あの日屋上で塔子は叫んだ。それから一秒、一時間、一日、一週間、一ヶ月。時間は規則正しく過ぎたけれど、その儚さを 嘆くつもりは少しもなかった。塔子は何より知りたいだけだった。安仁屋が言ったあの一言に対して、バッカじゃないのと叫んだ 本当の理由とその正体を。




 塔子の部屋のドアはよく塔子の意図とは無関係に開いた。いくつかある根本的原因の一つに母親のやり方があった。 塔子の母はびっくりするぐらいに容易く、安仁屋を家に招き入れた。戸惑いも疑いも全く存在しなかった。隣の家の生まれたときから 知っている男の子。それだけで塔子の家に上がり込む権利を安仁屋は確保し続けた。母のそういう行為は二つの家族の間に成り立つ 暗黙の了解を裏付けもした。幼馴染の男の子と女の子。二人は恋人同士になり、そしていずれ はたくさんの祝福の中結婚する。塔子はそれを日常の中で確実に感じ取った。
 断りもなくドアを開いた安仁屋は塔子と目が合うが早いか開口一番に言った。
「欲求不満だ」
 あんまり突然だったものだから塔子は自分の耳を存分に疑った。
「何て言ったの?」
「欲求不満」
 昔は小さかった男の子。その男の子が今塔子の目を見てそう言う。その目の奥で何を考えているのかなんてお見通しだった。肉欲だなんて 言うと生々しくて嫌ね、塔子は内心でそんなことを思った。そしてまだ小さな女の子のふりをした。
「何それ、どういう意味?」
「おまえのせーで欲求不満だっつてんの。やらせろ」
 塔子はゆっくりと一度だけ瞬きをした。
 安仁屋は散々好きなことをした。 きっとたくさんの女の子をその腕に抱いた。小さな頃安仁屋の腕は確かに塔子のためにあった。けれどその腕は大人になる過程で 繰り返し何度も塔子じゃない誰かを抱きしめた。そして今度は当然のようにその腕で他の女の子と同じように塔子を扱おうと してる。汚い。ふしだら。許せない。こういう気持ちになるのは女性である塔子の絶対的権利でもある。しかし塔子はその権利を高々と 掲げるつもりなんてこれっぽっちもなかったのだ。
「信じられない、最低ね」
「んだとコラ。しまいにゃ襲うぞ」
 自分でも不思議ではあっが塔子は安仁屋を嫌いになったわけではなかった。十六年間一緒に生きてきた人を嫌いになれるほど の冷たさを塔子は獲得できずにいたし、むしろこの男の子を許してあげよう、そんな寛大さえ持っていた。そんな塔子の姿勢を 疑っていたのは誰でもなく、塔子自身だった。どうしても安仁屋を軽蔑することが出来なかった。軽蔑という強烈な感情を抱くことが 出来なかった。塔子の心は冷やりと、常に静かなままだった。それに二人の関係に汚いものを自ら引っ張り込みたくはなかった。 嫉妬や軽蔑という、みにくいものを見たくはなかった。自分にはどこか欠陥でもあるんじゃないだろうかとさえ思ってしまう。 どうしてこんなに、冷静でいられるのだろう?
 それに結局、安仁屋はいつだって塔子を求めた。最終的には小さな男の子の目で、 幼い心細さで、塔子の存在を頼りにした。だから、嫌いになんてなれなかった。見捨てることなんて出来るわけなかった。
 そういう訳で塔子は二人の関係を頑なに守り続けた。きれいなままの心で繋がっていたかった。それほどの愛情を注いだ。 小さな女の子のふりをしながらも塔子は全力でもって自分と安仁屋を守ってきた。
「こないだおばさんにもらったクッキー、あれおいしかったな」
 ありきたりな熱を隠したその目を見ながら言った。先ほどの塔子と同じように、ゆっくり瞬きをした安仁屋は「そうか」なんて、 やけにわざとらしく呟いた。
 完璧な、美しい心で繋がっていなければならないのだ。真っ白のままでいい。他の色など徹底的に排除しどこまでも美しい白で 塗り固めていく。無にさえ似ている、白。塔子はそうやって幼馴染との関係を守り、二つの家族からの無言の期待に応えていかなければ ならないのだ。実際、塔子にはそれだけの強さがあった。
 しかしその均等はもやは崩れ去りそうだった。




 新庄の制服の袖のボタンが解れていることに気がづいたのは三時間目が始まる前の休み時間のことだった。ボタンの糸が解れるという 些細な現象に塔子が気づくに至ったのは、新庄が塔子の興味を間違う ことなく上手に引いたからなのか、それとも、塔子の目が新庄に敏感なだけだったのか。塔子本人でさえその答えは分からずじまいだった。
「新庄くん」
 呼びかけるといつもこわそうな顔が振り向いた。実際本当にこわい。だけどこわくないときもある。優しいときとか、乱暴なときとか。 新庄はまるで誰とも違う生きもののようで、とても興味深かった。
「ボタン取れそうになってるよ」
 塔子が言うと新庄は俯いて自分の制服を見渡した。それから「どこ?」と言った。
「ほら、そこ。袖のとこ」
 今だとばかりに女の子らしい甘くて優しい声を出した。そこに忍ばせたほんの少しの、ひどく微かな下心に相手が気づくか気づかないか、 ぎりぎりのラインをあえて選んで。それでも新庄の目に塔子が映ることはなかった。
「・・・ああ、ほんとだ」
 そう呟くと袖からぶら下がったボタンにばかり関心を向ける。塔子は唇を噛み締めたくなったけれどそうはしなかった。 新庄の前に座っていた湯舟が何事かと目をやったけれど、すぐにまた関川との会話に夢中になった。真弓先生、恵子ちゃん、二人は口々に そう言っては、何やら切なそうなため息を吐いたりした。そんな二人に声を掛けたのは親切な御子柴だった。「元気出せよ」と 丁寧な口ぶりを披露する。 塔子の耳にもその会話は耳に入った。しかしまたその話かと、特に関心は向かなかった。塔子はマネージャーとして携帯している ソーイングセットを手にし、新庄の右隣に座っていた岡田に微笑みながら言った。
「岡田くん、ちょっとどいて」
 これと言って座る場所に対してのこだわりがなかった岡田はすんなりと立ち上がり、机の上に座った。椅子でも机の上でも地べたでも、 座るという動作さえ行えばそこが座る場所になるのだ。教室というこの場においては特別そういうことになる。塔子は椅子に座り、 女の子らしく丁寧にスカートの裾を調えた。
「直してあげる」
 塔子の言葉に少なからず驚いたのか、新庄が言葉を返した。
「今?」
「そうよ」
「・・・いいよ、自分でやる」
「いいの、ほら、かして」
 たとえばこういう場合の相手の反応を塔子は予想したりする。新庄だったら、きっと黙って手を差し出すんじゃないだろうかとか、それとも いらないって言い切るんじゃないだろうかとか。幾つかの予想を立ててはみるものの、結局いつも新庄には小さく裏切られる。 新庄は何も言わないままじいっと塔子の目を見つめた。塔子は瞬間的にその視線を受けて、新庄の手首を引き寄せた。 故意的にしろそうじゃないにしろ、興味を引くのは確かに上手なのかもしれない、なんてことを思いながら、中途半端にぶら下がっていた ボタンの糸をはさみで切る次第だった。
「よく気づいたな」
 小さな小さな針の穴に糸を通すべく奮闘していると、岡田があざとく口を挟んだ。
「何が?」
「ボタン。俺気づかなかった。つうか新庄すら気づいてねーよ」
「そうね、ちょっとした偶然じゃない?」
「・・・へえ、そんなもんか」
「そんなもんよ」
 ようやく糸が小さな小さな穴に通った。さあここからが本番ね、塔子は内心でそう意気込んだ。新庄の手首をもう一度遠慮なく掴んで、 ぐいぐいとやり易い位置まで持ってくる。早速ちくちくと針を動かした。制服から覗いた手首の肌が、やけにあざやかだった。
「きれいな動脈ね」
 そう言って顔を上げると新庄がやや眉をしかめた。
「どうかした?」
「・・・何でも」
「・・・変だったかな?」
「変つーか・・・別に変じゃねーけど」
「そっか、ならいいの」
 純粋にきれいな手首だと思った。骨と血管、触ればきっと、脈を打っているに違いなかった。ただそれだけだった。素直に そんなことを、純粋に思っただけだった。なんだか、リアルだった。
「はい、出来た」
 塔子がそうにっこり笑うと、新庄は「ありがとう」と感謝の気持ちを述べた。すると塔子の口元はさっきなんかとは比べものになら ないほどにだらしなく緩みきった。その笑顔を目撃してしまった岡田があっと驚くぐらいに、それはそれは嬉しそうな顔だった。 塔子には自分がまるで世界で一番いいことをした人間のように思えてならなかった。こんな気持ちになれるんだったら、新庄のボタンが 毎日まいにち、何度でも解れてしまえばいいんだと、塔子はそんなことまで考えた。




 新庄が打ったボールは減速など知らないまま圧倒的飛距離を誇りそうだった。その行方を目で追っていた塔子はあのボールが地上に舞い戻る ことはもう永遠にないんじゃないだろうかと期待してしまうほどで、けれどボールはフェンスにぶつかりちゃんと戻って 来てくれた。部員たちはその様子をぽかんと口を開けて見ていて、塔子が思わず握り締めてしまっていた手の強さに気づく者は誰一人として いなかった。それは一番近くに立っていた監督にの目にさえ入ってはいなかった。塔子は誰にも見られるまいと、新庄の打席の余韻が 残っている内に手の力をゆっくりと逃がした。 新庄のプレーは一ヶ月分の遅れなんてとっくに感じさせないほどのものだった。たかが一ヶ月の遅れがなんだっていうんだろう。 塔子は新庄がどれだけの努力をしたかを全部知っているつもりだった。遅れた分、人の何倍も努力をしたのだ。
「何回見てもすげーな、あんなのそうそう打てるもんじゃねーよ」
 いつの間にか隣までやって来ていた御子柴が、目を輝かせながらそう言った。言われなくても分かっていたし、すごいなんて一言 で片付けてしまうのはしゃくだった。しかしそれを隠せるほどには大人だった塔子はしっかりとした口調で「そうね」と 言って微笑みを返した。塔子の返事を聞く なり御子柴は新庄の元へと駆けて行った。御子柴は感動すると何から何まで誰かに伝えたがった。塔子は少しうんざりするときも あったけれど、それが新庄のことであるならばいつだって優しく微笑んで見せた。わざわざ指南されなくともそんなことは最初から 分かっているのだと、相手にちゃんと伝わることを願いながら。だけど御子柴がそんな考えを理解してくれているとは思えなかった。
 御子柴と新庄が何やら話しているところへ 若菜と安仁屋が加わった。安仁屋が新庄の肩に手を回すと、それに対抗するかのごとく、若菜が新庄の腰に腕を回す。 二人に挟まれた新庄だったけれど一切気にすることはなく辺りをきょろきょろ見渡した。そんな姿を見ていた塔子は、きっと誰かを探して いるんだろうと思った。そうかと思えば暑苦しそうに体を捻って 二人の男に揉みくちゃにされそうなところを脱出して見せた。新庄を目で追ってしまうことがいつの間にか習慣のようになっていた。 習慣、なくてはならない行い。塔子にとっては安仁屋を見つめていることが社会的責任みたいなものだったし、安仁屋が視界に入るたびに 罪悪感を感じるのは事実だった。けれど新庄を見ているとそんな感情さえ自然と姿を消して行った。
 バットを引っさげながら歩く新庄がすれ違ったのは恵子ちゃんで、恵子ちゃんはまるで陽だまりのようににこやかに口を動かしたが、 遠くから見ている塔子には何と言ったかまでは分からなかった。新庄もまた口を開いたけれど、その内容もまた塔子には分からずじまい だった。関川の「恵子ちゃーん!」という叫び声だけはしっかりと聞こえたのだが。新庄が向かった先にいたのは岡田で、二人は少しの 間その場で会話を続けた。楽しげに話しているかと思いきや、新庄が突然つんと顔を背けた。一体何を言って怒らせたのかしら?塔子は つらつらと思った。岡田は困ったように 笑いながらも熱心に振り向かせようとしているようだった。新庄は時折岡田の前で、びっくりするほど子どもっぽくなった。岡田は 新庄の相手をするうえで、何か天才的な能力を持っているのかもしれなかった。グラウンドでは部長が部員たちのバッティングを順番に 確認しているけれど、塔子はそれをそっちのけで新庄の次の行動を心待ちにした。部員たち全員を平等に見渡しているつもりではあった。 ただそれよりも、新庄を見ている時間が多かっただけの話だった。
 新庄の独創的な行動リズムは塔子を実にわくわくさせた。岡田の熱心さが実ったのか、新庄は岡田のことを許してやったようで、二人 はまた何かを話し始めた。独創的という言葉を塔子はとても気に入った。
 新庄は笑う。新庄は泣く。新庄は怒る。新庄にしか出来ない ことがこの世の中には溢れている。正しいことも正しくないこともすべてが新庄慶特有の発想だ。それはありふれて、ごくありきたりな形でも あったし、ひどく奇妙なときもあった。それはただ単に新庄慶が生み出すものでしかなかった。だから、新庄慶にしか生み出せないもの だった。新庄が岡田に向けて笑いかけた。その表情は塔子の胸を温めもしたし、同時に不思議な感覚の痛みを与えた。この痛みは 一体どんな名前を持っているんだろう。塔子はそう考えようとしたけれど、深く詮索しない方がいいのかもしれないと思った。
「八木」
 ふいに名前を呼ばれた。監督であることはその声から簡単に判断出来た。それでも塔子は刻一刻と生み出される新庄の仕草を、どれ 一つとして見逃そうとしなかった。
「どうしたの先生」
「赤星見なかったか?」
「さあ、知らない」
 監督には心から申し訳なかったけれど、塔子はそう言わざるを得なかった。声が勝手にそう言ったのだから、仕方なかった。ちゃんと 心の中でごめんねと監督へ向けて謝った。塔子はたくさんのもに気づかないふりをした。赤星の居場所ならずっと前から知っていたのに 、それでも。だけど先生も先生だと塔子は思った。あちこち探せばすぐに見つかるはずなのに、どうしてわざわざわたしに聞くのよ、 そんな主張を塔子は持った。赤星ならすぐそこでバカみたいにずっと同じものを見続けているんだから。
「そうか、まったく、目を離すとみんなすぐぐちゃぐちゃになるなあ」
「そうね、だって、生きてるんだもの」
 塔子の呟きに監督はぎょっとした。一体全体、何の話をしているのか、皆目見当がつかなかった。痛みを抱えながらも決して目を逸らそうとしない 塔子が監督の不審そうなその表情を知ることは二度となかった。けれどごめんね先生、ともう一度塔子は心の中で言った。




 嬉しくなったり苦しくなったり。塔子の胸の中は忙しく回った。それでもマネージャーとしての仕事だけは絶対に怠ろうとしなかった。 他の部と共同で使っている部屋で、部員たちが使ったコップをせっせと洗っているとき、後から突然ある質問を投げ掛けられた。
「あの人のこと好きなんですか?」
 塔子はぎゃあと、短い悲鳴を上げた。背後から何の前触れもなく声が聞こえたのだから当然の反応だ。コップを 流しに落っことしてしまったが、プラスチックだったので事なきを得た。肩をすくめながら振り返ると、そこには何事もなかった かのように赤星が立っていた。
「な、何なのよ突然!びっくりするじゃないの!」
 塔子は大声で非難した。怒りとは即座にで発散するべきもので、堪えるとか溜めておくとか、そういうことは塔子の不得手とするところ だった。その方が後腐れがなくていいと塔子は考える。
「あの人のこと好きなんですか?」
 赤星は塔子の怒りなんて知ったことじゃないようだった。先ほどと一字一句違わない文章を見事に言ってのけた。塔子は流しに向き 直り、赤星のせいで落下したコップを拾い上げた。
「何の話?」
「あの人のこと好きなのって聞いたんス」
「あの人って一体誰よ」
 塔子の手元ではガチャガチャとコップを洗う音が鳴った。どうしてだかいつもより時間をかけた。コップを洗っているというその行為の おかげで冷静さを保っていられたからかもしれない。赤星が答える気配は一向になかった。その代名詞だけで話が全て通じると思っている に違いなかった。実際のところ通じていたものだから、塔子は赤星に見えないことをいいことに、あからさまに苦虫を噛みつぶしたような 表情を作ってみたりした。
「どうしてそんなこと聞くの?」
「いつも見てるから」
 赤星の口は的確に事実を語ったけれど別に驚きはしなかった。塔子だって知っていたのだから。赤星はいつだって新庄を見つめていた。 バカみたいに真っ直ぐ見つめていた。塔子には簡単に分かった。それならその逆だって十分にあり得ることだ。必然的だと言っても 過言ではなかった。
「そうだとしても赤星くんには関係ないじゃない」
「俺あの人が好きなんス、邪魔されたくないんスよ」
「・・・ちょっと、人聞きが悪いわね。邪魔なんてこれっぽっちもしてないわ」
「見てるでしょう、十分してるでしょう」
「一体それがどうしたって言うのよ!それで何か被害が及んだわけっ!?」
「あの人が気づいたら勘違いするかもしんねーっていう被害」
「勘違いって何なのよ」
「俺に惚れてんじゃねーかとか、そういうやつ。あの人結構バカっぽいから」
「そうだわね・・・側面から判断すれば有り得る話ね。それならそれでありがたいわよ望むところだわ」
「チッ、やっぱ惚れてんじゃねーか」
「うるっさい子ねえ・・・男の嫉妬ほどみにくいものはないのよ。それにねえ、そんな被害妄想一方的に押しつけられても迷惑なだけだわ」
 塔子はそういうなり振り返った。ずっとコップを洗っていると、その方が手持ち無沙汰に思えてならなかったからだ。赤星は何を 考えてるんだか分からない目で塔子を見ていた。何よその顔、信じられない。塔子は胸の内でそうぼやいた。本当は何を考えているのか なんて一目瞭然だった。そこにあるのはみにくい嫉妬でしかない。どうしてそんなものを男である赤星にこうも真っ向からぶつけられ なければならないのか、塔子には少しだって納得出来なかった。ただひっそりと見つめていただけで、それ以外の重要な既成事実なんて どこにもありゃしない。それとも誰かの視界の中に新庄がいるってだけで罪になるとでも言いたいのだろうか。そんな理不尽な 言いがかりがあってたまるもんかと塔子は思った。
「何なのよ、ほっといてよ、どうしようとわたしの自由だわ」
「それはまあそうなんですけどあの人見るのだけはダメ」
「あきれた・・・屁理屈にもほどってもんがあるの!」
「んなこと言われてもダメなもんはダメっス」
「・・・キミねえ、誰かが新庄くんのこと見るたびそんなこと言うつもり?」
「我慢はしますよ。つうかしてますよ。してなかったらとっくにぶっ殺してんしょ」
 塔子は盛大に顔をしかめた。こんなことを真面目な顔で言うなんてきっとどうかしてるんだ。だけど、一体誰を?なんてことを平気で 聞き返そうとした自分も自分だった。たとえばこの場合自分と新庄、どちらが殺される立場にあるのか、塔子には判断出来なかった。 これ以上ここにいても有益なことなんてないと思った。利益なんて生まれない、生まれるわけなんてない。そう固く信じて部屋から 出ようと決断しかけたとき、こともあろうか新庄が顔を覗かせた。
「こんなとこいやがった。赤星、メシ行ってやってもいい」
 何とも偉そうにそう宣言した後、塔子の顔を見やった新庄はまた赤星へ振り向き口を開いた。ひどく神妙な顔つきだった。
「・・・てめえ、変なことしてたんじゃねーだろうな」
「・・・別にしてねえし」
 赤星は新庄を睨みつけた。その目つきのすごさに塔子は思わず見入ってしまう。本当に憎んでいるみたいに、赤星の目は金髪の男を 突き刺していた。日常の一環として使用しているこの部屋で、塔子は突如として赤星の人間らしさを見せつけられてしまった。 生意気な後輩がこんなにも感情的な目をするとは思ってもみなかった。新庄がその視線を受けていたのはほんの数秒間に過ぎなかった。
「ならいいけど早くしろよ」
 新庄は簡潔に述べるとすぐに部屋を後にした。塔子でさえ赤星が不憫に感じるほど呆気なく視線は外された。ごめんなとか、 悪かったとか、そんな謝罪は一言もなかった。新庄のことだから何か優しい言葉を掛けてもおかしくはなかった。だけど、赤星に憎しみ という人間らしさがあったように、新庄にだってびっくりするほど無神経な人間らしさが確実にあった。またまた塔子の予想は裏切られ る結果となった。一人間の言動を丸ごと予想し得ればどれだけ楽に生きれただろう。そんなことが可能だったら誰も苦しまなくてすむはず だった。だけど、全て自分の予想に留まる人間に、一体どれほどの魅力があるだろう?
 赤星の目から途端に憎しみの色は消え果てた。とても苦しそうに出入り口を見つめていた。赤星が特別な人へ向けた本物の憎しみは その人に届くことさえなく、無意味なままで消えてしまったのだ。まるで世界の終わりに追いつめられたかのように立ち尽くしている 後輩は、それをちゃんと理解出来ているんじゃないかと思った。そうで なかったらこんなに悲しい顔をするわけがない。届かなかった想いは一体どこに消えていくのだろう。塔子はその行き先を考えそうに なって、慌てて思考を打ち消した。赤星の想いがどこへ辿り着いたとしても、どこへも辿り着かなかったとしても、そんなことは 関係のないことだったから。赤星の想いなんて消えてしまえばいいんだと思ったから。全部、消えてしまえばいいんだ。そう心から 祈った。
 同じ土の上で野球をしたり、一緒に帰ったり、ごはんを食べに行こうと誘ったり。塔子はそんなこと一度だってしたためしがなかった。 自分の立場をちゃんとわきまえていた。女だっていうだけでどうしても一緒に出来ないことが山のようにあった。塔子に出来ることは ただひっそりと見つめることだけだった。それなのに、赤星なんかに問い詰められてしまうなんてとても悔しかった。自分はたくさんのことを 新庄と共有しているくせに。野球だって出来るし、一緒にだって帰れる、ごはんを食べに行くことだって出来るんだから。それ以上を 求めるなんてわがままだ。悔しくて悔しくてたまらなかった。ただ見ていただけの自分がバカらしくなった。赤星の想いなんて一生 届かなければいいんだと本気で思った。そして、そんなことを思う自分が急に怖くなった。なんてみにくいんだろうと思った。それでもその みにくさを捨てることは出来なかった。塔子は突発的に計画を立てた。先に部屋を出た赤星を追い越して新庄の元へと少し早歩きで 向かう。
「新庄くん」
 廊下で呼び止めると新庄が振り返る。
「わたしも一緒に行っていい?」
 新庄はきょとんと眉頭を上げて「いいんじゃねーか」と言ってくれた。全部、何もかも知らない、唇を噛みしめたくなるほどのん気 な表情で。




 生きるということはどうしてこんなにも大変なのだろう。塔子はファミレスと銘打たれたレストランの硬いソファに腰を掛けて そんなことを思っていた。そもそも神さまが本当にいたとしても、その実力なんて全く当てになったもんじゃなかった。神さまのバカ。 塔子は何度だってそう言ってやりたかった。
「塔子ちゃん、女の子っていきなりデート誘われたらやっぱ引くと思う?」
 関川は至って真剣な面持ちでそう訊ねた。しかし不運にも塔子は関川の恋愛に首を突っ込んでいられるほどの余裕を持っちゃいなかった。 四人席のテーブルの、どうして新庄の隣にいるのが赤星で、自分の隣にいるのが関川なのか、その疑問の方が何百倍も重要だった。 それよりも第一に関川が何故ここにいるのかにさえ合点が行き届かない。学校を後にする時点で、どうしてだか三人が四人になっていた のだ。そのまま帰宅することに何となく気が進まなかったのだけれど、他の部員たちは疲れ果てていてどこかへ行こうという雰囲気でも なく、ちょうどそんなとき、三人連れ立って歩いている塔子たちを発見し、これは運命に違いない!とすっかり感じ入った。という主の内容を、学校から ファミレスへ向かう道のりで関川は雄弁に語ってみせた。だからって、塔子には大人しく納得する筋合いなんて少しもなかった。どうして 今日このタイミングで、関川が直帰することに気が進まなくなり、どこかへ行こうという雰囲気をみんながまとっていなかったのだろう。 そんなの明日でもいいはずなのに、どうして今日に限って。神さまのバカ。塔子の心中ではその言葉が呪文のように繰り返された。 しかし関川がそんなことを知る由もなく、彼にとっては何より自分の恋愛が気がかりだった。
「なあ、どう思う?」
「そうね・・・誘ってくる相手にもよるんじゃない?こればっかりは」
「相手か・・・。恵子ちゃんどんな人がタイプだろう!」
 そんなこと塔子に分かるはずもなかったが、関川の目は心底塔子に縋っていた。こんなことを気軽に話せる女の子はどう考えたって 塔子しかいなかった。
「分かんないわよそんなこと」
「そんなあ・・・」
 関川ががっくりと肩を落としたものだから塔子は傷つけてしまった気分になった。しかし分からないものは分からなくて、それ以外の 言い方なんてあるはずないと思った。そんな複雑な心境がすぐ隣で繰り広げられていることなんて、やっぱり関川は知らなかった。 塔子は投げやり気味に自分の前にあるオムライスにスプーンを突き立てた。新庄が注文したハンバーグがあんまりおいしそうなものだった から、自分も同じものにすれば良かったんだとひどく後悔した。
「そういや、新庄ってどうなの?」
 今さっきの落ち込みようが嘘だったみたいに関川が言った。申し訳なく感じていた自分は一体どうすればいいんだろうかと塔子は 思った。けれどそんなことより、何てことを言い出すんだろうかと、関川を恨みたくなった。塔子はその質問の意図をすぐさま解釈 してみせた。オムライスはちっともおいしくない。しらじらしく赤星の顔を見た。何を考えているのか手にとるように分かった。
「どうって何が?」
「何がって、好きな人いねーのかってことだよ」
 おいしそうなハンバーグをつついていた箸の動きがぴたりと止まった。新庄は何とも居心地の悪そうな顔で口を開く。
「いねえよ」
「うっそ、マジで?」
「嘘なんかつくか」
「けっ、知ってんだぞ、おまえがモテることくらいはよ」
 それとこれとどんな関係があるのかと思った新庄だったけれど、すこぶる真面目そうな友人のために黙っておいてあげることにした。とにかく 関川はあの亀山恵子という少女に恋をしているんだから。新庄にとって今一番理解出来ないのはここに集まった四人の面子でしかなかった。 なんだってこんなところで、こんな四人で、夕食をとらなくちゃいけないんだろう。
「・・・考えてみりゃ卑怯じゃねーか?何で俺の好きな人は知ってるくせに自分はそういう話しねーんだよ。そうだ、卑怯じゃねーか!」
 どうして今までこんな重大な事実に気がつかなかったんだろう!関川ははっとしてまくしたてた。人の話は惜しげもなく聞くくせに 自分の話は公表しないなんて、そんなのフェアじゃないじゃないか。
「包み隠さず言え!」
「何を?」
「だから、恋の話!」
 新庄は口に入れたハンバーグをゆっくりと咀嚼して、それから言った。塔子はやっぱりハンバーグの方がおいしいに違いなんだと思って いた。
「秘密」
 たった一言を紡ぎ出した新庄は何でもないような顔をしてまたハンバーグを口まで運んだ。 こっちの心情なんてちっとも察しようとしない関川のこととか、おいしそうなハンバーグとおいしくないオムライスのこととか、 新庄と全く同じハンバーグセットを何食わぬ顔で注文していた赤星のこととか、全部。塔子は色んなことを忘れ、秘密という単語の 誘惑的な響きにすっかり捕まってしまった。
「な、何が秘密だ!勿体ぶってんじゃねーよっ!」
 関川でさえほんの少しはそこにある甘美さを感じ取ったようだった。「ど、どうせつまんねー話なんだろ」と慌てて言った。関川にとって自分の恋愛の影を薄くさせる話題なんて絶対に避けて通るべき だった。だけど秘密だなんて言われると気になって気になって仕方なかった。隠されると知りたくなる人間らしさ。
「・・・何が秘密っスか」
 ハンバーグを順風満帆に平らげようとしていた新庄の手がまた止まった。塔子も関川も同時にその声の主を目視した。関川と似たような 台詞を言ったことに疑問を抱いたわけじゃなく、学校を出てから今初めて赤星が口を開いたからだった。関川に至っては赤星の存在なんて 既に忘れそうになっていた。
「・・・うるせーな、黙って食ってろ」
「秘密なんて大層なもんじゃねーくせに」
「おまえには関係ねーだろ」
「あんなの全然秘密なんかじゃねえし」
「だからうるせえっつってんだろがっ」
 上手い具合にいざこざが巻き起こった。これは逃せないチャンスに違いない。関川は敏感にそう悟ったのだ。やっぱり恵子ちゃんが好きだし、 塔子の力なくしては前に進めないのは確実だ。二人を放ってもう一度知恵を借りようと塔子に話を持ち出そうとした。しかし 塔子はとても真剣な表情で二人の口論に聞き入っている様子だった。
「人の思い出にケチつけてんじゃねえぞ」
「あんなくだらねーのが思い出?」
「てめえマジで殺す」
「くだらねーもんはくだらねー」
「てめえとは二度と口利きたくねえな」
 新庄はふんと鼻を鳴らすなりまたハンバーグを食べ始めた。しばらくその横顔を見つめていた赤星も、新庄と全く同じハンバーグを 世にも不機嫌そうに箸でつついた。二つのハンバーグは順調に形をなくしていった。そんな二人の姿を、塔子は異常なほど静かに見つめた。 関川がその視線を不審に感じたのは確かだった。しかし、赤星が部活の後、塔子にたんかを切ったこと、塔子がそのとき心から赤星を 憎んだこと、そんなことやっぱり関川には知る由もなかった。きっと何でもないだろう、そう答えを出した関川のおかげか否か、塔子の 視線が外されることはなかった。 赤星は新庄の秘密の恋を知っているんだ。塔子にはそれが許せなかった。秘密の、共有。
「あげる」
 赤星はそう言って、つけ合わせのかぼちゃの煮物を新庄のお皿の上に置いた。新庄は赤星が手放したかぼちゃの煮物を 箸でつかまえる。そしてぱくりと口の中に入れた。
「うまい?」
「うまい」
 塔子は目を丸くした。一体いつのまに仲直りをしたんだろうと訝った。それともさっきのあれは喧嘩なんかじゃなかったとでも いうのだろうか?やっぱりハンバーグセットにするべきだったんだ。次にここへ来るときは絶対にハンバーグセットを注文すると決めた。 だけど、これからハンバーグを見るたびに今の光景を思い起こさなきゃならないんだと思うと、何もかもが嫌になった。ハンバーグも オムライスも真っ平だ。何の罪もない関川が食べているエビドリアだって、かぼちゃの煮物だって、何もかも。




 解決の糸口を見出せなかった関川はお会計が済むなりとぼとぼと帰路に着いた。新庄と塔子はそのあまりにも寂しげな足どりに、交通 事故でも起こしやしないかと不安に思いつつ彼を見送った。関川が何のためにわざわざ自分たちについて来たのか、赤星にはさっぱり 分からなかった。
「じゃあな赤星」
 予期せぬ言葉が降って湧いた。赤星は二度三度、まぶたを閉じたり開いたり。
「あんた、帰るならこっちでしょ」
 そう言って指差した方向は間違いなく新庄の家へと続いているはずだった。だけど「こっちに用事がある」のだときっぱりと言い切られて しまった。こっちと称された道はどう考えたって新庄には必要ないのにもかかわらず。それにしても用事というものは、いつも新庄を 連れて行く。用ったって一体今何時だと思ってるんだ。
「俺も行く」
 虚しいとか惨めだとか、そんなもの、構っていられなかった。赤星は夜が創造する光の下、目を凝らして新庄を見つめた。たとえ 断られると分かっていても一秒でも長く一緒にいられればそれでよかったのだから。虚しいとか惨めだとか、そんなことは誰よりも赤星自身が知って いる。たった一秒を獲得するためなら何度だって傷ついてみせるという強さ。それが赤星を支えていたのかもしれない。
「あ?別にいいよ来なくて」
 新庄は何の躊躇いもなく言った。傷つけてやろうなんて積極的な悪意がある訳じゃなかった。ただ赤星の申し出がどんな想いによって 発生したのかを知らなかっただけだった。それでもやっぱり、赤星は悲しくなった。だけど新庄だって赤星だって相手の心を読み取れる エスパーなんかじゃなかった。ただのちっぽけな人間だったから。
 かくして赤星は並んだ二つの背中を静かに見送った。見えなくなるまで立ち尽くした。振り返ってくれるかな、夜の中でも目立つ金髪に 、そんな期待を抱きながら。




 塔子だってただのちっぽけな人間だった。赤星の気持ちぐらいちゃんと知っていたけれど、自分が女であることを今日ほど嬉しく思った ことはなかった。だから赤星が新庄に向けていた真っ直ぐな視線の健気さに気遣ってなんてやらなかった。
「送ってくれるんでしょ?」
「まあ、時間も時間だし」
「新庄くんってちょっとフェミニストだよね」
 塔子は心からの微笑をたたえた。フェミニスト、何だか非日常的な響きに思えた新庄は怪訝そうに「そうか?」と言ったが 、塔子は構わず嬉しそうに笑ったままだった。
「そうよ。だって女の子に手を上げてるところなんて見たことないもの」
 ときどき塔子は新庄の全てを知っているつもりになった。
「誰だってそうだろ」
「そんなことないわ、新庄くんほど隣にいて安心する人なんていない」
 新庄は何も言わなかったけど、塔子はどうにかなってしまうんじゃないかと思うぐらいに浮かれていた。夜の匂い、車が運ぶ光、 空には天体だって輝いている。なんてすてきな夜なんだろう。だけどふいに、どうしようもないほどの不安が胸を刺した。すてきな夜は あっと言う間に終わってしまう。バス停に着いて、バスが来れば、もうお別れなんだ。
 人々に忘れ去られてしまったかのような小さなバス停にある水色のベンチ、二人はそれに座った。すっかり元気をなくしてしまっている塔子を新庄 はとても不思議に思った。女というものは時に、宇宙規模のどんな謎よりも不可解だ。しかし新庄の頭に素晴らしい名案がひらめいた。 学ランを脱いで渡せばきっと、全てが解決するだろう。母親や妹が女の一番の敵は寒さだと嘆いていたのを運良く思い出したのだった。 さっそく学ランを差し出してみると、思いもよらない反応を投げ掛けられた。
「いらない」
「・・・ああ?」
 塔子は身を縮めて、自分の手に息を吐いている。どこからどう見たって寒さにふるえているのは絶対だった。よって新庄はもう一度 学ランを押しつけた。
「・・・いらないってば」
「寒いんだろ」
「そりゃね、だって冬だもん」
「だから着ろって」
「いらないんだってば」
「着ろよ」
「いらないの」
「着ろ」
「いらない」
「・・・わけ分かんねー」
 思わず口をついて出た。聞こえたのか聞こえていないのか塔子は一生懸命に手のひらを温めている。ついさっきまではいつも通りの 塔子だったのに、何がどう彼女の機嫌を悪くしてしまったのか、新庄にはさっぱり分からなかった。しかしながら学ランを差し出した腕は とっくに引っ込みがつかなくなっていた。数秒考えてから新庄は学ランを塔子の膝の上にぱさりと置いた。 バス停がある歩道には時折ちらほらと人が通っていくだけで、本当にここにバスが止まってくれるのか心配になるぐらいの静けさだった。一人、 また一人と、通行人はよそよそしく過ぎて行った。何人目かが通り過ぎたとき塔子が学ランに袖を通した。結局着るんじゃないか。 そう訝った新庄だったけれど、言葉にはしないことにした。はてさて寒さにふるえる少女は何を我慢していたのだろう?
「鈍感だわ」
 塔子はそんな呟きを薄明かりの中に零した。その声には相手を責める強さと、大きな学ランを羽織ってしまった自分を嘆く弱さが混在 していた。新庄の学ランは大きくて、十分に温かくて、何だかそれが苦しかった。低い背もたれを存分に活用し、ふんぞり返るような 姿勢で座る新庄が少し遅れて「鈍感?」と言った。右足のくるぶしを左足の膝の上に乗せていた。長い足だなあ、塔子は何となく思った。
「・・・女の子に優しくしちゃ駄目よ」
 塔子の切実そうな声色に新庄はすっかり途方に暮れた。フェミニストと称されたときのあの笑顔が嘘だったみたいに、今度は女の子に 優しくしてはいけないと言う。 塔子が何を言いたいのか、はたまたどうして欲しいのか、新庄にはまったく理解が出来なかった。一応あれこれと考えてはみるものの何の 手掛かりもつかめそうにない。女の謎は深まるばかりだ。
 そんな新庄を救ったのは待ちに待ったバスだったのだが、えてしてそれは塔子にとって、悲しい別れのバスだった。騒音と共に車両は バス停に滑り込んだ。ドアが開く音がして、新庄は背中を背もたれから引きはがす。けれど塔子はじっと固まったまま動かなかった。
「これ乗るんだろ」
「乗らない」
「何言って・・・」
「帰りたくない」
 塔子は新庄の言葉を遮って言った。新庄は見事なまでにおったまげた。バスは全く違う次元の存在だったかのように、騒音を連れて 呆気なく去って行った。
「・・・何だって?」
「帰りたくない」
 きっぱりとそう返されて新庄はぽりぽりと頭をかいた。少し考えてみるけれどそれはほんの素振りにしか過ぎなかった。だって、帰りたくないって言ってるんだ から、帰りたくないんだろう。無理に帰らせる権利が自分にあるとは思えないし、それなら好きにさせるしかないじゃないか。
「分かった。なるべく早く帰れよ」
 新庄はそう言って背中を向けた。