくなっていく男からずっと目を離さなかった。この光景から何かを見出そうとしたのかも知れない。たとえそうだとしても
見つめるだけが精一杯の辻本に何を掴めるというのだろうか。だけど心を包む寂しさだけは痛いほどに感じた。その鮮明さも
静かさも激しさも、痛いほどに。
けれど心は強くなる。金本はまた会える明日を作ってくれた。自転車を迎えに、そして冷たい顔に、無邪気な笑顔にまた会いに行く。明日を待ち侘びて
辻本は目を閉じた。そうして冬に似た春を、二人きりのあの世界を、瞼の裏に蘇らせた。