天災でも人災でもテロリストでも何でもいい。とにかく今すぐに世界を空前絶後の大混乱に陥れて欲しい。塔子は水色のベンチに座って、 自分の足元をじっと見つめながら心底そんなことを願っていた。無責任かもしれないけれど、人の命のことまで気にかけていられなかった。 明日学校がなくなれば何だって、誰が犠牲になろうと知ったことじゃなかった。戦争でも起きれば今あった出来事なんてほんの些細なこと でしかない。新庄の後姿は見送らなかった。淡い期待なんて抱きたくなかった。学ランだけあったって本人がいないんじゃ何の意味も ないと思った。明日、世界が終わりますように。何度もそう唱えて、 これからどうすればいいんだろうと不安になった。恥ずかしくて惨めで消えれるものなら消えてしまいたかった。そうやって五分間、 さっきまで新庄と座っていた水色のベンチで、塔子は一人で苦しみ抜いた。それは人生で最も心細くて寂しい五分だった。
 視界の中に飛び込んだ靴が新庄のものだということにはすぐ気がついた。思わず顔を上げそうになったけれど寸前のところで堪えることに 成功した。別に待ってなんてなかったし、嬉しくもなんともないんだと思い知らせたかった。先にしびれを切らしたのは新庄の方だった。 偉そうな動作でベンチに座る。その乱暴さに塔子が怖気づくことはなかった、むしろ新庄特有の振舞い方に不思議なまでの安心感さえ 抱いた。水色のベンチは二人分の重みを背負ってきしっと小さな悲鳴を上げた。塔子はそれが嬉しくて嬉しくて 、本当は涙が出そうだった。
「帰ったんじゃないの?」
「・・・帰れると思うか?」
「帰りたかったら帰ればいいじゃない」
「まだ帰んねえつもりかよ」
「・・・いいじゃない、別に」
「よかねーと思うけど」
 新庄を困らせてやろうとしたのかもしれない。困って困って、新庄の頭の中が自分の存在で満たされればいいだと思ったのかもしれない。 だからわざとこんなことをしていたのかもしれない。だけどどう考えても新庄は困っていると言うよりは呆れているようにしか 見えなかった。
「何がダメだって言うの?新庄くんだって一回見捨てて帰ろうとしたくせに」
「・・・夜だし危ないやついるかもしんねーし寒みいし帰りたくねーなんて何かあったんじゃねーかとか思うだろうが」
「心配した?」
 塔子はばっと顔を上げて新庄の目を見つめた。心配してくれたんだったら全部水に流してあげてもいいと思った。
「するだろ、普通は」
「本当?」
「嘘言ってどうすんだよ」
「どれぐらい心配した?」
 新庄は眉をひそめた。実際のところフェミニストでも何でもなかった。女に対して特別優しくすることを心がけているわけでもなかったし、 女性に手を上げちゃいけない本当の理由を明確に理解しているわけでもなかった。ただ何となく、絶対にそれだけはしちゃいけないんだ、そう 漠然と思っているだけだった。塔子を見捨て切れなかったのだって、純粋に危ないかもしれないと考えたからで。 自分のことを世にも優しい男だと思い込んでいそうな塔子に段々申し訳なくなってきた。
「すげー心配した。ここ戻って来るまでの間ずっと八木のこと考えてた。でもそれが当然だ、悪いけど俺は優しいわけじゃねえよ」
 塔子は瞬間的に目を丸くした。そしてまた、さっきよりもうんと安心しきったような、深みがあるような、そんな笑顔をお披露目したのだった。
「何も分かってないのね、本当はそういうのを優しいって言うのよ」
 本当の優しさ。新庄には何のことだかさっぱり分からなかった。だから首を傾げた。すると塔子はやけに穏やかな表情のまま言った。
「打算なんてないんでしょう?素直に行動してるだけなんでしょう?それ以外の何を優しいって言うの?優しいって言葉の意味を 履き違えてんのよ、世の中」
 別に世の中のことなんて知ったことじゃなかったけど、まるでずっと伝えたくて待っていたことを話すみたいにすらすらと口が動いた。 新庄を目で追うという能動的な習慣の中で、塔子の思想はめきめきと育って行った。塔子は新庄の存在をもって優しさというものを定義した。 それがもし間違っていようと大した問題じゃなかった。そもそも何が正しいことなのかぐらい自分で判断出来る。だから、塔子は自分の一日を 信じた。毎日を、日常を、自分を信じた。そして、新庄慶を信じたのだ。不思議なぐらいたった一人の人が全てだった。人間はそうやって滅んでいく のかもしれないと思った。だけどそれが愛するということなのだと塔子はもう少しで気づきそうだった。
 赤星の嫉妬や憎しみ。あるいは関川と湯舟の苦悩とか。朝と夜があって、寒さと暑さがあって、光と影があるように、愛というもの もまた、穏やかなだけじゃない。そういうことに気づきそうな多感な時代を塔子は精一杯生きている。
「どうするつもりだよ」
「どうするって?」
「ずっとここにいるつもりか?」
「そうね、それでもいいかな、新庄くんがいてくれるんだったら、別に」
「・・・そういう問題じゃねーだろ」
「わたしにとってはそういう問題でしかないの」
 塔子の頑ななまでの言い回しに圧倒された新庄はそれ以上何も言えなくなってしまった。バス停のデジタル時計は二十三時 すぎを示していた。何だってこんなことになっているんだろう、新庄はほとほと疲れ果てた。そう遠くないところへ塔子を 送っていくだけだったはずが、こんな場所で何をしてるんだろう。塔子を送ったら自分も家へ帰って温かい布団で眠るつもりだったのに。 そう思いつめていた矢先、新庄ははっとした。安仁屋をここへ呼べば今度こそ絶対に全てが解決するじゃないか!どうしてもっと早くに 気づかなかったんだ。呼びつけた安仁屋に後を任せてしまえば家へ帰れるんだ。
「安仁屋に電話しよう」
 膝の上に頬杖をついていた塔子がしらけた表情で振り向いた。それからしばしつまらなさそうに新庄を見つめていたかと思うと どうでも良さそうに口を開いた。
「新庄くんも案外安直なのね」
「安直って?」
「どうして安仁屋くん、恵ちゃんの名前が出てくるわけ?」
「・・・どうしてって言われると困るな。何となく思いついたから」
「何となくね。御子柴くんでも川藤先生でも若菜くんでもなくて何となく恵ちゃんだったんだ」
「そんなの、川藤はともかく御子柴とか若菜のこと思いつく方がおかしいだろ」
「おかしくないわよ全然」
「おかしい」
「おかしくない」
「おかしいだろ、安仁屋呼べばいいんだから」
「おかしくないわよ、ちっともおかしくなんてないんだから」
 これ以上口を聞きたくないとばかりに塔子が顔を逸らした。そんな態度に面を食らった新庄は塔子の横顔をまじまじと見つめてしまった。 何だか良く分からないけど完全に怒らせてしまったようだった。だけど安仁屋だけが救いだった新庄にその理由が分かるはずもなく。 安仁屋を呼び出すことがこの場において一番いいアイデアだったのだから。それにしても、世界中の誰もが名案だと称するはずだと 思っていた新庄はすっかり意気消沈だった。
「寒い」
「・・・俺だって寒みい。マジで帰ろーぜ」
「・・・帰ればいいじゃない。学ランだって返してあげるわよ」
「ああ?いらねえよ」
「着なさいよ」
「いらねえ」
「寒いんでしょ!だったら着ればいいじゃない!んでもって勝手にどこへでも帰ればいいのよ!」
「な、何なんだよ一体・・・」
 塔子が何を思っていようと新庄からしてみれば突然始まったヒステリー以外の何ものでもなかった。他人の気持ちをすんなり読み取る ことが出来ればきっと世界は今よりもずっと平和だっただろう。何もない、静寂に満たされた平和。それがもし平和と呼べたらの話だけれど。 二人はむっつりと黙りこくっていたけれど、今度は新庄が突然にアクションを起こした。すっくと立ち上がった新庄を塔子は咄嗟に 見上げた。次は一体どんなことを思いついたんだろう?
「行くぞ」
「ど、どこへ?」
「俺んち」
 そう告げるなり新庄は背中を向けた。塔子はその突発的な出来事により考えることもままならないまま思わずその後を追う。
「ちょ・・・ちょっと待ってよ!」
 叫び声は空気を切り裂くように響き渡ったけれど、新庄は振り返ろうとさえしないまま言った。
「あんなとこいたってらちがあかねえ。終電間に合うだろ」
「け、けど迷惑でしょ?」
 迷惑!新庄はそう叫びたい気持ちをどうにか押さえ、すぐ隣まで追いついて来た塔子をぎょっとして 見やった。迷惑ならもう散々かけられているじゃないか。塔子は上目遣いで心から申し訳なさそうな表情を呈していた。
「家帰りたくねーんだったら他に当てがねーだろ。それともファミレスのソファで我慢するか?」
「やだ、それはごめんだわ」
「なら俺んち行くしかねーだろーが」
「見捨てたっていいのよ。それも選択肢の一つだもの」
 新庄はつんと顔を背けた。新庄にだって意地ってものがあった。それがどんな類のものなのかなんてことは知ったことじゃなかったけど、 ここまで来たというのに投げ出してしまうだなんてのは何となくしゃくだと思った。簡単に言えば片意地を張った。




 乗客がほとんどいない終電に乗った。乗車するときに酔っぱらった中年の男が塔子にぶつかって来た挙句いちゃもんを吹っかけた。 けれど男は新庄の睨み一つで大人しく別の車両に移って行った。二人がいる車両には誰もいなかった。ぽつんと二人きりだった。 まるでこのまま別の世界に連れて行ってくれるみたいだと塔子は思った。見慣れた地名の看板が幾つか目の前を通り過ぎた。




 呼吸を整えようとして行った深呼吸はどうやら無駄に終わったらしかった。それが緊張からなのか、はたまた全く別の種類の興奮から なのか、塔子自身よく分からなかった。ドアを開けたままの状態で立っている新庄が自分の侵入を促していることに気づいた塔子は 慌てて玄関の敷居を跨いだ。
「・・・おじゃまします」
 丁寧に靴を脱いで部屋に上がった。自分の家のものとは違う匂いがした。それからきょろきょろと辺りを見渡した。新庄が暖房の スイッチを入れる。小さな部屋で、 だけど人が住むために必要なものは一通り揃っていそうで、想像していたよりも整理整頓が行き届いていそうだった。ここが新庄の 生活の場。ここから全てが生まれているんだ。何だか、衝撃的だった。
「一人暮らしだから」
 そわそわしている塔子を気遣ってか新庄が言った。それを知っていた塔子は特に驚くこともなく「そうなんだ」と返した。 一人暮らしだってことを知らなかったらもっと丁寧に遠慮していた。
 さて、これから一体どうなるんだろう?ここへ来ることを提案し、実行した新庄ではあったが、色々と困惑気味だった。 こんな夜分に女の子を、しかも友人の幼馴染で、恐らくは彼女という立場にいる女の子だ、そんな塔子を招き入れるなんて とんでもない暴挙に出てしまった。新庄は早くも後悔しつつあった。しかしそんな 新庄を置いて、塔子は狭い部屋の中をあちこち観察することに夢中になっていた。
 流しも冷蔵庫も、ちゃぶ台もタンスもテレビも、 何もかもどこにでもありそうなものばかりだった。目新しいものなんてどこにもなかった。それなのにこの部屋にあるというだけで 特別なものに思えてならなかった。塔子にとって全部が特別だった。何でもない普通のマンションも、この街も、二人きりの車両も、 大都市の上にあった空も、全部。塔子はふと振り返ってこの部屋の主を見やった。新庄がいるから、たったそれだけの理由で全てのもの がこんなにも特別に見えてしまうんだ。戸惑うように瞬きをする目を見ながら塔子は強烈なまでにそう思った。 いきなり電話が鳴ったのはそんな時だった。
「ハイ。・・・ああ、帰ってるとっくに」
 新庄のうざったそうな表情を確認した塔子には受話器の向こう側に誰がいるのかすぐに分かった。どうせ赤星に決まってる。 分かってしまったことに腹が立った。
「誰もいねえ。・・・来んな、来たら二度と家上げねーからそのつもりでいろよ」
 新庄は一方的に電話を切った。全くごちゃごちゃとうるさい後輩だ。塔子はしれっと通話の成り行きを見届けてから、ちんまりと ちゃぶ台の前に腰を下ろし、自分がまだ新庄の学ランを羽織っていることを思い出したふりをした。
「これ、ありがとう」
 もう手放さなければならない。大きな学ランを肩から下ろすのが寂しかった。新庄は今やっと学ランの存在に気づいたみたいに 「ああ」と呟いた。
「・・・赤星くんなんでしょ、今の電話」
「・・・そうだけど?」
「つき合ってるの?」
 どうでも良さそうにそう言うと新庄がみるみる内に頬を赤くした。塔子はその表情の変化に見惚れてしまいそうになった。けれど この変化を生んだのは他の誰でもない赤星なのだ。そう考えると無性に悔しかった。だから見て見ないふりをした。本当は可愛いだとか、 素直ねだとか、抱きしめたいだとか、そういう賛辞送りたかったのに。
「どうなの?」
「そ、そんなわけねーだろ」
「嘘」
「嘘じゃねえよっ!」
「何よ、そんな大声出さなくたってちゃんと聞こえてるわよ!」
「・・・わ、悪い」
 途端に空気が重くなった。さっきからずっと、二人の間に流れる空気はひどく不安定だった。新庄はそのことにちゃんと気づいていたし、 塔子に至っては、どうしてもっと上手くやれないんだろうと見事なまでに自分に腹を立てていた。
「・・・つき合ってないにしろつき合ってくれとは言われてるんでしょ、どうせ」
「そ、そんなんじゃねえ」
「隠す必要なんてないわ、そもそも隠せてなんてないんだから」
「・・・だからそんなんじゃねえっつてんだろうが」
 新庄はたちまち眉間にしわを刻み、荒っぽくベッドの上に腰を下ろした。これまで散々塔子に振り回されていたが新庄だってしがない 庶民でしかなかった。自分にはそんな趣味はないのだと、しっかり主張しなければなるまい。さて、一体どこから説明すればいいん だろう?そう考え、必然的に思い出さなければならなかったのは赤星の、狂気じみた言動の数々だった。新庄はまた真っ赤になる。
「い、色々と誤解してるみてーだけどな、俺にんなおかしな趣味はねえ。赤星が勝手に・・・」
「・・・聞きたくない」
「・・・ああ?」
「聞きたくないって言ってるの」
 新庄は愕然とする他なかった。こんなしたくもない話を最初に持ち出したのは塔子だというのにこの有様だ。 一体どうしろってんだと新庄は心底叫んでやりたかった。しかしながら塔子の表情ときたら目を背けたくなるぐらい に不機嫌そうで、しがない少年の叫び声がこだますることはついになかった。ただ少年は思わず小さな声で毒づいてしまった。
「自分から言ったんじゃねえか・・・」
「何、何か言った?」
 ぎろりと睨まれた新庄は突発的に立ち上がった。それから、果たして自分は何のために立ち上がったのだろうかという苦悩に数秒を 費やし、その結果偶発的に思い出したのが冷蔵庫の中に入っているプリンのことだった。しかし彼とてまさかプリンごときでこの情勢を 改善出来るとは考えてはおらず、溺れるものはわらをもつかむという心理状態に陥っているだけに過ぎなかった。よって新庄は 苦し紛れに言った。
「・・・プリン食うか?」
「・・・何で突然プリンなのよ」
「な、何でって・・・」
 ご機嫌取りだと言えるわけもなく、新庄はただ苦々しげな表情をさらして首の後ろをかいた。
「食べるわよ」
「い、いや、無理して食うこたねえけど」
「無理なんかしてないわよ、バカ!食べるって言ってんだから食べるのよっ!」
 塔子の迫力に負けた新庄は「わ、分かった」と告げて大人しくプリンを目指した。忘れていたとは言え大好きなプリンを人に譲ると いうのはかなりの難業であったのだが、新庄は渋々プリンに別れを告げることにした。さよなら、プリン。
 悲観しきっている新庄を差し置いて塔子はすっかりプリンの甘さに酔いふけり、プリンがおいしいことぐらいは熟知しているつもり だったのだが、それにしてもここまでおいしいものだったのだろうかと思うほどだった。甘くて甘くて、体の芯から溶けていきそうだった。 こんなにおいしいプリンが食べれるならハンバーグセットのことなんて全部忘れてあげようと思った。あんな、どこの誰が作ったかも 分からないハンバーグなんかより、何千倍だっておいしい。何だか涙が出そうなぐらいそう思った。このプリンだってどこの誰が 作ったのか分かったものじゃなかったが、そんなこと考えもしなかった。新庄の部屋で新庄にもらって 食べたこのプリンよりおいしい食べ物なんてもう二度と食べることは出来ないんだろう、と痛いほどに思ったのだ。めっきり上機嫌になった塔子は にっこりと笑ってスプーンを差し出した。ぎょっとしたのはもちろん新庄だった。
「・・・あ?」
「すごいの、すっごくおいしいの!こんなにおいしいプリン食べたことないってぐらい」
 そう言ってまたプリンの乗ったスプーンを突き出してくる。新庄は目を見開いてうろたえた。べらぼうに称賛されているものの、 それはスーパーで売られていたそれこそどこにでもあるだろう普通のプリンだった。しかしこれ以上また塔子の機嫌を損ないたくなかった新庄は まごまごしい動作でスプーンを手に取ろうとした。するとどうやら、それが気に入られなかったらしい。途端にしかめっ面になった 塔子がわざとらしいくらい低い声で「あーん、しなさいよ」と言ったのだった。逆らうと再びヒステリックが巻き起こるのだろうと いう予想を弾き出した新庄が逆らえるわけもなく、顔を引きつらせながらも大人しく口を開いた。
「・・・おいしい?」
「・・・おいしい」
 その声を聞き届けた塔子はほっとして、心からの笑みをたたえた。自分がおいしいと思うものをおいしいと思ってほしかった。 何か一つぐらい分かち合いたかった、それがたとえプリンたった一つだったとしても。「甘いもの好き?」と訊ねると新庄がこくりと頷き、その仕草が とても子どもっぽく見えた塔子は「わたしも大好き」と何かを愛するような声で言った。甘いものはきっと、世界を救う力を持っている んだ。
 あらゆる意味でちぐはぐだった二人はプリンのおかげでようやく落ち着きを取り戻し、その別々の意識の中で薄々同じようなことを 考えていた。
「風呂入るか?」
 新庄が言った。直接的な表現が何となく照れくさかった。
「いいの?」
 塔子はたっぷりと間を開けて答えた。新庄の言った台詞に込められた意味合いを推し量った結果だった。
「いいよ」
 この会話から今晩は泊まることになるのだという結論をそれぞれが完璧に導き出した。それから二人は交互にお風呂に入った。 新庄がお湯を張ってくれて、着替えも用意してくれた。新庄の服はやっぱり大きかった。ハーフパンツらしいものが塔子には立派な 長ズボンになっていた。新庄は先に寝てていいと言い、ベッドを宛がってくれた。新庄がお風呂に入っている間、塔子はベッドの上で そわそわしながらテレビを見たり、小さな部屋をあちこち鑑賞したりしていた。時計はなるべく見ないようにした。
「寝てろっつったのに」
 振り返るとバスタオルで頭をがしがし拭いている新庄がいた。塔子は「うん」とだけ返し、ぼんやりと新庄の姿に見入った。 風呂上りの新庄はまるで知らない少年みたいだった。胸が痛くて痛くてたまらなかった。新庄はクローゼットから毛布を引っ張り出して 言った。
「電気消すぜ」
「うん」
 パチンという音と共に本来あるべきだった闇が訪れた。暗闇がこんなにも優しいものだったのだと塔子は知った。
「ねえ、秘密の恋の話聞かせてよ」
「・・・言ったら秘密じゃなくなんだろ」
「赤星くんには言ったくせに」
「あいつは・・・」
「・・・あいつは、何だって言うのよ」
 特別なんだ、きっと。そう思うとまた赤星のことがどうしようもないほど憎らしくなった。本当にどうしようもなかった。赤星が 悪人じゃないことぐらい分かっていたけれど、どんな悪人なんかよりも憎むべき存在だった。塔子は自分の中にある見たこともなかった みにくさにひどく戸惑った。どうして、こんなみにくさを持ってしまったのだろう。
「聞かせろってうるさかったんだよ」
「だったらわたしだってうるさくするわよ?」
 観念したとばかりに大げさなため息をついた新庄がゆっくりと語り始めた。
「・・・幼稚園ときの話。先生が好きだった」
「それって、初恋?」
「多分な。初恋で、結婚しようっつった」
「プロポーズしたの・・・?」
「した。本気で、あんときは人生かけた」
「先生の返事は?」
「うんいいよって言ってたな」
「それで、その後は?」
「その後も何も、結婚して辞めてった」
「・・・最低ね、その先生。信じらんない」
「最低っつうか、そういうもんだろ」
「最低よ、最低に決まってるわ!何がそういうもんですかっ!人生かけてたんでしょ!?」
「ま、まあそうだけど・・・すげえ、バカみてーにマジだった。好きすぎて死にそうだった」
 いつもと違う状況だからか、それとも優しい暗闇のせいだったのか、新庄はいつもより少し饒舌だった。塔子には憎まなければ ならない人が増えつつあった。そして自分のみにくさが惨めで、仕方なかった。
「どんな人だったの?」
「・・・きれいで、優しくて、何つうか・・・春みてえな人」
 新庄の声がゆっくりと部屋の中に注がれる。塔子は新庄の声が形作った春という季節を思い起こした。暖かな光、雪解け、花々の芽吹き。 頭の中に美しい言葉の数々が浮かんだことによって、新庄がどれほどその先生を愛していたのかを悟ってしまった。春、そう称される ことは名誉だ。だから塔子はある疑惑を持ち、それをどうしても見過ごすことが出来なかった。口にすれば後悔することぐらい 目に見えていたのに。
「・・・その先生のこと、今でも好きなのね?」
 言ってしまった。後悔は早くも塔子に襲い掛かる。新庄はしばらく沈黙を貫き、そして言った。
「何で分かった?」
「・・・忘れてたらわざわざ秘密にする必要なんてないもの」
「そーか。・・・バカみてーだろ」
「・・・どうしてそんな言い方するのよ」
「だって顔もちゃんと覚えてねーしどこにいんのかも分かんねーんだぜ」
 それでも好きだという思いが確かに今ここで生きている。塔子には羨ましくてたまらなかった。顔も覚えていない、どこにいるのかも 分からない。それでも、その先生は春のような温かさで新庄の心の中に居座り続けているのだ。他の誰でもない、新庄慶の心に。
 色んな思いが生まれては駆け巡った。新庄が今も思いを寄せている先生の顔を見てみたい。やっぱり見たくなんてない。羨ましさと 憎さ。心臓が誰かの手に締めつけられているみたいだった。苦しくて息をするのがぎこちなかった。思わず苦しいんだと訴えそうに なった。どうして、いつから自分はこんなにみにくくなってしまったんだろう、そう思った。新しい自分を見つけてしまったような、 あるいはこの瞬間生れ落ちてしまったような、みにくい自分。知ってしまったのだと思った。恋をすることがどんなに苦しいかと いうことを、そこにある隠し切れないみにくさも、本当の恋も。知らなければただ静かなる幸せに溺れて生きていくことが出来ただろう。
「好きなの、わたし」
 塔子は初めて静寂の中に向け真実を言った。新庄は数秒後、こう返した。
「安仁屋だろ、分かってる」
 そのあまりにも真っ直ぐな声に塔子は思わず目をきつく閉じた。
「・・・違うの、わたし新庄くんのことが好き」
「・・・バカ言うな」
「バ、バカって言った、今バカって言ったわね!?ひどい、何それ・・・!」
「だっ、おかしなこと言うからだろっ・・・」
「・・・おかしなことなんか言ってない、おかしなことなんか、一つも言ってないわ。それとも何?人を好きになるのがおかしなことだって 言うの?」
 ただ静かなだけの愛情。そんなものに何の価値があるのだろう。みにくくても、惨めでも、罪深くても、好きになってしまった、 一体それのどこがおかしなことなのだろう。
 あのとき守りたかったものはこの思いだったのだ。屋上という空に近い場所で、叫ぶことによって守りたかったもの。それは誰にも気づかれることなく 大切に大切に育ててきた新庄への思いだった。自分じゃない誰かに、簡単に口にして欲しくなんてなかった。
「おかしいだろ、相手間違ってる」
「おかしくないし間違ってもない」
「おかしいし間違ってる」
「間違ってなんかないわよ!」
「安仁屋はどうなる?」
 その一言は優しくもあり冷たくもあり、反論する余地などとうていどこにもなかった。
「そうね・・・理屈で恋愛出来たら楽だった」
 みんなバカみたいに恋をしている。不良である関川が陽だまりのように笑う恵子ちゃんに恋をした。生徒である湯舟が 真弓先生に。男である赤星が新庄に。十六歳である新庄がもう顔も覚えていない人に。そして塔子は幼馴染の親友に、そしてその幼馴染である 安仁屋が世界の終りを願ったほどに他の誰かを思う塔子に。みんななんてバカな ことをしているんだろう。なんて愚かなんだろう。どうして恋は理屈じゃないんだろう。答えは簡単だった。みんな、生きているから。
「・・・たとえおかしくても間違ってても、好きなの、好きなのよ、本当に。勝手になかったことにしようとしないで、そんなのは、嫌」
「・・・あいつはちゃんと好きだよ八木のこと。もうしねえよ・・・昔みてーなことは」
「・・・何、それ、恵ちゃんが女遊びばっかりするから新庄くんに乗り換えたとでも言いたいわけ?」
「んなわけじゃねーけどよ・・・」
 塔子は枕を投げた。力と怒りと、ありったけの思いを込めて。
「わたしの顔見なさいよバカ」
 新庄がゆっくりと起き上がる。自分がもし新庄の大好きな先生だったら、今ごろきっとハッピーエンドを迎えていたに決まってるんだ。 塔子はそんな無意味なことを考えた。無意味すぎてバカバカしかった。人間とはそれほどまでに愚かだった。受け入れられることが ないのならもう何がどうなっても、全てが無意味なのだと思った。大好きな人にこの思いさえなかったことにされようとしているのだから。
 塔子は突然思い立ったように立ち上がった。新庄は大いに眉を寄せた。
「わたしもこっちで寝る」
「な、何言ってんだバカ・・・!」
「さっきからバカバカってバカばっかり言わないでくれる!?」
「わけ分かんねーことするからだろうが!」
「何よその言い方、女の子に対してそういう言葉遣いしていいと思ってるの?」
「わ、悪い・・・つうかマジで勘弁してくれ・・・」
「傷つけた罰だわ」
 女性が持てる権利を総動員し、塔子は強く言った。新庄はどこでどれぐらい傷つけてしまったのかよく分からなかったけれど、少し考えてから答えを出した。 別に一緒に眠るだけだ、何かをするわけなんかじゃない。簡単な話、今にも泣き出しそうな顔で傷ついたことを主張した塔子を 拒絶できるほど新庄は大人じゃなかった。
「わ、分かった、とにかく朝練があるから寝よう」
 あと数時間で朝日が昇る。朝になれば、きっと何もかもが元に戻っているはずだ。新庄はそんななけなしの可能性に縋るしかなかった。 それもまた愚かなる人間の習性だった。
「抱きしめて」
 塔子の声色は異常なほど張り詰めていた。どうすれば、拒絶することが出来ただろう?新庄はためらいがちにでもそうするしかなかった。 自分よりも遥かに小さく華奢な体をそっと腕の中に迎え入れる。それはとても抱きしめているとは言えないようなやり方だった。
「もっとちゃんとよ、苦しいぐらい」
「壊れそう」
「壊せばいいわ」
 出来る限りの遣り取りだった。普通じゃないことをしている自覚などすずめの涙ほどしかなかった。目の前のことで精一杯だった。
「好きよ」
「安仁屋のことがだろ」
 そうでなければならないのだと言うように新庄が言い切った。まるで、真実を抹殺するようだった。新庄の腕の中は世界一 温かくて、冷たい場所だった。小さな毛布を分け合う二人がベッドで眠ればいいのだということに気づくことはなかった。
「好き」
 しばらくして塔子はもう一度告げた。けれど新庄はもう眠りの中にいるようで、その声が届くことはなかった。女の子を抱きしめながらよくもまあ おちおち寝ていられるものだと、塔子は少し新庄の神経を疑った。それから新庄と同じ場所へ行きたくて目を閉じた。 あれだけ罵った神さまへ、朝なんてもう二度と見たくないのだと訴えながら。この温かくて冷たい腕の中で永遠に眠り続けることが 出来たなら。
 それでも、太陽は何事もなかったかのように昇った。




 目覚めたとき新庄が目の前にいることにまず驚いた。それから嬉しくなり最後には泣きたくなった。遂に、朝が来てしまったのだ。 抱きしめてくれていた腕は解けいる。誰かが眠っていることによって人はこんなにも寂しい思いをしなければならないんだ。塔子は 自分の方が先に起きてしまったことが悔しかった。新庄の頬に指先だけで触れる。瞼にも、睫毛にも、唇にも指先は触れた。 まるで二度と触れることは出来ないのだと、達観しきっているようにゆっくりとした動作だった。もう二度と叶わないならこのまま永遠に 触れていたかった。だけど、それさえもが叶わないこと。朝が来てしまったから、太陽が柔らかくて意地悪な光を部屋に注ぐから、 世界は回り続けるから。何度か名前を呼ぶと新庄の目が薄く開き、塔子はそうしたことによって本当の朝がこれから始まるのだと思った。
「おはよう」
「はよ・・・」
 眠りの中と現実との間を彷徨う、ぼんやりとした表情だった。
「・・・何時?」
「六時だよ」
「あと三十分寝れる・・・」
 新庄は頭まで毛布を引っ張った。そうはさせてなるものかと塔子は大きな声で言った。
「ダメよ、ダメダメ、絶対にダメ!」
「・・・十分だけ」
「ほら、起きて、天気がいいんだから」
 毛布を引きはがそうとすると、新庄はそれに抵抗する。むっとして「今すぐ起きなかったらキスするわよ」と言うと新庄が勢いよく 上半身を起こした。そこまですばらしい反応、しなくていいじゃない。そう思った。
 二人はトーストを食べた。それを焼いたのは新庄だった。塔子は牛乳を注いだ。それから交代で顔を洗い歯を磨いた。塔子はちゃっかり 化粧することを忘れなかった。十分で済ませた自分を褒めてやった。そしてそろそろ、この普通ではなかった奇妙な時間も終りを向かえる のだろうと二人が別々の意識の中で思っているとき、塔子がおごそかに声を出した。
「わたしはどうすればいいの」
「・・・何が?」
「好きな人に好きだって言って、それをなかったことにされたのよ」
 新庄が俯いた。さっき触った睫毛が塔子の目に映った。
「それは・・・」
「何も分かんなくなったの。この先どうやって生きていけばいい?」
「・・・普通に、今まで通り、安仁屋を好きでいればいい」
「今まで通りってどういうことよ?一体何回言わせる気?今わたしが好きなのは誰?」
「安仁屋が、かわいそうだ」
 新庄が顔を上げ真っ直ぐに目を見つめてくる。何の混じり気もない、子どもみたいな眼差しだった。塔子は自分のみにくさを全て見抜かれて しまっているようだと感じた。新庄の言うとおりだった。安仁屋の隣にい続けるべきだということぐらい誰よりもよく知っていた。 二つの家族までもがそれを望み、それを信じ、そして新庄までもがそうあるべきなのだと主張するのだ。
「・・・自信ならあったわ、それぐらい強いと思ってた。だけど見つけちゃったのよ、自分の弱いところを」
 そう言いながらも塔子は本当にそうなのだろうかと考えていた。本当に強かったのだろうか?本当に弱くなったのだろうか?本当は 全く逆なんじゃないだろうか?何も知らずに生きていた。恋をすることがどんなに苦しいことかなんて知らずに生きていたのだ。 人を憎むことも、自分を惨めだと思うことも、朝を恨むぐらい誰かを好きになったこともなかった。 ただ静かなだけの愛が何だって言うんだろう?何も知らず、何も見えていない、空っぽの愛。しかし、たとえどれだけ痛烈に 求めたとしても新庄が受け入れてくれることはない。安仁屋は新庄の親友だから、ただそれだけのことだった。ただそれだけのことが 重い鎖のように塔子の体に巻きついている。
「大丈夫だよ、きっと」
「本当に?本当の本当にそう思う?」
「思う」
「だったら、キスして」
 また塔子の目に新庄の睫毛が映った。
「何で・・・」
「罰よ」
 沈黙が続いた。しばらくして、目を伏せたままの新庄が床に片手をつき、拙い動きで塔子の唇にキスをした。ほんの瞬間だけ 触れ合った唇の泣きたくなるほどの温かさが塔子の中に浮き彫りにしたのは、それを自分だけのものにはどうしたって出来ないのだというやり場のない 悲しみだった。新庄は顔を近づけるときそうしたように離して行くときも決して塔子と目を合わそうとしなかった。そして、 小さな声で言った。
「もう行こう、朝練遅れる」
 塔子は部屋を出るとき一度振り返った。この場所で巻き起こった普通じゃない出来事に縋って生きなければならない。 赤星と新庄が共有していた秘密が秘密とは呼べなくなったこと。プリンと毛布を分け合ったこと。内緒で触れたこと、キスをしたこと。 愛する人と迎えた最初で最後の夜明けを。
「わたしたち二人だけの、秘密ね」
 晴れ渡った空の下でそう言うと、新庄は戸惑うように一度唇を噛みしめてから頷いた。この秘密があれば生きていけるのだ。塔子は そうこじつけ、それにすがり、それだけを抱きしめて生きていく。
「誰も知らなくていい。だけど新庄くんだけは知ってて、忘れないで」
 何でもない日常に戻っても、どうか覚えていて欲しい。




 学校では相変わらず関川も湯舟も愚かなる恋に悩まされているようだったし、赤星は塔子の視界のすみにちらついた。 素っ気ない態度を貫こうとしている割にはよくちょっかいを出してくる安仁屋もいつも通りだった。そして新庄の心の中には初恋の 先生がいるのだろう。みんな恋をしていた。
 どれだけ苦しくても、新庄への思いはずっと生き続けた、痛いほどの生命力で、塔子の心に。