誰でも来れるけど誰も来ない場所。最上階の奥にある扉を開けると階段があった。その踊り場が若菜のお気に入りの場所だった。 教室、屋上、部室、渡り廊下、体育館の裏、色んな場所があるからわざわざ誰もここを選ばなかった。若菜がここに連れて来るのはいつも新庄だけだった。 小さな空には雲がゆっくり流れてた。
「新庄ケータイ持てって。不便でならねーよ」
「いらねーよ今更」
「今だからいるんだろ今だから」
 不良らしい座り方をしていると足がだんだん痺れて来た。固いコンクリートの地べたに座りなおす。そうやって偶然、学ランが触れ合うくらいの距離になった。 新庄はその偶然が必然であることになんて気づかずにその距離を受け入れた。若菜がどきどきしながら埋めた距離。
「メールとかしよーぜ」
「何で」
「な、何でってそりゃおめー普通それくれーすんだろが」
「・・・カチカチやんのメンドくせーよ」
「持てよ」
「持たねー」
「・・・寂しい夜に俺が相手してやろうってのに」
「何だそりゃ」
 新庄は学ランの袖から垂れている糸くずを引っ張っていた。夢中になって引っ張っているその顔を少し上から見つめてみた。目と目が合ってないときは幾分か 幼い印象があった。若菜はそんな一瞬に飽きもせず恋に落ちた。新庄の視線を奪えなくなったのは冬なのか春なのか分からないくらいの季節だった。
「おめーが寂しがり屋ってのは周知の事実じゃねーか。何言ってやがる」
「う、うるせーよ昔のことを持ち出すなバカ」
 途端に顔を上げて新庄が睨んだ。やっと眼差しに出会う。若菜はときどき同じようなことを言って、新庄はそれに同じような反応をした。毎回毎回、顔を赤くして うるせーよと返って来るのは分かっていた。それでも若菜は繰り返すことを止めようとしなかった。100回言えば1回くらいうんって言うかもしれない。はたまたこの男の 場合10000回くらい言わないと素直に肯定なんてしないだろうか。そういう前向きなんだか後ろ向きなんだか分からない希望を持って。 頷いたらうんと好きだって言ってやろう。
「かっかっか!照れんな。赤くなるな。可愛いじゃねーかコラ」
「・・・・・・」
「だから照れるなよ。おまえ髪伸びたな」
「・・・そーか」
 最後に髪を切ったのはいつだろう。金髪の根元が少し黒くなっていた。確かな経過があっても二人は曖昧な関係のままだった。
「切ってやろーか俺が」
「いーよ」
「切らせろよ」
 新庄はそれ以上何も言わなかった。それと同時に雲がゆっくり形を変えていく。だから時間なんていうくだらない概念さえ忘れてしまいそうになる。ゆっくりで、葉っぱが揺れる 音だけが聞こえて、何も考えなくて良かった。目の前にいる男をただ大切に思った。この感情のために今があるんだ、そう確信しても良かった。若菜は初めて金髪に触れた。 新庄に惚れてるんだってことに気づいてから初めて触れる。新庄は遅い動きで頭を動かしたけれどすぐに 諦めたみたいだった。
「引っ張んな」
「うりゃ」
「・・・コラ」
「いってえ!てんめっ・・・本気出すかよ!」
「手加減してんよ」
「ぐっ・・・何つー力!」
 痛みを与えられた腕を見ながら気を引きたくてこんなことをする自分におかしくなる。なんて子どもじみてるんだろう。次は何をしてやろう?何かをしないと もう見つめあえないのかも。考えていたら チャイムが鳴って新庄が立ち上がった。
「うわ、出んのかよ次」
「出るよ。現国だろ」
「ああ・・・そーか・・・」
 若菜は人のことを言えないくらい素直じゃない男だったのだけど、こればっかりは素直さに関係なく何も言えない。もっと一緒にいよう、いつも言えない言葉をまた 飲み込んだ。言えないのは自分に勇気がないからじゃなくて、現国の授業に出るためなんだって言い聞かせて。若菜が立ち上がろうとしたら新庄が扉を開けた。大きな背中が 校舎の中に入っていく。ここでこうして背中を見るたび抱きしめたくなった。何も言わないままで、何も言えないままで、それでもいいからただ抱きしめる。抱きしめられたいんじゃなくて 抱きしめたい。その違いって一体?







 うわの空の若菜の隣にはやっぱりうわの空の関川がいた。屋上から仰ぐ空はただでさえ高かった。感傷的な彼らの目には美しく、儚くさえ見えてしまう。 若菜と関川には立派な共通点が生まれていた。たったそれ一つで彼らはもう何度もこうして同じ空を見上げることが出来た。別に望んだわけじゃ ないのだけど。
「恵子ちゃん可愛いなあ・・・」
「新庄可愛いなあ・・・」
 二人はほぼ同時に呟き、やっぱりおまえはあの泥臭い野球部の中で唯一無二の同志だ!と無言の内に語り合った。口を開けば恵子ちゃん恵子ちゃんとうるさい 関川についつい若菜が口を滑らせてしまった、というのがこのおかしな仲間意識の始まりだった。
「さっき手ェ振ってくれたんだぜ恵子ちゃん」
「俺なんて一緒にサボったぜ授業」
「くっ・・・二人っきりか!?」
「おーよ、ナメんなっつーの」
「・・・男同士のくせしやがっててめー!」
 男への片思いに関川は最初こそ大いに笑ってやった。何だってわざわざ男なんかに恋をしなきゃいけないのか、そんなことを思ってずい分と笑った記憶がある。 けれどよくよく話を聞いてみてあらびっくり、苦しみも喜びもこんなに分かち合えてしまえるだなんて。男だって女だって関係ないんだ、関川は結論を急いでしまった。
「おめーいい加減言えよ」
「お、おめーこそ言えよ」
「俺はおめーが言ったら言うって決めてんだよ」
「俺だっておめーが言ったらってことにしてんだよ」
 二人はこうして責任をなすりつけあうことで来るべき日を延々と先延ばしにしていた。
「おまえそれでも男かよ!」
「ああ!?てめー人のこと言えねーし!」
 むっつりといがみあって同じタイミングでため息を吐く。こんなところでこんなことを言いあったって何も始まらないのは分かっているんだ。それでも今日じゃなくても 明日があるんだし、そう言い聞かせることで失う怖さから逃げて来た。だけど今日は今日しかない。二度と今日というこの日には出会えない。
「何でたった一言が言えねーんだよ」
「・・・知るかよ」
 言うべきだと思うし言いたいとも思う。けれど相手を目の前にすると完璧に用意しておいたセリフが全部消えた。頭が真っ白になるってこういうことなんだ。 二人はそんなことも理解しあった。好きだ、付きあおう。一瞬にして消えていくセリフ。    







 長身の金髪。その姿がないだけで教室はたちまち雰囲気を変えた。関川に続いて教室に入った若菜が味わったのはまず違和感だった。もうすぐ授業が 始まるってのに一体どこへ行ったんだろう。首輪とリードで繋いでおけたら楽なのに。猛獣みたいできっと似合うだろうな、そんなおかしなことを考えながら教室を 抜けた。チャイムが鳴ると学校が静まり返る。部室のソファにも空が高い屋上にもいなくて、そうなればもうあそこしかない。そう答えを出せるのは嬉しかった。 行き先をちゃんと知ってる安心感。誘ってくれればついて行ってやったのに。 二人だけの秘密の場所。突然あの扉を開けたらびっくりするだろうなって思った。秘密の場所に通じる廊下を真っ直ぐ進んで行くと話し声が聞こえて来た。 そういえば湯舟も教室にいなかった。
「新庄まくらやってくれ!」
「ああ?」
「まくら、膝まくら」
「寝るなら部室行けよ。てゆーか寝てる時間なんてねーぞ」
「いーじゃねーかよ、早くまくら!」
「何で俺が・・・」
「だってコンクリ固てーんだもんよ」
「・・・足、痛くなったらどけよ」
「うんまあ多分な、ほらもーいいからハイハイハイ」
 ゆっくり雲が流れる秘密の場所。別に雲が速く流れたって良かったし雲を見ることさえ出来なくたって良かった。見れたところで何も面白くなんてない。 早い話が新庄がいればどこでも良かったんだ。二人の場所を作って それを誰にも教えないでたった二人だけでその秘密を共有する。そうすれば曖昧な関係性にもう少し特別さを見出すことが出来た。秘密は今をもって喪失した。 若菜は掴み損ねた取っ手を今度こそ握って勢い良く隔たりを開け放った。
「ててててめーら何してんだコラーーー!!」
「にゃーーー!」
「若菜」
 見る前に驚いて見てしまってまた驚いた。なんたってこんなことで二度も驚かなければならないんだ。見上げてくる新庄の膝は湯舟のまくらにしっかりとなっていた。 若菜が今日を捨てた間に誰かと誰かの絆が生まれていく。世界はいつだってちゃんと動いているんだ。明日にしよう、明日にしよう。そう言っている間に。
「どけ!今すぐどけ!」
「んだよ若菜か。びっくりさせんじゃねーよ」
「どけっつってんだコラ!」
「俺は寝るんだ。静かにしてくれ」
「さっさとどきやがれこの猫野郎!!」
 若菜は暴れる湯舟を掴み起こして扉の向こう側に放り投げた。無駄に大きな体だから手間取ったけれど無事成功して閉め切る。新庄は一部始終をきょとんと見ていた。
「てめー何すんだ!開けろー!!」
「うっせー引っ込んでろ」
 ぎゃーぎゃー騒ぐ湯舟を無視して扉を死守する。けれどそうそうもたない気がしてきた。
「ちょ、おまえこれ持て!んであのバカを阻止しろ!」
「あ?」
「ほら早くしろ!」
 何がなんだか分からない新庄はとりあえず立ち上がって交代した。若菜は死に物狂いで守っていたけれど、新庄は涼しい顔で守ってみせた。 湯船は諦めてないらしくまだくぐもった大声をもたらしていた。
「ふう」
「・・・ふーじゃねーよ。一体何なんだ」
 不審そうに見つめられて若菜も目を逸らさなかった。目を逸らさない強さが何もかもを伝えてくれればどれだけ良かっただろう。何をどう言えばいいんだろう。 やっぱり頭が真っ白になる。
「・・・てめー何でここ教えたんだよ」
「湯舟か?」
「そーだよ」
「あいつが部室も屋上も嫌だっつーから」
「だからって言うなよ。簡単に言うな」
「ここしか知らねーんだからしょーがねーだろ」
「・・・俺はおまえにしか教えなかった」
「おまえが誰にも言うなっつってたら俺だって言ってねーよ」
 確かに、なるほど。それはそうだ。鋭い目には最初から悪意なんてなかった。そんなことに一番最初に気づいたのは一体誰だろうか。
 あの頃は簡単だった。新庄の視界に居すわること。あらゆる意見に忠実に同意を捧げてれば良かったんだから。それに安心しきった新庄に目を逸らされそうになったら、 今度は真逆の意見をしてまた引きつければ良いだけだった。そうやって新庄の視界に入ることだけを考えてた。だけどそれを一度諦めてしまった。一ヶ月くらい。 諦めて憎みさえした。それ以外何もなかった。それくらい新庄はバカなことをやってのけたのだから。一ヵ月後、若菜が求めた目はたった一人を追い始めた。そこにあるのがどんな類の感情だったとしても、 視線を奪うことはもう難しくなっていた。そのたった一人が新庄を助け出したから。
「・・・寂しいって言えよ」
 そしたらこれでもかってほどに好きだと言える。きっと。新庄は真っ直ぐ若菜を見て言った。他意も嘘も強がりもないどこまでも真っ直ぐな目だった。
「言わねーよ」 
 たとえ真っ直ぐだとしても正真正銘それは素直な目じゃない。若菜だって分かっていたんだ。10000回言っても頷かないことくらい。この男がそんな弱音を吐くわけがない。10001回目には何かが変わるかも知れないなんて バカげてる。そのときさえ同じ言葉が返ってくるに違いなかった。新庄慶は今日という日から逃げない。今日を捨てずに大切なものを一つ一つ拾い上げて、新庄なりの 丁寧さで生活していた。だから他の授業には若菜同様関心なんてなくても現国の授業だけは放棄しなかった。そしてその間にも新庄の中の小さな絆が育っていく。 この男にあとほんの少しの軽薄さがあれば恋なんて簡単に叶ってたのに。けれどそんな新庄は希望的観測が生み出した偽物だ。若菜が惚れてしまった紛れもなく 本物の新庄が扉の方に視線を移した。
「開けるぞ」
 若菜が金髪を引っ張るよりも先に湯舟のわめき声が鮮明になった。湯舟が突っかかって来る。
「てめー俺の安眠を邪魔するなー!」
「るせー!てめーは安眠したまま死んで来い!」
「ケンカすんじゃねーよ」
「あ?新庄戻んのか?俺のまくらは?」
「戻るよ。もう鳴んだろ」
「にゃー!・・・次って何だっけ?」
「さー何だったかな」
 新庄が答えると湯船はまた若菜に掴みかかった。それを相手にする若菜が見ていたのは校舎に入って行く新庄の背中だった。抱きしめたい背中。 ああそうか、若菜は思った。きっと振り向いて欲しいからだ。